表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本音。  作者: 外野透哉
10/17

第十通「件名:趣味に付き合ってくれてありがとう」

 翌朝のホームルーム。


 重たい空気は、まだ教室の隅々に沈殿したままだった。

 昨日剥き出しになった感情の残滓が、机や椅子、窓際のカーテンのひだにまで絡みついているようで、ただ座っているだけなのに胸の奥がじわりと痛む。


 誰も大きな声を出さない。

 椅子を引く音さえ、どこか遠慮がちだった。


 慎司が教卓の前に立ち、いつも通り出席簿を開く。

 その何気ない動作すら、この数日で妙に形式的な儀式のように見える。


 名前を呼ばれ、短く返事をする。

 それだけのやり取りなのに、

 ここにいない一人の存在だけが、やけに重く感じられた。


 出席確認が終わる。


 けれど、誰も次の言葉を発しない。

 まるで全員が、同じ"続きを誰かが始める瞬間"を待っているみたいだった。


 沈黙。


 その静寂を破ったのは――


「じゃあ私が……」


 水野みずの 紗奈(さな)だった。


 小さな声。

 けれど逃げない響き。


 数人がはっと顔を上げ、

 美里は値踏みするように目を細める。


 紗奈は両手でスマホを持ち、

 指先にわずかな震えを残したまま画面を見つめた。


 深く息を吸う。

 その呼吸音さえ、静まり返った教室でははっきり聞こえた。


 そして――読み上げる。


『件名:趣味に付き合ってくれてありがとう


私はアニメが好きで、よく話をしたよね。すっごく楽しかった。ありがとう。もっとアニメの話したかったな。』


 短い。

 あまりにも、短い。


 けれどその素朴さが、

 取り返せない日常の温度を、

 静かに教室へ広げていく。


 もし時間が戻るなら。

 もし、あの日の放課後に戻れるなら。


 そんな考えが――

 誰の胸にも一瞬だけよぎった気がした。


 沈黙が落ちる。


 責める言葉も、疑う声も出ない。

 ただ「終わってしまった会話」の余韻だけが残る。


 紗奈は顔を上げないまま、

 小さく唇を動かした。


「正直私も……美月ちゃんのことが……」


 ためらい。

 罪悪感。

 それでも吐き出したい衝動。


 その全部が混ざった震えだった。


 その瞬間――


 美里の体が、わずかに前へ傾く。

 続きを求める目。


「苦手だった……」


 空気が、きしむ。


()()?」


 食い気味の声。


 紗奈は目を閉じ、

 逃げ場を断つように言い直す。


「嫌いだった……!」


 教室のどこかで、

 誰かが息を呑んだ。


 一線を越える音が、

 確かに聞こえた気がした。


「そう!わかるっ!」


 弾んだ美里の声だけが、

 場違いに明るい。


「美人で頭も良くて完璧超人な感じが鼻につく」


 紗奈が止まらない。

 溢れ出した本当の気持ちは、もう戻らない。


「そう!よく言った!そうなんだよ〜」


 美里は嬉しそうに笑う。

 共感ではない。

 肯定でもない。


 解放だ。

 ずっと胸の奥に溜め込んでいた

 黒い感情を、

 誰かと共有できたことへの歓喜。


 しかし周囲は――凍りついていた。


 誰も同調しない。

 誰も否定できない。


 沈黙だけが、

 感情の存在を証明してしまう。


 珠紀は動けなかった。


 これは告白じゃない。

 連鎖だ。


 一人が越えた線を、

 また別の誰かが越える。


 そうやって、

 少しずつ戻れない場所へ近づいていく。


 慎司が口を開きかけ、

 だが結局何も言えず閉じる。


 教師として止めるべきなのに、

 止めれば"嘘"になると分かってしまったから。


 やがてチャイムが鳴る。


 *


 授業開始。


 黒板に書かれる文字。

 ノートを取る音。


 すべてが日常の形をしているのに、

 中身だけが決定的に違っていた。


 紗奈は終始うつむいたまま。

 美里は退屈そうに窓の外を見る。


 けれど見えないところで、

 何かが確実に崩れ続けている。


 放課後には何が起きるのか。

 次に壊れるのは誰なのか。


 誰にも分からない。


 それでも時間は進む。


 窓の外、冬の淡い光が校庭を白く照らしていた。

 静かで、冷たくて、

 まるでこの教室だけが世界から切り離されているみたいだった。


 まだ、終わっていない――


 珠紀は確信していた。


 本当に向き合うべきものは、

 もっと深い場所にある。


 これは、その入口に過ぎないのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ