第六通「件名:お世話になりました」
慎司の一言は、静まり返っていた教室の底に小石を落としたようだった。
波紋は、すぐには広がらない。
けれど確実に、ざわざわとした揺れが空気の奥で膨らんでいく。
「え、どういうこと……」
「先生にも、メッセージが……?」
戸惑いと動揺が入り混じった小さな声。
誰も大きくは言わない。
だが、その場にいる全員が同じ一点を見ていた。
――苅間 慎司。
慎司は数秒、何も言わなかった。
視線を落とし、手の中のスマートフォンを静かに握りしめている。
その沈黙は、
言葉よりも重かった。
「ああ」
短い肯定。
それだけで、教室の空気がさらに張り詰める。
慎司はゆっくりと画面を開き、
かすかに息を吸い込んだ。
教師としてではなく、
一人の人間として読む――
そんなためらいが、その仕草には滲んでいた。
『件名:お世話になりました
苅間先生、今までお世話になりました。
時には相談に乗ってくれたり、時には叱ってくれたり、先生がいたからこそ私は様々な壁を乗り越えられました。
本当にありがとうございました。』
読み終えたあと、
慎司はすぐには顔を上げなかった。
教室もまた、
誰一人として声を出せずにいた。
感謝の言葉。
ただそれだけの、はずなのに。
胸の奥に残るのは温かさではなく、
どうしようもない喪失の実感だった。
もう二度と――
この言葉を本人の口から聞くことはできない。
その事実だけが、
静かに、深く突き刺さる。
やがて、かすかな息を吸う音。
「……なんでずっと黙ってたんですか?」
美里だった。
震えてはいない。
だが、感情を押し殺した硬い声。
責めているのか、
縋っているのか、
自分でも分からないような響き。
慎司はゆっくりと顔を上げた。
その目には、これまで見せなかった疲労が滲んでいる。
「正直、瀬戸の死がまだ受け入れられていなかったんだ」
静かな告白。
「それは今も変わらない。けど……きっと理由があるはずだ」
言葉を探すように、
一度だけ視線が揺れる。
「俺もそれを見つけたい。瀬戸の無念を晴らしたい」
教師としての言葉。
だが同時に、
一人の大人の祈りにも聞こえた。
その瞬間――
教室の空気が、ほんのわずかに変わる。
疑いでも、恐怖でもない。
言葉にできない感情が、静かに混ざり合う。
けれど。
本当に、それだけなのか――
珠紀の胸の奥に、
小さな違和感が残った。
美月は、ただ感謝を伝えるためだけに
こんな形を選んだのか。
もし違うのだとしたら――
この教室にいる全員は、
まだ何も分かっていない。
終礼は、
それ以上大きな言葉もないまま終わった。
誰もすぐには立ち上がらない。
椅子の脚が床を擦る音だけが、
遅れて教室に広がっていく。
日常は続く。
けれど、その形はもう元には戻らない。
*
放課後。
校門へ向かう道を、
珠紀と沙希は並んで歩いていた。
夕方にはまだ早い、
中途半端な光の色。
影だけが、やけに長く伸びている。
「まさか、先生にまでメッセージが来ていたなんて」
沙希がぽつりと言う。
驚きというより、
現実を確かめるような声だった。
「そう……だね」
珠紀は短く答える。
それ以上の言葉が、見つからない。
沈黙。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
同じものを考えている――
そんな感覚だけが、静かに続いている。
ふと、風が吹いた。
制服の袖がかすかに揺れる。
――美月は、何を残そうとしているんだ
感謝の言葉。
優しい思い出。
それなのに、胸を締めつける違和感。
まるで――
何かを隠したまま別れを告げているような。
「……まだ、終わってない気がします」
沙希が小さく言った。
前を向いたまま。
独り言のように。
「うん」
珠紀は頷く。
理由は分からない。
けれど確かに、そう思った。
これは終わりじゃない。
むしろ――
すべては、ここから始まる。
傾きはじめた光が、
二人の影を静かに重ねていた。




