第五通「件名:あの時はごめんね」
翌朝のホームルーム。
教室に足を踏み入れた瞬間、珠紀は胸の奥がわずかに重く沈むのを感じた。
空気が、違う。
声はある。
人もいる。
いつも通りの朝のはずなのに――何かが決定的に欠けていた。
誰も大きく笑わない。
目が合えば、すぐに逸らされる。
会話は続かず、短く途切れる。
――昨日の、せいだ……
成弘の告白。
それは一人の罪の露見で終わらなかった。
疑いという形になって、
静かに、確実に、クラス全体へ広がっている。
席に着いても落ち着かず、
珠紀は意味もなく机の木目を指でなぞった。
そのとき。
「次、お前いけよ」
低く押し出すような声。
成弘だった。
昨日の中心にいたはずの彼は、
もう何事もなかったかのように振る舞っている。
いや――昨日の復讐なのかもしれない。
視線の先にいるのは太一。
「わかったよ」
短い返事。
だが、スマートフォンを取り出す手が、ほんのわずかに遅れた。
画面を見る。
その一瞬だけ、太一の表情がかすかに揺れた。
珠紀は気づく。
――今の……
だが、すぐに何事もなかった顔へ戻る。
『件名:応援してくれて嬉しかった
体育祭のリレーの時、わざわざ駆け寄って応援してくれて嬉しかった。ありがとう。』
読み終える。
……それだけだった。
静寂。
昨日のような動揺も、ざわめきも起きない。
拍子抜けするほど、何も起こらない。
「それだけか?」
成弘が言う。
どこか期待を裏切られたような声。
「これだけだ」
太一は肩をすくめた。
隠す様子も、焦りもない。
成弘は露骨につまらなそうな顔をして、
視線を窓の外へ逃がした。
――何を期待してるんだよ……
珠紀の胸に、ざらついた感情が残る。
暴かれることを、
どこかで望んでいるような空気。
朝のホームルームは、
結局それ以上何も起きないまま終わった。
*
一時間目。
教師の声が、遠くで反響しているように聞こえる。
黒板に書かれる文字。
ノートに写す手。
すべてが機械的だった。
内容は、ほとんど頭に残らない。
ふと窓の外を見ると、
雲ひとつない青空が広がっている。
――こんな日に……
美月はいない。
その事実だけが、
現実感のない重さで胸に沈み続けていた。
休み時間。
笑い声はある。
けれど小さい。
どこか様子をうかがうような笑い方。
会話の端々に、
名前を出さない何かが潜んでいる。
誰もが無意識に、
次に崩れる誰かを探している。
視線だけが動く。
言葉は出ない。
その空気に耐えきれず、
珠紀は何度も時計を見た。
時間が、やけに遅い。
そして――帰りのホームルーム。
静まり返った教室で、
一人の椅子が静かに引かれた。
「私が読む」
陽向だった。
昨日のやり取りを思えば、
誰かが自分から名乗り出るなど予想外だった。
だがその表情は、不思議なほど落ち着いている。
逃げるのではなく、受け止める側の顔。
スマートフォンを開く指は、
わずかに白くなるほど力が入っていた。
『件名:あの時はごめんね
私のデリカシーのない発言で酷く怒らせてしまったね。
ごめんなさい。
けど、そんな私と友達でいてくれてありがとう。』
読み終える。
陽向は、何も付け加えない。
「ちょっと待って、怒らせたって、なんのこと」
美里の声。
教室の視線が、ゆっくり陽向へ集まる。
陽向は一瞬だけ目を伏せ――
小さく息を吐いた。
「……大したことじゃないよ。
前、怒って無神経なこと言っちゃっただけ」
それ以上は語らない。
だが、
語られない余白だけが、
重く教室に残った。
沈黙。
誰も踏み込めない。
踏み込めば、何かが壊れると分かっているから。
そのとき――
椅子が、ゆっくりと引かれる音。
慎司が立ち上がっていた。
「みんな、ちょっと良いか」
低い声。
だが今までとは違う、
覚悟を含んだ響き。
視線が集まる。
慎司は数秒だけ黙り込み、
言葉を選ぶように口を開いた。
「実は……俺にも来てたんだ」
その瞬間。
教室の時間が、止まった。




