黒のエピローグ:Ⅲ
「……」
ラディスは放心状態でアヴェントの街を歩いていた。
去っていくイブリスをただ茫然と見つめることしかできなかった事への自責の念と、今まで積み上げてきたものが全て崩れ去ってしまったような感覚が同時に襲い来る。それらを抱えながら心の整理をつけるには、まだ時間が必要だ。
「あっ……ラディス様! 防衛戦、おつかれさまでした!」
「……」
「あ、あれ?」
すれ違う冒険者たちから定期的に声がかけられるが、ラディスはそれに返答する余裕もない。
やがて彼の足は、自然とサラたちが居る宿の元へと運ばれていた。
「ここは……」
ラディスは気だるげに2階建てのレンガ造りの宿を見つめる。あの並んだ窓の向こうのどこかにサラとフロワが居るはずだ。
一度、彼女たちと顔を合わせておかなければなるまい。彼の中にあるそんな考えが、無意識に彼をこの場に来させたのだ。
ラディス自身もそれは分かっている。だが、彼はここまで来て宿の中まで足を運ぶのをためらっていた。
――イブリスが言っていた。サラが自分の事を忘れているのは確認済みだと。
あれほどイブリスの事を慕っていたサラが、彼の記憶を失ってしまっているなど、考えたくもない。ラディスはそれを確かめるのを怖がっているのだ。
「……やめておこう」
まずは心の整理をつけなければ。ラディスは自分にそう言い訳をして、元来た道を戻ろうとする。
「あれ、ラディスさん?」
だが、運命はそれを許してはくれなかった。
「さ、サラちゃん!?」
ラディスが振り返ると、そこにはパンのバスケットを抱えたサラが居たのである。
「どうしたんですか、こんなところで? もしかして私たちのお見舞いに来てくれたんですか?」
「あ、ああ。まあそんなところなんだけど……」
「わあ、嬉しいです! きっとフロワちゃんも会いたいと思ってます! 私たちの部屋まで案内しますね!」
思いがけないラディスの訪問に、サラは満面の笑みを浮かべて駆け出していく。
こうなってしまってはもう帰るわけにもいかない。ラディスは軽くため息を吐きながら頭を抱えると、サラに続いて宿へ入っていった。
「もう、体調は大丈夫なのかい?」
「はい。さっきまでは少しふらつくこともあったんですけど、ひと休みしたら元気になりました!」
「……それは良かった」
部屋へ向かうまでの道中での軽い雑談。何でもない、こうして話している分にはいつも通りのサラだ。だが、彼女の中には……"彼"の存在は残っているのだろうか?
それを聞くこともできないままに、ラディスはただサラの後ろをついて行く。
「ただいま! おやつ買って来たよ! それとラディスさんがお見舞いに来てくれたよ!」
「……! 主様……!」
元気よく開かれた扉の向こうでは、フロワがベッドに横たわっていた。ラディスの姿を確認したフロワはベッドから降りると丁寧にお辞儀をする。包帯だらけではあるものの、日常生活に支障はなさそうだ。
「わざわざご足労いただきありがとうございます」
「いや……いいんだ。元気そうでなにより」
「ラディスさんも、良かったらパンどうぞ!」
「僕はいいよ。2人で食べるために買って来たんだろう?」
「遠慮しなくてもいいのに……はいフロワちゃん」
「ありがとうございます」
口を尖らせたサラからフロワへと、丸パンが手渡される。
やはり、いつも通りの2人だ。底なしに明るいサラも、大人しくパンをかじるフロワも、どこも変わった様子はない。仲睦まじく会話を交わす2人を見て、ラディスの心も不思議と安らいでいく。
「……2人とも」
そして彼は覚悟を決め、その話を切り出した。
「? どうしたんですか? そんなに真剣な顔して」
「……イブリスの事なんだけれど」
手探りでどこか怖がるように、しかし彼の名を強調しながら言葉を紡ぐ。
もしかしたら、カイリが気を使ってサラの記憶だけ消さずに残してくれているかもしれない。もしかしたら、意志の強いサラなら自力で思い出しているかもしれない。そんな淡い希望を抱きながら、ラディスはそこで一旦声を止めた。
「……イブリス? って……?」
「どうやら人名のようですが、主様のお知り合いでしょうか?」
……だが二人の返答は、彼のかすかな期待も虚しく打ち砕くものだった。
「……」
「って、あれ? ラディスさん?」
ラディスはその先を口に出すことができず、絶望の表情で頭を抱える。
何故、あんな期待を抱いてしまったのだろう。カイリは不真面目そうに見えて、一度引き受けた依頼をきっちりとやり通す男だ。それは自分も良くわかっているはずじゃないか。
「だ、大丈夫ですか!?」
「主様? どこかお体の調子でも……」
「……いや、なんでもないんだ。ゆっくり休んでくれ」
サラが心配そうにラディスの顔を覗き込み、フロワもベッドから降りてラディスのそばへと駆け寄ってくる。だがラディスはそんな2人をそっと振り払い、落胆したまま部屋の扉へと向かっていった。
後ろからラディスを呼び止める声が聞こえるが、その足は止まらない。
――もはや、この場に留まる理由はない。
「乙女かッ!」
『!?』
だが、ラディスが扉に手をかけようとした瞬間、おちょくるような怒号と共に扉が外から開かれた。
闖入者は部屋の入り口で、ラディスの退路を断つように仁王立ちしている。
「さっきまであれだけ怒ってたのに今度は露骨にへたばりやがって。情緒不安定か? サラちゃんのほうがよっぽどメンタル強いぜ」
口を挟む暇も無く降りかかる大量の嫌味。ラディスは俯いていて闖入者の顔は分からないが、この発言だけでその正体は容易にわかった。
「……何をしに来た、カイリ」
「おうおう、また怖い声になっちまって」
ラディスは静かに、道を阻む男の名を呼ぶ。
事情はどうあれ、彼はこの状況を招いた張本人だ。少なくとも今は、彼に対していい印象を持つことはできなかった。
「通してくれないか」
「そりゃこっちの台詞だぜ。後始末をつけに来た……部屋に入れてくれ」
カイリはそう言いながら、ラディスの返答を待たずに彼の肩を押しのけて無理やり部屋に入っていく。
"後始末"とは一体何のことだろうか? 2人の記憶が消えているのか確認にでも来たのか? 訳のわからぬまま、ラディスは部屋を出るのをやめてカイリの動向を見守る。
「あ、あの……何が何なのか全然わからないんですけど……?」
「心配するな、すぐにわかる」
そう、得意げに口元を歪ませたカイリの手に、一冊の本が出現する。カイリが記憶改ざんを行う時にいつも使っているあの本だ。
彼はその本を開くと左手で持ち、右手を振り上げる。すると右手には羽ペンが出現した。これも本とセットで使っているものだ。その行動が意味することは、"今からこの場にいる誰かの記憶を書き換える"ということ……
「……! やめろ!」
"自分の記憶も消される"。
瞬時にそう悟ったラディスは慌ててカイリに掴みかかる。だがカイリも素早く、止められる前に本へと"何か"を記述した……
「――!」
……それでもラディスから、イブリスの記憶は消えなかった。今、確かに記憶改ざんが行われたはずなのに。
なら、他の何かか? ラディスは自分の記憶から、どうにかして違和感を掘り出そうとする。
「……なんだよ剣聖サン。何か勘違いしてない?」
「え……?」
「別にあんたの記憶をどうこうしに来たわけじゃないっての。ただ俺は……」
「ラディスさん!」
カイリの言葉を遮って、サラが鬼気迫った様子でラディスに飛びついてくる。フロワの表情もどこか放心している様子だ。
「イブリスさんは……!? イブリスさんがどうしたんですか!?」
「サラちゃん!? 記憶が……?」
「私――私、どうして、忘れて……!」
サラは軽くパニック状態に陥っているようだが、その様子は明らかにイブリスの記憶が戻っていることを示している。
フロワは大人しくしているように見えるが、よく見ると放心状態に陥っているようだ。恐らく彼女にも記憶は戻っているのだろう。
「カイリ、まさか……!?」
「記憶を消してくれとは言われたが……消した記憶を戻すなと言われた覚えはねぇな」
カイリがいつものにやついた表情を浮かべたまま本を閉じると、本と羽ペンが一瞬で消え去った。
やはりこの悪魔はひねくれている。元よりこのつもりで街の人々の記憶を消したのか。肝心なところで予想外の行動をする男だ。
「主様……どうか、ご説明を」
どうにか心が落ち着いたか、フロワが少し震えた声で説明を要求する。
ラディスは頷き、サラをなだめ、事の一部始終を説明した。街の人々からイブリスの記憶が消えていること、2人も同じ状況にあったこと、そして……イブリスがこの街を去ったことを。
「……」
「……言葉は悪いようですが、愚かですね。せめて私たちにひと言かけていくのが義理というものでしょう」
サラは俯いて何も言わず、フロワは厳しい言葉を発する。但し彼女の声や仕草から、心の底から軽蔑しているわけではないことは明らかだ。フロワとて、このような形で街を去られたことには複雑な気持ちを抱いているのだろう。
「彼にも考えがあっての事だ。……だからといって僕も納得はいっていないけどね」
ラディスは腕を組んで不服そうな表情を浮かべる。そして窓際で外の景色をぼーっと見ているカイリへと目線を向け、問いかけた。
「君がこうして彼女たちの記憶を戻したと言う事は……あとは任せると判断していいんだね?」
カイリは外を見たままひらひらと片手を振って返答する。彼なりの"Yes"の意思表示だ。ラディスは少女たちの方へ向き直り、告げる。
「僕はこれから彼を追う。君たちはどうする?」
一度は絶望の底に落ちたが、今はもう心を決めた。イブリスを追うという決意を込め、2人の少女を真っ直ぐに見つめる。
それはこの街を出るという宣言に他ならない。再びあの悪魔たちと戦うと言う事に他ならない。
だからこそ、ラディスはついてこいとは言わなかった。きっと2人はこのままこの街で暮らしているほうが安全で、幸せだろうから。
「ラディスさん」
……最も、サラの答えは最初から決まっているだろうが。
「最初から"僕"じゃなくて"僕たち"って言ってくださいよ」
白の少女の瞳には、いつも通りの曲げない意思が宿っていた。





