黒のエピローグ:Ⅱ
「君、街の人たちからイブリスに関する記憶を消しただろ」
「……知らんね」
ラディスの質問に、カイリはしばしの沈黙ののち目を逸らしながらそう答えた。ラディスの眼光が一層鋭くなる。
「なに? 皆イブりんのこと忘れちゃってんの?」
白々しくそう言うカイリは再びソファに寝転がり、どこから取り出したのかヤスリで爪の手入れをし始めた。
「少なくとも"機関"の人間はね。たった今議会を終わらせてきたけど誰一人としてイブリスのことに言及しなかった。例の瘴気の件も皆口を揃えて『謎の瘴気』だとか『原因調査中』だ」
イブリスが統率者として振舞っていた現場を見たルツァリや、その後に駆けつけてきたアリムとミリスもイブリスの話は一切していなかった。アリムに関してはあの瘴気の調査が楽しくて仕方ないようではあったが。
無論あの瘴気の大元がイブリスであることは皆知っていたはずだ。昨日までは議会ではそれを本筋に話し合うことになっていたし、イブリスを呼びつける予定でもあった。ラディスはどうやってイブリスを擁護しようものかずっと頭を悩ませていたのだ。
「そりゃ不思議。じゃあイブりんが自ら消したんじゃあないのか? 黒属性魔法の中に"modificatioN"っつー記憶を改ざんできる魔法が……」
「彼の魔法の使い方を知ってるだろう。まさか真夜中に何発も銃声を鳴らしながら記憶を消して回ったとでも? そんなことをしたら全員の記憶を消す前に大騒ぎになるぞ。……そもそも彼は今厳重に監視されてるはずだ」
防衛戦の後、イブリスは元通りの人格へと戻っていたが、すぐにサラたちから引き離されて監視下に置かれた。理由は言うまでもないだろう。本人も特に抵抗することなく、"機関"へと連行されていた。(サラは泣き叫んでいたが)
牢にまでは入れられていないが、"機関"の一室で複数人体勢での監視。武器も没収されていたため、イブリス本人が行動を起こすことは不可能なのだ。
「わかるだろう? こんなことをできるのは……もう君しかいないんだよ」
「ああ、そうだな。俺がやった」
「……!」
その自白は、あまりにもあっさりとしていた。どうやら大して隠す気もなかったらしい。
「ッ! 何故こんなことをした!」
それまではかろうじて落ち着きを保っていたラディスが立ち上がり、声を荒げて机をドンと叩いた。わなわなと震える拳と荒い息遣いが、彼の動揺をよく表している。
「彼を守るための親切心だって言うなら大きなお世話だぞ!」
「俺がそんなお節介やくようなヤツじゃないって、あんたもよく知ってるだろ?」
「なら、何故!」
「頼まれたんだよ。本人にな」
カイリはソファに寝転んだまま、目線だけをラディスへ向ける。責めるようなラディスの視線に対抗するような、力強い目付きで。
彼の言い分はこうだ。
"機関"に連行される際、イブリスはひっそりとカイリに耳打ちをしていた。『後で会いに来い』と。
イブリスは厳重に監視されていたが、記憶を弄れるカイリにはそのような監視など無きに等しいもの。なんなく警備を突破したカイリは、イブリスの元へと赴いた。
そこで頼まれたのだ。この街の人間から、イブリスに関する記憶を消すことを。
カイリはそれを承諾し、その日の晩に寝る間もなく街を駆け回ったのである。
「本当、だろうね」
「俺ァ面白くもない嘘はつかねぇよ」
カイリは体を起こし、どこか切なさを感じさせる顔で天井を見上げる。
「仮にも数年前は友人だった関係だ。奴ァそんなこと覚えてないんだろうが……そんな奴から決意の籠った目で訴えかけられちゃあ、俺も無下には断れなくてね。がらにもなく夜通し働いたってこった」
「……」
カイリの言葉に思うところがあるのか、ラディスはまた腰掛けて顔を俯かせる。
「……何故、イブリスは君にそんな頼みを?」
「奴さん、この街を出るつもりだぜ」
「!?」
だがそれも一瞬。記憶を消させた"理由"を聞いた瞬間。ラディスは驚いて再び立ち上がった。
「監視されてる部屋にももう居ない。って、そもそも全員その記憶も消えてるから当たり前なんだけどな……女の子たちの様子を見てから発つっつってたから追いかけるなら今だぜ」
「……!」
カイリが言葉と共にくい、と顎で扉の方を指すと、ラディスは何も言わずに部屋を飛び出していってしまった。
「やれやれ、目が覚めちまった」
カイリはその様子を見とどけると、目に留まったティーポットを使って勝手に紅茶を入れ始めた。
* * *
「イブリスッ!!」
……アヴェントの街を出てすぐ。未だ防衛線の戦火が色濃く残る草原に、果たして彼はいた。
風邪の吹き抜ける草原の中、街に背中を向けて進む長身の男。その後ろ姿は、紛れもなくイブリス・コントラクターその人である。
行き先がわからないようにするためか、単純に金銭の節約のためか……彼が馬車を使わずに街を発ったのは幸いであった。もしそうであったのなら、こうしてラディスが追い付くことは叶わなかっただろう。
「イブリス、待ってくれ!」
一度はラディスの言葉を無視したイブリスだったが、二度目は立ち止まり、ラディスへと振り返った。その顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。
「……悪いが、人違いじゃないか?」
「人違いなものか! 僕の記憶は消されてなんか……!」
ラディスがイブリスの元へ駆け出そうと一歩踏み出したその瞬間。ラディスの髪を、一発の鉛玉が掠めた。
思わず足が止まる。鉛玉を誰が放ったのかは言うまでもない。イブリスの銃がラディスへと向けられ、その銃口からはひと筋の細い煙が立ち上っていた。
「……あいつ、サボりやがったな」
イブリスは小声で、ラディスの記憶を消さなかったカイリへの愚痴を呟く。
「何故……何故こんなことを……? 今からでも遅くない。街へ戻ってくれ!」
「今更戻って何になる!」
イブリスは銃をラディスへ向けて構えたまま、大声で返答する。
「俺の中には統率者が居る……俺があの街に留まる限り、あの街の人々は危険に晒されるんだ。……サラちゃんを含めてな」
「だからと言って街を発つのは早計すぎるだろう! そのサラちゃんだって君が居なくなれば……!」
「あの子は俺の事をすっかり忘れてるよ。確認済みだ」
イブリスは切なそうにある方向をぼーっと見つめる。それはサラとフロワが居る、宿のある方向だった。
「……カイリなら消した記憶も戻せるはずだ。まだ……まだ間に合う。自分だけで責任を負うような真似はやめてくれ……!」
「そのカイリから俺の過去について聞いた」
「――!」
そのイブリスの言葉を聞いた瞬間、ラディスの顔色が明らかに変わる。驚きで見開かれたその瞳の中に、どこか疑いの色が含まれていたのをイブリスは見逃がさなかった。
「……お前にも随分苦労をかけていたらしいな。すまないと思っている……だから、もう休め。苦しむのは俺一人でいい」
「イブリスッ!」
「来るな!」
また足を踏み出そうとしたラディスを、今度は銃弾ではなく言葉で静止させる。
「悪いが、もう決めたことだ……頼む、2発目は撃たせないでくれ」
イブリスは変わらず銃口をラディスに向けながら、真っ直ぐに彼を見つめて決心の言葉を放つ。その目は、彼の弟子を彷彿とさせるほどの真っ直ぐさであった。
彼はもう、どうあがいても街へ戻る気はないのだ。彼を連れ戻すことはもう叶わないのだ。それを悟ったラディスは、その場に膝から崩れ落ちてしまう。
「……サラちゃんたちを、よろしく頼む」
ようやく銃を降ろしたイブリスはそのひと言を残して、ぼろぼろのマントをふわりと浮かせながら振り返り、また歩き始める。
「待ってくれ、ヴァイス……」
ラディスが静かに呟いたその名は、遠ざかってゆく彼の元へは届かなかった。





