(32)『魔女と狂王』
ブラズヘル帝国領ヴァニパル侵攻作戦主力部隊グラービチ駐屯地――。
レインの森に面したその拠点に向かって、森からゆっくりと現れた人影があった。
「誰だ! そこで何を――」
時刻は朝日が射し始めた頃。
薄暗闇でその人影を発見した見張りの兵士が槍を振りかざして叫んだのと、その兵士の首から上が消失したのはほぼ同時だった。力なく崩れ落ちた兵士の身体は瞬く間に地上に映った黒い影の中に沈み込み、撒き散らされた血すらも跡形もなく消失する。
その兵士に一度だけ顔を向けた長身の男は、暗闇の中で響く肉や骨を噛み砕くような生々しい凄惨な音を無視して、堂々その横を通っていく。
「“ブラズヘルの兵士”のみである。食らい尽くせ。1人たりとも残さず――――全てを」
呟くように、唱えるようにそう言った男の足元から無数の影が周囲の地表に散る。
“人食い影”ディスブライト。
世界に数多ある魔物の中でも特に凶悪な破壊力を持つそれらは瞬く間に地を這って駐屯地内部に侵入していく。途端にこれもまた無数の悲鳴。しかし数分も経つと、その悲鳴すら聞こえなくなり、駐屯地内部は完全に沈黙していた。
「他愛もない……」
語るような調子でそう言うと、男は自らもその駐屯地に入っていった。
しかし、その様子を見ていた人物が1人いた。
手には銀白色の大きな杖、全身を黒いローブで隠して頭には黒い魔女帽を目深に被ったその少女は目の前で起こったその惨劇に思わず口元を手で押さえ、恐怖からかカタカタと小刻みに震えている。その目元には、涙も浮かんでいる。
“黒き森の魔女”シャルロット=D=グラーフアイゼンだ。
各地を点々としながら、ヴァニパル・ブラズヘルの戦争を知った彼女は、ヴァニパルでお世話になっていたクリスティアース本家のアルヴァレイのお婆さんや妹のヴィルアリアが心配でフラムの近くまで様子を見に来ていたのだ。
その際、人目を避け、かつ自身の中に眠る破壊衝動の裏人格“ノウェア”による被害を出さないためにもこのレインの森に潜伏していたのだった。本人は知る由もないが、アルヴァレイとは半ばすれ違いのような時間差がある。
「あ、れは……ん……っと……」
慌てた様子で周囲を見回したシャルルは、急にぴたりと動きを止める。
「……行か、なきゃ……。アルヴァレイさんだってきっと、そうするからっ……!」
杖を握る手に、ぎゅっと力を込める。
シャルルは今は段々遠ざかるその気配で、危険なモノだとは察していた。しかし彼女の性格上、やはり見過ごすことができなかったのだった。
ごくんと一度だけ喉を鳴らすと、シャルルは駐屯地の中に消えた男を追って駆け出した。
敷地の中に入ると、簡易に建てられていた数え切れないほどのテントは、その大小に拘わらず全て倒壊していた。それが大きいテントほどついさっきシャルルが目撃したばかりの魔物――ディスブライトの通過した穴がたくさん開いていたが。
「ッ……!」
そしていきなり、心が折れそうになる。
シャルルは思わず上げかけた悲鳴を、咄嗟に口を押さえて殺すと、直ぐに死体から目を逸らす。身長が、本来の半分ほどになっていたいくつもの死体から。
こみ上げてくる吐き気を何とか堪えながら、男の気配に近づき過ぎないように注意しつつさらに進むと、一際破壊の激しい広場が見え、シャルルは即座に物陰に姿を隠す。
その中心に、男の姿が見えたからだった。
「痕跡は……残さぬのが吉か」
シャルルの文字通り人並み外れた聴力が、微かに呟かれた男の声を捉える。
壊れたテントの陰からその様子を見ていると、徐に目隠しに手をかけたその男はゆっくりとそれを外して、閉じていた目をスッと――――開いた。
「みっ……!?」
ゾワッ……。
シャルルは背筋に悪寒とすら形容しがたい本能的な恐怖を覚え、思わず鳴き声を上げて飛び退いた。そして逆立った尻尾を隠すようにローブを引っ張り、気付かれていないことを祈りながら再び物陰から広場の方を覗き見る。
黒い瞳。しかしそれだけではない何か――危険なものを、シャルルはその眼に感じていた。そして気付かれていないことにほっとしつつも、男の次の動向を見張る。
「ラスウェル、テントの残骸を片付けよ」
男がそう言った途端、ミシッと空気が割れるような音がした。次の瞬間、男の右目から何かが飛び出し、ありえないほど不自然に巨大化する。
狼のように見える――――巨大な炎の塊。
しかしその身体は生きているかのように不安定に揺れ、その色は男の瞳のように黒かった。
「ふん、お前か……359年ぶりだな」
狼の形を象ったような炎の塊が揺れ、しわがれた声が聞こえてくる。と思った途端、轟と突風が吹き、吹き払われた黒炎の中からほぼ同じ大きさの黒狼が姿を現した。
(あれ……)
何処かで、感じたことのある気配。
その存在感は周囲を嘲笑っているかのように膨大で、思わず目を背けたくなるほど強大なものなのに――――その気配はそれほど強いものでは、外れたものではなかった。
(まさか……死骸狼……?)
シャルルが考えを巡らせている間も、男と大狼の遣り取りは続いている。
「以前に会ったのは26年前だが。何故、記憶と事実に333年の隔たりがある」
「ふん、お前は相変わらずのようだがな。この“賢狼”ラスウェルに敬意を払え。それにお前にはわからんだろうが、この歳になると333秒も333年も変わらんわ」
「大いに違う。加えてお前の何処が賢狼か。早く残骸を片付けろ。我が時間を無駄に費やさせるな」
「小童が随分と生意気になったものだな。否、以前からこうであったか。此奴らの“名”を教えろ」
「“テントの残骸”と我は言った。同じことを何度も言わせるな、愚狼」
「お前、私を愚弄する気か?」
ぐる……と、殺気を込めた唸り声を発する大狼。
「ラスウェル」
「…………お前なんかと契約しちまった昔の私を噛み殺してやりたいよ」
男の一喝するような声に殺気を納め、むしろ呆れるようにそう言った黒炎の狼、ラスウェルは上空を見上げ、そして大きく息を吸った。
身体の大きさが桁違いだけに、その吸気の勢いは暴風に近い。
(これは風……?)
シャルルが風を避けるため、手にしていた杖をぎゅっと握り直した時だった。
その予想に反し、ぴたりと空気の吸入を止めたラスウェルは、ただ一言――
「『“テントの残骸”など“羊”と同義』」
ピシリ――と空気が変わり、シャルルは戦慄した。
尻尾の毛が本能的な危機察知でブワッと一際逆立ち、杖を持つ手が微かに震え始める。
世界が今、ラスウェルの言葉と共に――――ズレた。
理から外れたところにある存在――――旧き理を背負う者であるシャルルにはそれがわかったのだ。
(言葉だけで……世界の形を歪めるなんて……!)
テントの残骸は消え、後には大量の羊が残った。
シャルルは咄嗟に消失していくテントの陰から身を翻し、羊たちの群れの中に身を屈める。広場では、ラスウェルがすぐさまその羊たちに食らいついていた。
丸呑みにされ、咀嚼されることなく次々と食べられていく羊の群れは、あまりにも多すぎて逃げることすらままならない状態だった。
大量の羊を見てわずかに表情を曇らせた男は何処か呆れたような目でラスウェルを見上げて、
「ラスウェル」
「食事の邪魔をするな」
ラスウェルに即座に返され、しばし黙り込む男。
しかし、10秒と経たない内に男は再び口を開いて、
「“ラスウェル”」
少し語気を強めてそう言った――
「食い終わるまで待て」
――が、またも即座に返されて黙り込む。
しかし今度はすぐに、
「“ラスウェル、我が目の封印に戻れ。これは命令である”」
さらに語気を強めてそう言った。
男の『命令』という言葉に顔を顰めたラスウェルは段々と散らばって逃げ始めた生き残りの羊たちを惜しそうに、そして恨めしげに睨み付けると、
「…………お前なんかと契約しちまった昔の私を噛み殺してやりたいよ」
そう呟いた。途端、ラスウェルの身体中から再び黒炎が燃え上がり、不自然なほどの速度で収縮して小さな火種のようになると、男の右目に吸い込まれるように消えていった。
男が目隠し布を付け直すとびりびりと緊迫していた空気が心なしか和らぎ、シャルルの尻尾も自然と下がっていった――
「そこに居るのは誰だ」
――バッと尻尾が一瞬逆立ち、心臓が跳ねる。
男が、振り返っていた。シャルルの方を。
シャルルは咄嗟に身体を捻って立ち上がり、羊たちの陰から飛び出しながら邪魔の入らない足場を確保する。
そして――
「……貴方は誰ですか?」
先に、そう言い返した。
男は目隠し布の向こうの見えているかいないかもわからない目でシャルルを、そしてシャルルの持つドラゴンの形を模した銀白色の杖を一瞥すると、
「我が名は狂悦死獄。そのローブを取れ」
「……嫌です」
思いがけない命令調の言葉に、一瞬その意図を考えたシャルルは拒否する。それに少なくとも、相手が何処の誰であろうと尻尾を――こんな異形を見られるわけにはいかなかった。
「ふむ……いいだろう。“そのローブを取れ”」
語気が強いものになり、そしてさっきは気付かなかった魔力の動きをシャルルは感じ取った。
「嫌です」
「……我が“口蜜伏犬”を拒むか。貴様、人ではないな」
ピクリ、と帽子の下でシャルルの耳が揺れる。
「わずかながらの興味は湧くが、今は今、女子供には手を出さない気分である。去れ」
あくまでも自分本位の言葉。しかしシャルルはそれを最後の好機とみて、男の一挙手一投足を窺うようにしながらゆっくりと後ずさる。
「去れ」
二度目の命令調の言葉に何かしらの危険を感じたシャルルは、男に背を向けてその言葉通りに規格外の脚力を全力行使して走り出す。
その時、朝日の射す中を不自然に映る影が跳んだ――――ザグンッ。
(ッ……?)
シャルルは、身体の力が一気に抜けていくのを感じた。
視線を下げるとそこには、鎌のように鋭利な頭を持つ、厚さのない黒い影の魔物“ディスブライト”。それがシャルルの左胸を貫いていた。
ギチッ。
そのままシャルルの肩にかけて、引き裂くように跳ね上がる人食い影。その通過傷から血柱が噴き出した。激痛と共に全身の血が一気に冷え込むような感覚がシャルルの全身を駆ける。
ざわ……と、血が――――騒ぐ。
(……ダメ、ノウェア……ダメッ……!)
重傷という言葉ですら済まない、心臓に達するどころか心臓から広がった大きな断裂部が、ぞわりと血肉のそれとは違う生々しい音を立てる。
「戻れ、ディスブライト」
背後から男の声が聞こえる。
ディスブライトは主人の呼び掛けに応え、シャルルの体内からぼたぼたと血溜まりの広がる地上へと張り付き、地を滑るように這って引き返し始める――――グジャリ。
あっけない、音だった。
シャルルの大きく開かれた傷口から、血とは別の黒々とした柱が現れ、ディスブライトを地面に縫い付けるように貫いた音だった――――ザシャアァッ。
ディスブライトがシャルルにしたように、ディスブライトの身体をいとも簡単に引き裂いて見せるその黒々としたその影はどちらかというとディスブライトよりもラスウェルに近い。
影の魔物よりも上位の闇が、それを捕食する。
「面白い、闇の眷族か」
ゾワゾワと揺れ動きながら傷を修復して元の姿を取り戻したシャルルは振り返り、最早彼女とは別の意志に支配された瞳を男に――――狂悦死獄に向ける。
「殺シテヤロウカ……?」
音にしてたった8文字分の言葉。しかし、その言葉には、千の槍以上の殺気が込められていた。
さっきまでのシャルルのものとはまるで違う強大な気配を感じた狂悦死獄は、初めて表情といえる表情を、薄ら笑いを浮かべると、
「貴様にできるか」
それだけを言って、ノウェアに背を向ける。
ブラズヘルを完膚なきまでに潰す、その布石として王と前線の主力部隊を片付ける。その目的を既に果たしている狂悦死獄にとって、ノウェアとの邂逅は特に意味のないもので、固執する必要のないものだった。
男が去っていくと同時にシャルルはノウェアから身体の支配を戻され、思わず力の抜けた身体を杖に体重をかけて何とか支えると、
「黒き森……」
呟くようにそう唱え、杖に力を集中させる。
途端にシャルルの足元に光を放つ魔法陣が現れ、目の前に見えていた男とレインの森を消し去るように紫色の行使光が視界を塗り潰した。




