(24)『知らない森』
幸福を感じていた過去を思い出させ、懐古させることで対象の興奮・錯乱状態を覚まさせる、ルシフェルの第四人格“ミーナ”の固有能力――――僥倖懐古。
ルーナと共にそれをかけられた俺は、気がつくと森の中に立っていた。
「何だ……?」
静かな――厳かな空気で満ちた深い森。周囲をどれだけ見渡しても、この森は何処までも続いているようだった。
こんな空気を持った森は、黒き森ぐらいしか行った記憶がないのだが、しかし彼の森の最大の特徴である悪魔の木の黒い葉は見当たらない。
「ここ、何処だよ……?」
思わず呟く。
ミーナの能力は、対象の過去を擬似的に再生――再現するモノだったはずだ。少なくとも俺は、あの時本人からそう聞いている。
(待てよ……?)
今回、俺はルーナと同時に僥倖懐古をかけられた。
つまり、ここは――
(ルーナの過去……!?)
ベルンヴァーユは、世界中の点在する人の手の入らない深い森に生息する。
たぶんこういうこともあるんだろう。
でも、じゃあ――。
「ルーナは何処にいるんだ……?」
ここがルーナの記憶だとすれば、主人公である彼女の姿が何処にも見当たらないというのはやはり何かおかしい。
前に俺が見た夢も、よく考えると細部が違った気がするが、少なくとも主観で記憶が見えていた――。
思わず身体を見る。
一瞬、頭を過った程度の考えだったが、別に俺がルーナの主観を見ているわけではなかったようだ。俺の身体は、確りと現在の――――意識を記憶に塗り潰される直前の姿だった。
すぅ……と、息を吸う。
肺が冷たい。霧のようなものが混じった空気を吸い込んだような感覚だ。
そして徐に、指を咥えた時だった。
――無意味ですよ、少年――
ピクッ。
突然何処からか響いてきた穏やかな声に、思わず周囲を見回す。
ここはルーナの記憶再現の世界――――だとすれば、俺は傍観者でしかないはずなのに、その俺に呼びかけてくるのは誰だ……!?
いや、まさかこの声……!?
――ここです――
突然近付いてきた羽音に、咄嗟に樹上を見上げた瞬間――
バキバキバキッ!
――ずぅううううううんッ!
周囲の木々を薙ぎ倒しながら、何かが上空から飛び降りてきた。
苔むしたような色の身体に鳶色の瞳、巨大な翼を持った大蛇竜――。
「お前……ッ!」
ついさっき、ローア城砦で会ったばかりの異形のドラゴンだった。
「どうなってんだよ……ッ」
全身に嫌な汗を感じながら、俺は踵を返して、一目散に駆け出した。
――お待ちなさい――
制止の声を背に受けるが、無視して木の間を縫うように走る。
――……お待ちなさい――
ギクリ。
一瞬低くなった声にぎょっとして振り返ると――――バキバキバキッ!!!
(うっ……おぉぉぉっ……!?)
木を盾になんてできるはずもなかった。
その巨大な竜は、まるでそこに何もないかのように木々の壁を難なく突き破り、俺の背後から這いよってきた。もちろん、這いよるなんて言葉では表せない圧倒的な破壊力を伴っていたが。
その衝撃で強く弾き飛ばされた俺は目の前にあった木に叩きつけられた。
「っ痛……」
全身に鈍痛を覚えながら、顔を上げ――目を開ける。
――何故逃げるのですか?――
いや、そりゃ逃げるだろう。
こんなやたらとでかい竜がいきなり目の前に現れたら。
――危害を加えるつもりはありません。私は……先程貴方に刷り込んだ虚像。貴方と話をしたいのです。元より触れることもできないでしょう――
竜はずるずると尻尾を引きずり、木々の破片を蹴散らしながらゆっくりと座るように姿勢を低くした。
「はぁ……先に言って欲しかったよ。じゃあ何の用だ」
牽制も兼ねて少し強い口調で言うと、竜は鳶色の瞳を俺から逸らすように足元の地面に向ける。
――ヘカテー……ヘカテー=ユ・レヴァンスのことです――
「ヘカテーと知り合いみたいだったな。どういう関係なんだ?」
――彼女の、親です――
「親ぁ!? アイツ、竜なのか!?」
――いいえ、彼女は神族……ただの神族でした――
静かに、穏やかに響く声。
その声は、何処となく悲しげに聞こえた。
――私は幼くして親に捨てられた彼女を育てた、謂わば親代わりの存在です――
「捨てられた……?」
――はい――
その竜の返事を聞いた瞬間、頭を過ったのは『呪い』だった。
彼女を蝕み、周囲から忌み嫌われる原因となった呪い。
今のヘカテーの姿がルシフェルと出会った時に成長を止めたものなら――。
もっと幼い頃から呪いが発現していたら――。
親は世界の全てから彼女を守ってやれるだろうか。
彼女の盾となり、降りかかる泥や火の粉を払えるだろうか。
心が弱い――――否、普通の親には、それができないのだろう。実際に目の前のこの竜は、ヘカテーは幼い頃に捨てられたのだ、と言っている。
彼女は、捨てられたのだ。
親にすら恐れられて、幼い彼女はどう思ったのだろう。
少なくとも、俺にはわからないぐらいの――理解できないくらいの悲しみだっただろう。
――彼女と会うのは数百年ぶりでした。ですが、彼女は変わっていました――
「……変わった?」
竜は、大きな頭を上下に揺らし、こくりと頷いた。
――最後に彼女と別れたのは数百年前。当時の彼女は、誰かを守るなんてことは考えない、悪い意味で言っているわけじゃないけれど自己中心的な性格だった。あの子を、ヘカテーを変えたのは何なのか。私はそれを知りたいのです――
ヘカテーがもっと自己中心的な性格だった……?
確かに、今も多少その片鱗らしきものは時折垣間見えているが、むしろそういう性格はルシフェルの方によく現れている。そのせいかあまり目立っていないのかもしれない。
普段は結構、猫被ってるようにも見えるしな。
「悪いけど、俺はよくわからないんだ。悪魔の山で初めて会った時から、アイツはあんな感じだったからな……。ルシフェルが何かしたのかもしれないけど」
――ルシフェル……あの旧理ですね。わからないというのなら仕方ないでしょう――
「悪い。役に立てなくて」
――いいえ、役には立ちました――
「え?」
――あの子の隣にいた貴方の人となりを少し知ることができました。……本当に、話せてよかったと思います。貴方がいれば、ヘカテーはもう大丈夫でしょう――
竜は大きな目をすっと閉じ、フッと微笑むように口元を歪めた。
――その安心したような表情を見て、ずきんと胸が痛んだ。一度、たった一度だけれど、彼女を傷つけたことがあるからだ。
――貴方の名は……?――
「俺は、アルヴァレイ=クリスティアース」
――私は……アイリス。また会いましょう、少年……――
バサァッ、と翼を広げた竜――アイリスの姿を最後に、俺の視界は真っ白に塗り潰された。




