(3)『クリスティアース本家』(改稿済み)
霧の森。
ミッテ連邦共和国、ミリア皇国、ウェレヘパス共和国の国境をまたいで南北に広がる森だ。この森もナトゥーア自然保護区同様、立入禁止区域に指定されている。
しかしラクスレルの森とは違って危険なだけが理由ではない。確かに霧の森はその名の通り霧が深く、一度迷うと何日も迷うことになる。
にもかかわらず今までにこの森から帰ってこなかった者はいない。
ここが神聖なものとされている理由がそこにある。
何故だか昔から、霧の森では、確率や可能性すら意思持つ者の願いに応えるようにねじ曲がる現象が多々見られる。
つまり、いわゆる“奇跡”が他の場所に比べて異常なほどに起こりやすい。その奇跡の量産を管理するため、立ち入り禁止となっている、という訳だ。
そして今、その森にひとつの人影があった。
「……はぁっ……はぁっ」
息を荒くして、深い霧の中で走る少女。
ローブマントを羽織り、頭からフードをかぶったその少女の姿は一介の探検家や研究者に見えなくもないが、少女のその外見の幼さがとてつもない違和感を形成している。さらにその両手に抱えられた、少女の身長ほどもある巨大な杖。銀白色の光沢を放つ柄の部分、先端は大きく歪曲して尖り、中心にある光輝く白い球状の何かを守るように変形している。 鋭く複雑な形はまるで竜を模したようだが、先端以外に華美な装飾は控えめ、それなりの気品を感じさせる。明らかにただの儀礼用の杖でないことは確かだ。
その少女は目の前すらろくに見えないと言うのに、不規則に並ぶ木々にぶつかることなく、木々の間を縫うように進んでゆく。
チリーン。
その時、森の中に響いた音は鈴の音に似ていた。
その音にビクッと身体を震わせる少女。そのフードがバッと大きく揺れる。
「はっ……はっ」
少女がくるくると指を回す。その指にはまる指輪が光り、懐がぽぅと明るくなる。
その瞬間、少女が加速する。指輪と魔法陣の書かれた紙を共鳴させ、一時的に俊足を得る魔法だ。
チリーン。チリーン。
すでに限界まで速度を出しているというのに、どんどん近づいてくる鈴の音。
「小娘」
前方からした厳かな女性の声に反応し、少女は急停止した。
「小娘。妾の杖を返せ。如何に旧き理だとて容易に扱えるものではない。これでも貴様の身を案じておるのだ。悪いことは言わぬ。その杖は諦めよ」
木の陰から現れる黒衣の女。その姿は外見こそかろうじて人に見えなくもないが、異形を感じずにはいられなかった。
「嫌です! 私にはどうしてもこの杖が必要なんです。黄泉烏さま! 私にこれをお貸しください!」
「ならぬ! その杖は使い方を間違えれば道を踏み外すことになる。妾がそれを見過ごせるわけがなかろうて」
「それなら……仕方ありません。ごめんなさい。黄泉烏さま」
少女の足下が紫色に淡く光る。
「待て、小娘!」
黄泉烏が腕を、いや、腕があるはずのところに突如現れた黒い翼を大きく振る。その瞬間、吹き荒れる凶暴な突風が、少女の身体に襲いかかった。
カッ!
少女が手に持つ杖の先端の珠が光ったかと思うと、暴風がかき消える。ローブマントが余波でバタバタと翻り、吹き飛んだ。その下からふさふさとした尻尾が現れる。
そして、少女は叫んだ。
「忘れないでください、黄泉烏さま! 貴女から宝具を奪った者の名は、シャルル! シャルロット=D=グラーフアイゼンです。必ず、必ずお返しに参ります! どうか今しばらくお待ちください!!!」
少女がそう叫んだ途端、その身体が光に呑み込まれ、消えた。
「阿呆な小娘が……。忠告を聞かなかったこと、後悔するようなことにならねばよいが。妾には願うことしかできぬというに……」
黄泉烏は心の底から心配そうな顔をして、木の上に跳躍した。
そして場に吹き荒れる突風。
現れたのは流れ星を黒く塗りつぶしたような塊。全体が刺々しい輪郭、たった1人でこの世の全てと戦っているようなその暗闇は、森の木々をさざめかせながら深い霧の中に消えた。
クリスティアース本家――。
「石平、帰ってきてるんだろう? 何してんだい、早く来なーっ」
広い屋敷の廊下にしわがれた声が高らかに響く。その声に反応し、くつろいでいた部屋から滑り出してきた男は、巨体に似合わない高速で廊下を駆け、自分を呼ぶ声のする部屋に飛び込んでいった。
「おうよ、婆さん! 今度は何だ?」
「また忘れたのかい? これを全部ギルドに運んでおくれ、と何回言わせる気だい」
しっかりパシられていた。
「任せろ! 俺の筋肉に不可――」
「いいからさっさと行きな」
宙を舞い、床と平行に飛ばされて壁に叩きつけられた男は起き上がると、『むうっ!』と叫んだ。
そして続いて飛んできた何やら大きな木の箱を右手で受け止めると、それを肩にかつぎ廊下を走っていった。
「やれやれ、後何回かかるのかねぇ」
部屋から出てきたしわがれ声の老婆は、部屋の中に目を遣って溜め息をついた。
部屋の中に積まれたいくつかの大きな木の箱。それらは時折ガタンと動き、老婆の一喝で再び動かなくなる。その箱の個数は昨日・一昨日にクリスティアース本家に不穏な目的で入った人数と同じだ。
いつもならギルドの人間に金を払って運んで貰うのだが、客人の1人、体格のいい筋骨隆々の男がいたので任せてみたのだ。それからはしばらくは人を雇わなくても済みそうだったので色々と雑用を任せてある。
「忘れっぽいところさえなければ、あの男もなかなか使えるじゃないかね」
顔を綻ばせた老婆の名はヴェスティア=クリスティアース。
アルヴァレイ=クリスティアースの父の母、つまりアルヴァレイの祖母だった。現在、少なくともフラムでは最高の医術と薬術を持つ医者であり、クリスティアースの現当主だ。
「おばあちゃん」
後ろからかけられた声にヴェスティアは振り向いた。
「ん? ああ、アリア。何だい?」
その孫にして、アルヴァレイの妹、ヴィルアリア=クリスティアース。
紙縒と康平にアルヴァレイらの救出を頼んだ張本人である。現クリスティアース医薬学院の首席であり、現状クリスティアース家次期当主にもっともふさわしい人物である。
「ルーナちゃん知らない?」
「ルーナ? いや、見てないねえ」
「じゃあ、リィラさんは?」
「リィラなら今はギルドじゃないかね。暇つぶ……おっと、旅費を稼いでくると行っていたよ」
ふーん、と子供のようにうなずいたヴィルアリアは再びルーナの名前を呼びながら、廊下の角を曲がっていった。
「ふぅ。よいしょ……」
ヴェスティアは手近にあった大きな木の箱を持ち上げると、玄関に向かって歩き始める。
まったくもって大したご老体だ。
「ん? おやおや、こりゃまた最近見なかった顔だねぇ」
玄関でちょうど扉を開けたまま立っていた少年は、苦笑いのようにピクピクと口元を引きつらせていた。
「おかえり、アルヴァレイ。元気だったかい?」
少年のため息は妙に静かに響いた。




