第7話 素人
次の柱までの距離を目で測り、結人は岩棚の縁に立った。
「大丈夫‥‥行ける。行けるって」
自分に言い聞かせるように呟いて、縁を蹴る。体が風を切って草原の上を渡り、二本目の柱の岩肌がみるみる迫ってきた。伸ばした手は張り出した岩の角を確かに捉え、靴底が柱の表面を二度蹴ると、体はもう別の岩棚の上に収まっている。振り返れば、さっきまで居た柱が随分遠い。
込み上げてくる笑いを今度は喉の奥に押し込み、結人は岩棚の端から下を覗いた。
柱の根元の草が、風の流れとは違う向きに揺れている。何かが草を掻き分けて進んでいて、やがて草の切れ目から灰色の背中が覗いた。中型の犬ほどもある鼠で、毛のところどころ抜けた背中に、岩肌のように黒ずんだ皮膚が見えている。施設の隣のダンジョンの底で、結人に飛びかかってきたものと同じ姿だった。
岩棚の縁を掴んでいた指に、勝手に力がこもる。あの夜、赤い目は苔の光の縁から少しずつ近づいてきた。結人は割れたスマートフォンを胸に押し当てたまま、目をつぶることしかできなかった。割れた画面の冷たさが、胸の上に戻ってきた気がする。
鼠はまだこちらに気づかず、柱の根元に鼻先を押しつけて何かを齧っていた。
逃げてもいい、と結人は思った。岩棚の上に居れば、あれは届かない。そう考えている間にも、体の奥から別の感覚が上ってくる。重心をどこに置き、どの角度で降りれば、着地と同時に剣を振れるか。言葉にならない答えが、腕と脚にはもう用意されていた。
あの夜とは違う。今の結人には、剣がある。
柄を握り直して岩棚から身を躍らせると、落ちていく間に体が半回転し、鼠の真後ろの草地へ足から降りた。振り向いた鼠が赤い目を剥くより早く、剣が横に払われる。刃は首の付け根に食い込み、黒ずんだ皮膚を断ち割って抜けた。鼠は前のめりに崩れて二度だけ脚を掻き、それきり動かなくなった。
剣を下ろしたまま、結人はしばらく荒い息をついていた。手が震えている。怖かったのか、嬉しかったのか、自分でもよく分からない。
「やった!‥‥倒せた‥‥!」
* * *
問題は、その先だった。魔物を倒せば魔石が手に入る、ということは知っている。けれど足元に横たわった鼠の死骸のどこに、その石があるのかが分からない。施設の職員たちの話には、魔物を倒す場面はいくらでも出てきたが、倒した後に何をするのかは一度も出てこなかった。
死骸の脇にしゃがみ込み、恐る恐る剣の切っ先で毛皮をつついてみる。皮膚の表面が黒い砂になって崩れ、さらさらと草の上へこぼれた。崩れきってしまえば、石だけが残るのかもしれない。そう考えて、結人は膝を抱えて待つことにした。
ところが死骸は、尻尾の先が半分ほど砂に変わったところで、殆ど崩れなくなってしまった。
「早く崩れないかな‥‥」
ぼやいても、黒い砂の山は少しも大きくならない。焦れた結人が剣の刃を胴に当て、力任せに切り開こうとしたその時、背後で草を踏む音がした。
「やめとけ。そこを切っても、石には届かない」
振り返ると、少し離れた柱の陰に、背の高い男が立っていた。
年は三十代の半ばくらいだろうか。痩せた体つきで頬がこけ、長めの黒髪を後ろで無造作に束ねている。色の褪せた外套の裾から使い込まれた革の脛当てが覗き、肩には身の丈より長い槍を担いでいた。日に焼けた顔は殆ど表情を動かさず、切れ長の目だけが、結人の手元の剣と地面の死骸を順に眺めている。
大人の男だと分かった途端に、結人の膝から下が草地に縫いとめられた。剣を握った指は柄に貼りついたまま、開くことも、握り直すこともできない。声を掛けられたのに、返事の仕方が思い出せない。
男は一歩踏み出しかけて、そこで足を止めた。結人の顔に目を留めてから、視線を地面の死骸へ移す。それきり、結人の方を見なくなった。
「崩れるのを待ってたら、朝になる。この辺の濃さだと、そいつはしばらく形を保つ」
男は結人から遠い側へ回り込んで、死骸の向こうに片膝をついた。腰の鞘から短いナイフを抜くと、鼠の前脚を持ち上げ、その付け根の間の胸の真ん中に刃を当てる。
「岩鼠の石は、ここだ。前脚の付け根の間の、骨の奥。上から切ると骨に当たって石が割れる。脇から刃を寝かせて入れろ」
ナイフが皮膚の継ぎ目を探るように沈み、手首が小さく返った。男が指を差し入れて引き抜くと、その指先に、小指の爪ほどの石がつままれている。くすんだ色の結晶が、草原の薄い光を鈍く撥ね返した。
石が取り出された途端に、死骸は音もなく崩れ始めた。毛も皮膚も骨も黒い砂に変わって、草の根元へ沈んでいく。
「核がなくなれば、体は保てない。それだけのことだ」
男は石を、死骸の跡の草の上に置いた。結人の手に渡そうとはしない。
「お前が倒したんだ。お前のだ」
男が立ち上がって数歩下がるのを待ってから、結人はようやく指を柄から剥がし、草の上の石を拾い上げた。ダンジョンの底で岩鼠を燃やした時は、石のことなど考えもしなかった。引き出しの奥の魔石は、榊が拾ってきてくれたものだ。自分の手で倒した魔物から取り出された石を、結人は初めて握っていた。
「‥ありがと」
喉の奥から押し出したぶっきらぼうな礼に、男の切れ長の目がほんの少しだけ細くなる。
「装備は一級。中身は素人だな」
図星を指されて、結人は何も言い返せなかった。男は外套の内側を探り、鞘に収まった安物らしいナイフを一本取り出すと、それも石と同じように草の上に置いた。
「予備だ。使え。剣で切り開こうとすると、刃が傷むし石も割れる」
拾い上げたナイフは、柄の革が擦り切れて、指の形に窪んでいた。
「鷹野だ。たまにこの辺に居る」
それだけ名乗ると、男は槍を担ぎ直して背を向けた。結人はナイフを握ったまま、その背中が柱の向こうへ消えるのを見送った。
大人の男なのに、と結人は思う。一度も近づいてこなかった。最後まで、結人の手に何も触れさせなかった。
* * *
鷹野に教わった通りに、結人はその夜、二匹目の岩鼠から自分の手で石を取り出した。刃の角度を誤って骨に当て、死骸の胸を随分傷つけてしまったが、最後には指先が硬いものに触れた。指を差し入れた時の生温かさにはどうしても慣れなかったが、石が触れた瞬間の手応えは、カードが表を向く瞬間に少しだけ似ている。
三匹目を探して柱の根元を歩いていた時、頭の上から何かが落ちてきた。
首筋に、冷たいものがべしゃりと貼りつく。上がった悲鳴は少女の声で、自分で思っていたより高く響いた。冷たいものは髪の中へ入り込もうとしながら、首から肩へずるずると広がっていく。手で引き剥がそうとすると、ぬるりとした感触が指の間から逃げた。
「やだっ、何これ、取れないっ」
結人は草の上を転げ回った。剣を振ろうにも、相手は自分の背中に居る。混乱した頭のどこかで、落ち着け、という感覚がした。リーゼの体が、自分より先に冷静になっている。左手が首筋の塊を鷲掴みにし、力任せに引き剥がして地面へ叩きつけた。
緑がかった半透明の塊が、草の上で潰れていた。表面に苔のようなものが生えていて、体の真ん中に小さな石が透けて見える。塊はぶるりと震えて丸く戻ろうとしたが、結人がナイフを突き立てると、石を残してあっけなく溶け崩れた。
「うえー‥最悪‥‥」
首筋のぬめりを拭いながら、結人は肩で息をしていた。鷹野がまだ近くに居たら、きっとまた素人だと言われただろう。
草原の端まで足を延ばすと、柱の並びが途切れ、岩壁に穴のような暗がりがいくつも口を開けていた。中を覗き込んだ途端に甲高い音が耳を刺し、黒い影の群れが顔めがけて噴き出した。
翼を広げると両腕を伸ばしたほどもある蝙蝠で、口の端から細い牙が覗いていた。反射的に盾を掲げると、影が盾の表面にぶつかる鈍い音が何度も続く。剣を振っても、群れは刃の届かない高さへ散っては、また別の方角から降りてくる。
剣に火をまとわせれば、と結人は思った。ダンジョンの底で岩鼠を焼いた、あの炎なら、こんな群れは一振りで散らせるかもしれない。
けれど、群れの向こうの柱の陰に、誰かの灯りがちらついていた。魔法を使える探索者は一握りしか居ない、ロビーで大きな声で言わない方がいい、と宮原は言った。
それに、あの夜の炎は、魔物を焼いた上で岩壁を天井近くまで焼き削った。あんなものを見られたら、オレンジの髪の少女がどこの誰なのかを、調べようとする大人が出てくるかもしれない。調べられて困るのは、病院のベッドで眠っているはずの六歳の子供だ。
結人は剣を下ろし、盾を頭にかざしたまま草原の方へ逃げ戻った。追ってくる羽音が遠ざかってから振り返ると、暗がりの入口では、まだ黒い影がいくつも渦を巻いている。
「もう、あそこには行かない」
体は動いても、どこへ行けば何が待っているのかを、結人は何も知らなかった。
* * *
三つ目の石を手に入れて、結人はようやく顔を上げた。
どれくらいの時間が経ったのか、見当がつかない。第一層の薄い光は来た時からずっと同じ明るさで、草原には夜明けも夜更けもなかった。病室の時計のことが頭をよぎって、背中が冷える。
近くの柱の陰では、男の探索者が二人、荷物をまとめていた。
聞かなければ、と思うのに、足が前に出ない。二人の大きな背中を見ているだけで、喉が細くなっていく。それでも、もし六時を過ぎていたら。空っぽのベッドを見つけた仁科の顔を思い浮かべた途端に、結人は唇を開いていた。
「‥ねえ。今、何時」
思っていたよりずっと小さな声だったが、振り返った男の一人が腕の時計を見てくれた。
「四時半だよ。お嬢ちゃん、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
答えを聞き終わる前に、結人は頭だけ下げて走り出していた。
五時には巡回の足音が来る。六時には看護師が体温計を持って病室に入る。門を出れば、外で居られるのはまた十分ほどだけだ。振り返って確かめた門の方角へ、結人は草原を一直線に駆けた。
柵を抜けると、外の空気は冷たかった。夜の色が、建物の向こうの空の底から少しずつ薄れ始めている。病院の裏手の通路を走るうちに、指先へ届く熱が戻りきらなくなり、膝の裏が張ってきた。
庇に跳び上がり、配管に手を掛けて三階の窓まで体を引き上げる。手のひら一枚分の隙間に指を掛けて窓を開け、中へ転がり込んだ。窓を閉めて留め金を掛けた時には、腕を持ち上げるのもつらいほどになっていた。
掛け布団をめくると、丸めた毛布と枕が子供の形をして横たわっている。結人はそれをベッドの下へ押し込み、三つの石と鷹野のナイフと探索者証を、枕のカバーの中に隠した。
廊下の角を曲がる足音が聞こえたのは、ベッドに潜り込んだのと同時だった。
熱がふっと途切れ、掛け布団の中で淡い光の粒が散って消える。視界が低くなり、右足首にギプスの重さが戻り、骨の軋む痛みが続いた。左肩が帯の下で疼き出し、結人は奥歯を噛んで声を殺した。
足音が隣の病室の前で一度止まり、それからこの部屋の前に来る。ドアの小窓から懐中電灯の細い光が差し込み、布団の盛り上がりを撫でた。
結人は目を閉じたまま、寝息に聞こえるよう、ゆっくりと息を吐いた。いつもならほんの数秒で過ぎていく光が、今夜はなかなか動かない。
光は布団の盛り上がりの上で止まったまま、一つ、二つと数えても離れていかなかった。枕のカバーに押し込んだ石の硬さが、頬の下でやけにはっきりと感じられる。やがて光が小窓から外れ、足音がゆっくりと遠ざかっていくまで、結人は息を吐いたままの胸を動かせずにいた。




