第6話 越境
翌晩、一時の巡回が済むと、結人は壁の時計に目を据えた。
光る数字が一時四分を示したところで、掛け布団の中で「変身」と囁く。体が熱を帯びて伸び、ギプスの締めつけが消える。結人はベッドに横になったまま、天井と時計を交互に見つめ続けた。
一時九分を過ぎた頃、指先の熱が戻りきらなくなった。気だるさは少しずつ濃くなり、腕を持ち上げるのも億劫になっていく。熱がふっと途切れ、光の粒が布団の上に散って消える。元の体に戻った時、時計は一時十四分を指していた。
気だるさが来るまでに五分ほど、元に戻るまでに十分ほど。外で変身していられるのは、それくらいらしい。
職員たちの話が本当なら、ダンジョンの中でならもっと長く居られるのかもしれない。ただ、それはまだ結人の思いつきにすぎなかった。もし中で時間が切れたら、ギプスをはめた六歳の子供が、夜のダンジョンの真ん中に一人で取り残されることになる。
それでも、引き出しの中の魔石と割れたスマートフォンを思い出すと、ここでじっとしている気にはなれない。二か月が過ぎれば、何も変わらないまま、大河の居るあの部屋へ戻ることになるのだ。
夜勤の看護師は、大体二時間おきにやって来る。結人はこの数日で、足音が来る時刻を頭に刻み込んでいる。十一時と一時と三時と五時。そして六時になると、仁科か別の看護師が体温計を持って入ってくる。
足音は廊下の角を曲がって隣の病室の前で一度止まり、それからこの部屋の前に来て、小窓から懐中電灯の光を差し込ませる。光が布団の盛り上がりを撫でるのはほんの数秒で、看護師が中まで入ってくることはなかった。
残る問題は窓だった。昼間に仁科が換気のために窓を開けた時、結人はその手元をじっと見ていた。窓枠の上の方に小さな金具が付いていて、それを横へずらさないと、窓は手のひら一枚分しか開かない。
「落ちたら危ないからね。子供の手は届かないようになってるの」
仁科はそう言って笑ったが、それは結人の背丈での話だった。
* * *
入院して七日目の夜、一時の足音が遠ざかると、結人はベッドの上で体を起こした。
カーテンの隙間から、門の白い明かりが細く差し込んでいる。結人はその光を見つめながら、短く息を吸った。囁くのでも叫ぶのでもなく、自分にだけ聞こえる声で、はっきりと言う。
「変身」
体の芯に火が入り、ギプスの重さが消える。ベッドを降りた革の長靴が床に当たって小さな音を立て、結人は息を詰めて廊下を窺ったが、足音が戻ってくる気配はなかった。
棚の奥から予備の毛布を引き出して丸め、枕と並べて置き、上から掛け布団を被せる。施設の夜に布団の中で小さくなっていた自分の形を思い出しながら膨らみを整えると、小窓の高さからは子供が丸まって眠っているように見えた。
窓辺に立つと、さっきまで遥か上にあった金具が目の高さにある。指を掛けて横へずらせば、軽い手応えとともに窓は最後まで滑った。
見下ろした三階の高さは、思っていたよりずっと遠い。真下には二階の窓の上に張り出した庇があり、その先に植え込みと、門へ続く裏手の通路が延びている。
施設の窓から見た塀を思い出した。細い通路を挟んで数メートル先にあったコンクリートの縁に、あの時届いたのは右足のつま先だけだった。足首の奥が、ありもしない痛みで疼く。
この窓は、あの塀よりも高い。それなのに、膝は震えていなかった。体のどこを探しても、跳べないと言う声が見つからない。
結人は窓枠を越えて外の縁にしゃがみ、窓を手のひら一枚分の隙間まで引き戻した。これならカーテンが膨らんで気づかれることもないし、戻ってきた時には外から指を掛けて開けられる。
縁を蹴ると、落ちていく感覚は一瞬だった。耳元で風が鳴り、二階の庇が足元に迫る。膝が先に畳まれて庇の縁を蹴り、勢いを横へ逃がすと、トタンが低く鳴った。次の瞬間にはもう、植え込みの脇の土を踏んでいた。足首にも膝にも、どこにも痛みはない。
見上げた三階の窓は、細い隙間を残して闇に沈んでいた。あそこから跳んだのだと思うと胸の内側が騒がしくなり、結人は笑い出しそうになるのを堪えて走り出した。
* * *
門の隣のギルドの支部は、真夜中だというのに煌々と明るかった。
自動扉をくぐると、油と鉄の匂いがする。長椅子の並ぶ広いロビーの壁には大きな画面があり、地図のようなものが映っている。防具を着込んだまま仮眠を取る男や、槍の穂先に布を巻いている男が居る。買い取りの窓口では、袋から出した石を数える二人組が係の人と何か言い合っていた。
「お、新顔か? 新人がこんな時間に来るなんて珍しいな」
長椅子に寝そべっていた中年の男が、片肘をついて声を掛けてきた。悪意のある声ではなかったのに、結人の足はそこで止まった。リーゼの長い脚が一歩も前に出なくなり、病室で榊が戸口に立った時と同じように、目だけが男から離れなくなる。
男がそれ以上何も言わずにあくびをして目を閉じると、結人はようやく息を吐き、視線を床へ落として窓口の並ぶ壁際へ急いだ。
夜間受付という札の下に、肩までの髪を後ろでまとめた二十代の後半くらいの女の人が座っていた。結人が前に立つと、手元の書類から顔を上げて少し目を丸くする。
「こんばんは。ご用件は?」
登録をしたいです、と結人は言ったつもりだった。
「登録、したいんだけど」
声は、ぶっきらぼうな少女のものだった。名札に宮原と書いてあるその人は、結人の顔をまじまじと見てから、背後の自動扉へ視線を移した。
「新規の探索者登録ね。‥‥もしかして一人?」
「一人」
「失礼だけど、年は?」
結人は一瞬だけ言葉に詰まった。鏡の中の少女は、高校に上がったばかりくらいに見えた。探索者になれるのは、その年からだ。
「十五。登録、出来るよね?」
「登録は出来るわよ。出来るけど、成人したばっかりの子が夜中に一人で来るのは珍しいの。保護者の方は、一緒じゃないの? 決まりじゃないけど、知ってるのかなって」
結人が黙って首を横に振ると、宮原はしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく息をついて端末に向き直った。
「分かった。じゃあ、お名前を」
「リーゼ」
「名字は?」
「‥‥リーゼだけ」
「名前だけでも登録は出来るわ。個人情報は任意だから。探索者が足りないからって、国が登録をどんどん簡単にしてるのよ」
宮原の指がキーを叩く間に、結人の背中を汗が一筋伝った。熱が指の先まで届ききらなくなり始めている。病室で時計を睨みながら感じたのと同じ気だるさで、肩が少しずつ重くなり、立っているだけで膝の裏が張ってくる。
「次はスキルの申告ね。言える範囲でいいわ。ただ、嘘だけは駄目よ。後で嘘だと分かってトラブルになったら、罪がずっと重くなるから」
結人は籠手に収まった日に焼けた細い指を見下ろし、この手でしたことを言葉にしようとした。剣を振ったこと。その剣が燃えたこと。
「剣と‥‥火が出せる」
キーを叩いていた宮原の指が、ぴたりと止まった。
「火って、属性の? 剣に火をまとわせるとか、そういう?」
結人は頷いた。
「燃えたよ、剣が」
宮原は周りに目を走らせてから、身を乗り出して声を落とした。
「あのね。属性を扱えるってことは、魔法の適性があるってことなの。魔法を使える探索者なんて、ここに来る人の中でもほんの一握りなのよ。どこのパーティーだって喉から手が出るほど欲しがるわ。登録には書いておくけど、ロビーで大きな声で言わない方がいい。あっという間に囲まれるから」
結人には、宮原の言うことの半分も分からなかった。ただ、ダンジョンの底で剣が燃え上がった時の熱だけは、まだ掌が覚えている。
端末の脇の機械が低く唸り、薄いカードが一枚吐き出された。
「今夜は仮の探索者証。正式なのは、次に来た時に写真を撮って作るから。それと、初めての人には一通り説明があって――」
「後で聞く!」
「ちょっと、リーゼさん!」
カードを掴んで踵を返した結人の背中に、宮原の声が追いかけてきた。結人は振り返らずに自動扉を抜けた。膝が笑い始め、腕を振るたびに肩から先が重くなる。
門まではほんの数十歩だったが、その数十歩がひどく長かった。
門の手前には腰の高さの柵が並び、柵の切れ目ごとに小さな読み取り機が立っている。前を歩いていた探索者が首から下げたカードをかざして通り抜けていくのを見て、結人も握りしめた仮の探索者証を機械に押しつけた。短い電子音とともに、柵の先の緑のランプが灯る。
視界の端が暗く滲み、手足の先から熱が抜け落ちていく。ここで時間が切れたら、という考えが頭をよぎったが、もう引き返す時間もない。結人は柵を抜け、門の奥の裂け目へ倒れ込むように踏み込んだ。
* * *
体が、急に軽くなった。
手足の先まで熱が一息に満ち、膝の震えが止まって、曲がりかけていた背中がすっと伸びる。さっきまで肩にのしかかっていた気だるさは、跡形もなく消えていた。
結人は立ち止まり、大きく息を吸った。
「‥‥ほんとだったんだ」
思わず漏れた呟きは、草原の風に紛れて消える。
草の匂いがした。
足元には、地面を覆う短い草がどこまでも広がっていた。ところどころに灰色の岩の柱が立ち、その先は遠すぎて見えない天井へと消えている。柱の根元にまで薄い光が満ちていて、地下のはずなのに風が吹き、草が一斉に同じ方へ傾いて波のように揺れた。遠くの柱の陰で、誰かの灯りが小さく瞬いている。
苔が光るだけの施設の隣の細い通路とは、何もかもが違っていた。
結人は柱の一本へ向かって歩き出し、直ぐに走り出していた。草を蹴るたびに体が前へ運ばれ、束ねた髪が背中で跳ねて、風が頬を切る。
岩の柱の手前で試しに地面を強く蹴ると、体がふわりと浮き上がった。柱の表面に張り出した岩棚が目の前を下へ流れていき、慌てて伸ばした手がその縁を掴む。籠手越しの指が岩に食い込み、体重のすべてを片腕で支えても肩は抜けない。そのまま腕を引きつけると、体は軽々と岩棚の上へ乗った。
施設の二階の窓よりも、ずっと高い場所だ。その高さから草原を見下ろしているうちに、喉の奥から何かが込み上げてきて、止めようと思った時にはもう遅かった。
「あははっ!」
弾けた笑い声はリーゼの声をしていたが、その笑い方は六歳の子供のものだった。結人は慌てて両手で口を押さえ、辺りを見回したが、近くに人の気配はない。手の下でまた唇が緩み、押さえきれない笑い声が指の隙間から漏れる。
病室のベッドでは寝返り一つ打てなかった体が、ここでは思った通りに動く。
「すご……。すっごいね、これ!」
誰も居ないのをいいことに、結人は声に出して言った。岩棚の端に腰を下ろし、足を投げ出して、しばらく風の渡る草原を眺めていた。
遠くの草むらで、何かの影が跳ねた。犬ほどの大きさで、背中が灰色に見える。ダンジョンの底で見た赤い目を思い出して、結人は膝を引き寄せた。剣を握る手は覚えていても、あの時の怖さもまだ体の中に残っている。影は草の中に沈み、それきり見えなくなった。
灯りも水も地図も、時計も持っていない。帰り道は門の位置を振り返って確かめるしかなく、門を出ればまた十分の勝負が待っている。六時の検温までには、あの窓へ戻らなければならない。
分かっていても、結人はもう岩棚の縁に立ち上がっていた。次の柱は、さっきの柱より少し遠い。膝を曲げ、草原の向こうへ狙いを定める。




