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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第5話 鏡像

 名前の下には、短い表示がいくつか並んでいた。


 見慣れた『Lv』の二文字の横に、数字の1が置かれている。その下の『スキル』の枠には、見覚えのある名前が記されていた。


 『ステラヒーロー』


 何度も遊んできたゲームと、同じ名前だった。ダンジョンの底で頭の中に開いた画面が、どうしてあのゲームにそっくりだったのか、その名前一つで分かった気がした。痛みに掻き消されたあのアナウンスも、きっとこの名前を告げていたのだろう。


 暗い病室で目を閉じたまま、結人は画面の端に並ぶ見出しを一つずつ開いていった。


 カードの一覧には一枚だけ、肩越しに振り返って笑うオレンジ色の髪の少女が並んでいる。名前は『リーゼ』で、★は三つ。夢ではなかったのだと、結人はその笑顔を見て思った。


 次の見出しには『編成』とあり、横に三つ並んだ枠のうち一つ目に、同じ少女のカードが小さく収まっていた。残りの二つは空のままで、枠の下に灯った『変身』の文字が、ダンジョンの底で見た時と同じ調子で明滅している。


 枠の下には長い説明の文も添えてあった。読めない漢字も意味ごと頭に入ってきたが、『決定』や『交代』という言葉が何度も出てくるばかりで、何のための枠なのかまでは分からなかった。


 最後の見出しは、星空の召喚画面だった。『召喚』のボタンは灰色にくすんでいて、タップしても反応せず、その下に、次の召喚には『魔石』が要ると一行だけ書いてある。初めの一回だけが無料だったのだと、結人はそこでようやく理解した。


 画面の隅には『FP:0P』と書かれた小さな欄もあった。見出しは『フレンドポイント』という見慣れない言葉で、何に使うのかはどこにも書かれていない。その隣の『インベントリ』という見出しを開くと、空の枠が数えるほど並んでいるだけだった。ステラヒーローの持ち物の画面によく似ている。


 『変身』の文字に、意識が引き寄せられる。もう一度、あの体になれるのだろうか。


 けれど左腕に繋がった点滴の管が目に入って、結人は思いとどまった。体ごと別のものに変わった時、腕に刺さった針はどうなるのか。考えるだけで背中が冷えた。その夜は、カードの中の笑顔を眺めているうちに眠ってしまった。


   * * *


 入院して四日目の昼過ぎに、ドアがノックされた。


「よう。入っていいか?」


 開いたドアの向こうに、あの大男が立っていた。色の褪せたネルシャツの袖を肘までまくり、無精髭の生えた顎を少し引いて、戸口の上枠に頭をぶつけないよう身を屈めている。後ろには仁科が付き添っていた。


 結人の全身が、その場で固まった。目だけが、戸口を塞ぐ大きな影から離れない。逃げようにも、足はギプスの中にあり、肩は帯に縛られている。


 男は戸口から先へ入ってこなかった。仁科に目で許しを取ってからドアの脇の丸椅子を引き寄せ、ベッドから一番遠い壁際に置いて、大きな体を窮屈そうに縮めて腰を下ろす。


「ギルドの榊だ。榊大吾。あの晩、お前を運んだのは俺だ」


 施設の食堂で聞いたくだけた調子のまま、声の大きさだけを絞った低い声だった。


「何があったかは聞かねえ。スキルのことも聞かねえ。そういう決まりだし、俺もそういうのは嫌いだ。今日は届け物に来ただけだ」


 榊はシャツの胸ポケットから白いハンカチの包みを取り出したが、立ち上がろうとして結人の顔を見ると、そのまま座り直した。包みは仁科の手に渡り、仁科がそれをベッド脇の棚に置く。ほどけたハンカチの端から、蜘蛛の巣のように割れた画面が覗いていた。美咲のスマートフォンだった。


 その隣に、親指の先ほどの石が転がった。くすんだ色の結晶の、半分ほどが内側から白く染まっている。苔の光の中で燃え上がった魔物の姿が、結人の頭をよぎった。


「あそこで拾った。お前のもんだ」


 それだけ言うと榊は膝に手をついて立ち上がり、戸口で一度だけ振り返った。


「困ったことがあったら、看護師さんに俺の名前を言え。直ぐ来る」


 ドアの向こうへ消えかけた背中に、結人は何か言わなければいけない気がした。けれど口を開いても、喉が音を通さない。


 ドアが閉まり、重い足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。その音がすっかり聞こえなくなってから、結人の肩はようやく下がった。ありがとうございます、と閉じたドアに向かって唇を動かしてみたが、その言葉は声にならないまま途切れた。


   * * *


「あら?魔石持っているのね」


 夕方に検温に来た仁科が、棚の上の石を覗き込んだ。


「ここはギルドの病院だから、探索者さんがよく持ってるの。ギルドに持っていけば買い取ってもらえるのよ。探索者証がないと売れないけどね」


「買い取る‥?」


「お金に換えてくれるってこと。いい魔石だと、すごい値段になるんだって」


 仁科は体温計の数字を書き留めるとベッドの背を起こすボタンを押し、持ち上がった結人の目の前で、カーテンを端まで引いた。


「ほら。ここの隣、霞ヶ丘ダンジョンっていうの。大きいダンジョンでね、あそこが門」


 三階の窓から見下ろした先には、灰色の大きな建物があった。正面に開いた背の高い門には、剣を背負った人や長い棒のようなものを担いだ人、大きな荷物を引いた人が途切れずに出入りしている。施設の隣の、塀に囲まれた小さなダンジョンとは何もかもが違っていた。


「門の隣がギルドの支部。夜もずっと開いてて、夜中にもたくさん人が来るのよ。昼間は別のお仕事をしてて、夜だけ潜る人も多いんだって」


 結人が窓の外から目を離せずにいると、仁科は割れたスマートフォンを手に取り、電源のボタンを長く押した。画面は黒いまま応えない。裏返して角のへこみを指でなぞってから、仁科は困ったように笑った。


「直すなら、何万円かは掛かるかもね。画面だけじゃなくて、中も壊れてそう」


「何万円‥‥」


「うん。看護師のお給料でも、ちょっと考えちゃう額かな」


「直したら、また、ゲームできる?」


 仁科は少し意外そうに結人を見てから、画面の割れ目を指でなぞった。


「中のデータが無事ならね。ゲーム好きなの?」


 結人は黙って頷いた。


 何万円という額を、結人は思い描けなかった。施設の子供は自分の財布を持っていないし、ガチャガチャを一度回すための硬貨さえ、結人は手にしたことがない。


   * * *


 消灯の後、結人は棚から魔石を取って右手に握り込んだ。


 滑らかな表面が、握っているうちに掌の熱を移して温くなる。目を閉じると、灰色にくすんだ『召喚』のボタンが浮かんだ。この石を使えば、ボタンはまた光るのかもしれない。天球儀が回って星が落ち、カードが表を向くまでの数秒が、もう一度手に入る。


 けれどこの石は、榊が何も聞かずに、一番遠い壁際の椅子から仁科の手を通して届けてくれたものだった。売ればお金になると仁科は言ったし、お金があれば美咲のスマートフォンが直るかもしれない。ただ、売るには探索者証というものが要る。


 長いこと考えた末に、結人はベッド脇の引き出しを開け、ハンカチにくるんだ魔石を奥へ仕舞った。


 五日目の午後に点滴が外れた。その夜、二度目の巡回の足音が遠ざかるのを待ってから、結人は編成の画面を開いた。一つ目の枠の少女の下で、『変身』の文字が灯っている。そこへ意識を重ねてみたが、何も起こらなかった。


 もう一度、強く念じてみても、体には何の変化もない。やはり夢だったのではないか、と思いかけたところで、ダンジョンの底での自分を思い出す。あの時は目をつぶったまま、光る二文字を読み上げていた。


 結人は掛け布団を頭まで被り、廊下へ漏れないように、その言葉を唇の上で小さく転がした。


「‥変身」


 体の芯に火が入った。ギプスの内側で、細かった足首が押し広げられる感触がする。硬い殻にぶつかると身構えた瞬間、締めつけそのものがふっと消え、肩を縛っていた帯の圧迫もなくなった。掛け布団の下で、伸びた足がシーツの端を越えている。


 体を起こしてベッドの縁から両足を下ろすと、足の裏が床についた。右足に体重を掛けてもどこも痛まず、そのまま立ち上がると天井が近い。ベッドの柵が、膝より低いところにあった。


 部屋の隅の小さな洗面台の上に、手のひらを二枚並べたほどの鏡が掛かっている。廊下から差し込む明かりを頼りに、結人はその前に立った。


 鏡の中には、オレンジ色の髪を頭の高い位置で一つに束ねた少女が居た。結び目からこぼれた毛先が、薄闇の中であちこちへ跳ねている。


 割れた画面越しでもカードの絵でもないその顔は、結人が首を傾けると同じ方へ首を傾け、眉を上げれば勝ち気に吊り上がった目尻をさらに持ち上げた。琥珀色の瞳が、暗がりで薄く光を返している。


 これが、今の自分の顔なのだ。


「僕、だよね」


 小さく呟いたつもりの声は、鏡の前で別の形になった。


「あたし、だよね」


 思わず口を押さえると、胸の内側に、どこからか可笑しさがじわりと広がった。鏡の中の誰かが面白がっていると感じた途端、指の長い手の下で唇の端が持ち上がる。つられて笑ってしまったのは、結人の方だった。手をどけて、もう一度言ってみる。


「僕の名前は、結人です」


「あたしは結人」


「‥‥って、何それ」


 鏡の中の少女は呆れたように眉を寄せ、直ぐに吹き出した。笑い声を抑えようとして肩が震える。声を立てて笑ったのがいつ以来なのか、結人には思い出せなかった。


 廊下の遠くで、扉の閉まる音がした。施設の部屋では隣の寝息を聞き取るのがやっとだった耳が、今は病棟の端の物音まで拾っている。看護師詰所の方で椅子が軋み、誰かが紙をめくる音の位置まで分かった。


 笑いが引っ込むのと同時に、体の奥で微かな変化が始まっていた。指先へ届いていた熱が、少しずつ戻りきらなくなっていく。腕を持ち上げるとさっきより重く、手足の端から気だるさが染み込んでくる。


 結人は慌ててベッドに戻り、仰向けになった。気だるさは寄せては返しながら濃くなり、やがて熱がふっと途切れる。リーゼの体の輪郭から淡い光の粒がこぼれ出し、天井へ昇りながら、掛け布団の上でほどけるように消えていった。視界が低くなり、右足首に硬い重さが戻ったかと思うと、骨の軋む痛みが続いた。左肩も帯の下で疼き出す。


 息を整えながら、結人は天井を見つめた。


 ダンジョンの底では、魔物と戦った後までずっとあの体のままだったのに、気だるさなど少しも感じなかった。あの時は変身していた時間が短かったから、気づかなかっただけなのだろうか。それとも、場所が違うからなのか。


 施設の職員たちが聞かせてくれた探索者の話の中に、ダンジョンの外ではどんな探索者もスキルや魔法の本当の力を出せないのだ、という話があった。結人の変身も、それと同じなのかもしれない。けれど、そうだと確かめる方法はまだ何もなかった。


 今夜は、変身してからどれくらい経ったのかも見ていない。鏡の中の顔に夢中で、時計のことなど頭から抜け落ちていた。


 結人は首を巡らせ、壁の時計に目を向けた。暗い部屋の中でも、光る数字ははっきりと読める。


 次は、この数字を見てから変身しよう。気だるさが来るまでに、どれだけの時間があるのかを確かめるのだ。カーテンの隙間からは、真夜中の門の明かりと、そこを出入りする人影が見えていた。

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