第4話 産声
背中に残っていた温かさは、警報が鳴りやまないうちに少しずつ薄れていった。
規則正しい電子音が通路の岩壁に跳ね返り、どこから響いてくるのかも分からない。結人は剣を下ろしたまま割れたスマートフォンを握っていたが、画面に映っていた少女の顔は、手元が僅かに傾いただけで苔の光に溶けて見えなくなった。
その直後、膝から力が抜けた。岩肌が斜めに傾いて地面が頬に迫り、倒れたと気づくより早く、視界の縁から暗がりが滲み出してくる。胸の内側に灯っていた火は、吹き消される蝋燭のように細く萎んだ。
意識が途切れるのと同時に、体が縮んだらしい。剣の柄の重みが掌から消え、握っていたスマートフォンが指から滑り落ちて岩に当たる。乾いた音を聞いた途端に、置き去りにしていた痛みがまとめて戻ってきた。
右の足首では骨が軋み、左肩の奥には熱を持った痛みが居座っている。喉から押し出された呻き声は、聞き慣れた子供の声をしていた。
その痛みに引き戻されて閉じかけた目を開けると、通路の入口の方から白い光の輪が揺れながら近づいてくるところだった。
「――坊主!何があった!?大丈夫かっ!?」
顔に当たった光に目を細めると、逆光の中に身を屈めた大きな影が見えた。その呼び方には聞き覚えがある。今朝の食堂で、頭へ手を伸ばしてきた男の声だった。
大きな手が背中と膝の裏に差し込まれ、体がふわりと浮く。酒の匂いと、汗の染みたシャツの匂いがした。いつもなら触れられたところから体が石に変わり始めるはずなのに、今度はそれが始まる前に、意識の方が落ちていった。
* * *
目を開けると、天井が白かった。
施設の部屋の天井には雨漏りの染みが地図のように広がっているが、ここにはそれがない。染み一つない白い板に、細長い照明が埋め込まれているだけだ。
消毒液の匂いがした。左腕には透明な管が繋がれ、その先の袋から薬が一滴ずつ落ちていた。右足は膝の下から硬いもので固められていて、持ち上げようとしても重さしか返ってこない。左肩は布の帯で胸に縛りつけられ、指先を動かすのがやっとだった。
結人は空いている右手で掛け布団の上を探り、枕の脇を叩き、シーツの下にまで指を差し入れた。どこにもない。
「あ、起きたのね」
ドアの方から声がして、水色の制服を着た看護師がベッドの脇へ回り込んできた。四十代くらいの女の人で、目尻に笑い皺がある。看護師は結人の額に手を当て、点滴の落ちる速さを確かめてから、胸の名札を指で示した。
「担当の仁科です。ここは病院。丸一日眠ってたの。痛いところは?」
「‥‥ここは?‥‥病院?」
「そう、ギルドの病院。あなた、ダンジョンの中で倒れてたのよ。覚えてる?」
結人は少し考えてから、首を小さく横に振った。
答えようとすると喉がひりつく。仁科は吸い飲みで水を含ませてから、もう一度同じことを聞いた。
「スマホ」
「え?」
「スマホ、持ってた。画面が割れてるやつ」
仁科は少し考えてから首を振った。
「運ばれてきた時は、何も持ってなかったと思うけど。後で聞いておくね。それより、痛いところは?」
「‥‥足と、肩」
「でしょうね。両方折れてるから」
「‥‥治る?」
「治るわよ。子供の骨は治るのが早いの。ただ、しばらくはこのベッドから動けないけどね」
後から来た医師が、同じことをもう少し難しい言葉で説明した。右の足首の骨が折れてずれていたので、元の位置に戻して固めたこと。左の鎖骨も折れていること。しばらくは右足を床につけてはいけないこと。
「それから、ダンジョンの中に長く居たからね。魔素の検査も続けます。痛いことはしないから」
魔素という言葉を、結人は施設の職員の話でしか聞いたことがなかった。目には見えないけれど体に悪いもの、という程度にしか知らない。医師が出ていった後も、結人の右手はシーツの上を探り続けていた。美咲から譲り受けた、画面の割れたスマートフォン。気を失う直前まで握っていたはずのものが、どこにもない。
* * *
その日の夕方、院長が来た。
後ろに連れていたのは、あの日、廊下で三人に押さえつけられていた結人の横を「怪我しないようにね」とだけ言って通り過ぎた職員だった。院長はベッドの足元に立ったまま、固められた右足と縛られた肩を順に眺め、それから深く息を吐いて眼鏡を外した。
「どうして、あんなことをしたの」
責める響きよりも、疲れの方が勝った声だった。
「夜中に塀を越えて、ダンジョンに入るなんて。大人になるまでは絶対に入っちゃいけないって、何度も言ってきたでしょう。ギルドの方が見つけてくださらなかったら、どうなっていたか分かる?」
結人はシーツの端を握りしめた。
「誰かに、行けって言われたの?」
職員が身を屈め、結人の顔を覗き込んだ。その目を見た途端に、喉まで出かかっていた名前が引っ込んだ。
この人に話せば、施設に帰ってから大河を呼んで、本当なのかと聞くだろう。大河は遊んでいただけだと笑って答え、この人は、それならいいと頷いて話を終える。廊下で三人がかりの「プロレスごっこ」を見た時と同じように。そうして大人たちが事務室へ戻っていった後には、結人と大河だけが同じ部屋に残される。
あの夜、大河は窓を開け放ったまま、ドアの前に座り込んで廊下への道を塞いでいた。告げ口をした子供が戻る部屋にも、あのドアがあり、ドアの横には大河の布団がある。
「ごめんなさい‥‥」
「謝ってほしいんじゃないのよ。理由を聞いてるの」
職員が言葉を重ねた。
「ごめんなさい‥‥」
同じ言葉しか出てこなかった。院長と職員が顔を見合わせ、長い沈黙の後で院長が眼鏡を掛け直す。
「食堂のポスターでも見て、探索者の真似をしたくなったんでしょう」
職員は何か言いたそうに院長を見たが、院長の中ではもう話が終わっていた。
「それから。ダンジョンに入ると誰でもスキルを貰えるのは、知っているでしょう。あなたも何か貰ったはずですが、それを聞いてはいけない決まりになっています。ギルドの方からも念を押されましたから、私たちは聞きません。あなたも、人に言いふらしたりしないこと」
結人は小さく頷いた。そもそも結人自身が、何を貰ったのかを知らない。アナウンスは痛みに掻き消されて、最後の一言しか聞き取れなかったのだ。
院長は手元の書類をめくりながら続けた。
「入院は長くなるそうです。二か月くらいと聞いています。骨がくっつくまでは足をつけないし、魔素の様子も見る必要があるということなので。施設は階段ばかりですから、その足と肩では、こちらで面倒を見るのは難しい」
「二か月、ここに居るの‥‥?」
「そういうことです」
結人はもう一度、その長さを口の中で繰り返した。
この部屋は一人部屋で費用はギルドが持つこと、検査が続く間は面会が施設の職員とギルドの担当者に限られること。院長はそれを、書類を読み上げるような調子で告げていった。
職員は紙袋から着替えを出してベッドの下の棚に並べていたが、最後の一枚を畳みながら、思い出したように顔を上げた。
「そうそう。大河くんたちもね、すごく心配してたのよ。早く元気になってほしいって」
畳まれたシャツの襟を、結人はじっと見つめた。窓から覗き込んで笑い、そのまま窓を閉めた顔が浮かんでくる。あの顔のどこに、心配があったのだろう。
「そう‥なんだ‥‥」
それだけ答えると、職員は満足したように紙袋を畳んだ。
二人が帰り支度をする間、結人は布団の上に投げ出した自分の右手を見ていた。爪の間にダンジョンの土がまだ黒く残っている、小さな手だ。
この手が剣の柄を握り、指先の出た革の籠手に収まっていた。腕は今よりずっと長く、目の高さは岩の出っ張りと同じところにあった。割れた画面には、オレンジ色の髪をした知らない少女の顔が映っていた。
夢だったのかもしれない、と結人は思う。足首と肩の痛みも、ギプスの重さも本物なのに、あの少女の顔だけがどこにも残っていない。
二か月という長さを、結人はうまく思い描けなかった。
ここには、大河が居ない。
その事実だけで、この場所がとても居心地良く思えた。
* * *
院長たちが帰った後、ドアの小窓に影が差した。
磨りガラスの向こうに、肩幅の広い背の高い人影が、小窓の枠から頭をはみ出させて立っている。影はノックもせず、取っ手に手を掛けることもないまま、しばらくそこに留まっていた。シーツを握った結人の右手の指が、開かなくなる。
やがて影が廊下の奥へ遠ざかると、入れ違いに夕食の盆を持った仁科が入ってきた。
「今の、あなたを運んできてくれたギルドの人よ。救急車にも一緒に乗ってきたの。昨日から何回か、ああやって前まで来てるんだけど」
仁科は盆をテーブルに置いて首を傾げた。
「入っていいですよって言ったのにね。寝てる子を起こしたくないんだって。スマホのこと、今度来たら聞いてみようか」
抱き上げられた時の、酒と汗の匂いを思い出す。結人は盆の上の湯気を見つめてから、小さな声で聞いた。
「……あの人、また来るの?」
「来ると思うよ。心配してるみたいだったから」
仁科はそう言って、結人の肩の帯の具合を確かめた。
* * *
消灯の時刻を過ぎると、病棟は施設の夜よりもずっと静かになった。
廊下の明かりが小窓から細く差し込み、天井に四角い光を落としている。遠くでナースコールが鳴って足音が一度だけ通り過ぎた後は、点滴の機械が刻む小さな電子音しか聞こえなかった。隣の布団の寝息も、寝返りの音も、ドアの横からこちらを窺う気配もない。
目の縁が熱くなった時、結人の右手は掛け布団の端を探っていた。口元へ引き寄せかけたところで、その手が止まる。ここには、布団を噛んで声を塞がなければならない理由がなかった。
そう分かっていても、声は直ぐには出てこない。喉が、音の通り道を忘れてしまっている。結人は唇を僅かに開き、息に混ぜるようにして、小さな声を一つだけ漏らしてみた。
点滴の機械は変わらない間隔で電子音を刻み、廊下の向こうの足音は近づいてこない。さっきより大きな声をもう一つ出してみても、天井の四角い光は動かず、ドアの小窓に影も差さなかった。
三つ目の声は、もう途中で止められなかった。
結人は白い天井を見上げたまま泣いた。声は掠れて裏返り、しゃくり上げるたびに縛られた肩に響く。痛いから泣いているわけではなく、何が悲しいのかを探しても、言葉になるものは見つからない。それでも、自分の泣き声を自分の耳で聞くのは、不思議と嫌ではなかった。
ダンジョンの底でも声を上げたが、あの時は泣き声が魔物を呼び寄せた。今は、看護師の足音さえドアの前で止まらずに過ぎていく。
涙が乾いて頬が突っ張る頃には、呼吸もようやく落ち着いていた。結人が目を閉じると、瞼の裏がほのかに明るくなる。
ダンジョンの中で見た星空の召喚画面とは違い、濃い紺色の地に、細い金の線で区切られた枠がいくつも並んでいた。ステラヒーローで言えば、キャラクターの強さを確かめる画面に近い。
その一番上の枠に、漢字が四つ浮かんでいた。目に入った途端に、それが自分の名前だと分かった。




