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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第3話 召喚

 赤い光の持ち主は、苔の明かりの縁まで出てきて足を止めた。


 形は鼠に似ている。ただし、施設の裏庭の排水溝で見かける鼠とは比べものにならず、低く構えた胴は中型の犬ほどもある。灰色の毛はところどころ抜け落ち、剥げた箇所から黒ずんだ皮膚が覗いていた。


 壁の明かりを鈍く撥ね返すその皮膚は、獣の肌というより雨上がりの岩の表面に近い。口の端からは黄ばんだ長い前歯が二本、地面へ向かって突き出している。


 岩壁の爪痕も、齧られた殻も、これが残したものだ。


 逃げようとして右足を引いた途端、足首の内側で骨のずれる感触がして、息が詰まった。背中はすでに岩に当たっている。左腕は肩から先が上がらず、這って下がることさえできない。


 魔物は鼻先を上下させ、湿った音を立てて空気を嗅いでいた。泣き声を辿ってここまで来たのだろう。爪が岩を掻くたびに、赤い目との距離が一歩分ずつ縮まる。


「やだっ!こっちこないで‥‥!」


 声は喉の途中で潰れた。結人は割れたスマートフォンを胸に押し当て、目をつぶる。夜ごと布団の中でそうしてきたように、体を小さく丸めて、足音が通り過ぎるのを待つしかなかった。


 瞼の裏が明るくなった。


 苔の光の色とは違う。濃紺の夜空に無数の星が散り、画面の上のほうで金色の飾り文字がきらめいている。毎日開いていたスマホゲームのアプリ「ステラヒーロー」のガチャの画面と同じ光景が頭の中に浮かんでいる。

 中央ではステラヒーローと同じ形の『召喚』のボタンが明滅していた。


 これが何なのかを考える余裕はない。縋るような思いで『召喚』ボタンに意識を向けてガチャを引こうと思った。そう思った瞬間、頭の中に浮かぶボタンがタップされた。


 星空の中央に金色の細い線で組まれた天球儀が現れる。重なり合った輪がそれぞれ違う向きに回り出し、駆動音が低く唸りながら音程を上げた。足元の土の冷たさも、近づいてくる爪の音も、その音の向こうへ遠ざかる。


 夜空の一点が瞬いた。星が一つ、尾を引いて落ち始める。


 尾の色を見て、結人の指先から力が抜けた。青だ。昼間に鉄の盾を出したのと同じ、★3の色。青い光はそのまま天球儀の中心へ吸い込まれた。


 昇格はなかった。輪が弾けるように開き、光の柱が立ち上がる。


 外れだ。それでも結人は光の柱から目を逸らさなかった。カードが表を向くまでは、まだ何も決まっていない。


 柱の中から、裏面に星座模様を刻んだカードがせり上がる。模様が一回転して、カードが表を返した。


 描かれていたのは、少女の姿だった。


 枠は青みがかった銀色だ。台座の星が一つ、二つ、三つと順に灯る。三つ目が灯りきるとカードは画面の外へ溢れるほど大きく拡がり、少女の立ち絵が視界を埋めた。


 オレンジ色の髪を頭の高い位置で一つに束ね、結び目からこぼれた毛先があちこちへ跳ねている。


琥珀色の目は画面の向こうの結人を真っ直ぐ捉えていた。


 装備はどれも古い。革の胸当ては使い込まれて飴色に変わり、腰に巻いた赤い布の端は擦り切れている。指先の出た革の籠手。鉄で縁取った木の円盾には炎の紋様が焼き付けてあるが、半ば掠れて輪郭が途切れている。右手の剣は、刃の幅が根元と先とで揃っていなかった。


少女の名前が頭に浮かんでくる。


『リーゼ』


 リーゼ、と口の中だけでなぞる。剣士。ステラヒーローの職業欄で、毎日のように見てきた肩書きだ。


 帯が消えると、カードは手のひらほどの大きさに縮み、画面の下に並んだ三つの枠の一つ目へ収まった。残りの二つの枠は空のままだ。収まったカードの下に、新しい文字が浮かび上がる。『変身』。その二文字が、さっきの『召喚』と同じ調子で明滅していた。


 爪の音が直ぐそばで止まり、生臭い息が頬に掛かる。目を開ければそこで終わる気がして、結人は瞼を閉じたまま光る二文字を見つめた。声に出すつもりはなかった。震える唇から、読み上げた言葉が掠れた息になってこぼれ落ちる。


「‥‥変、身」


   * * *


 体の芯に火が入った。熱は胸から指の先まで広がり、折れた右の足首にまで届く。熱が通り過ぎた後には、骨の軋みも脈打つような肩の痛みも残っていなかった。目を開けると、視界の高さが変わっている。さっきまで見上げていた岩の出っ張りが、ちょうど目の前にあった。


 寝間着は消え、膝丈の旅装と硬い革の胸当てが体を包んでいる。左腕には円盾の重み、右手には剣の柄。柄が掌に収まった拍子に、胸に抱えていたスマートフォンが指から抜けて足元に転がった。視界の端で、オレンジ色の髪の束が揺れる。


 音と匂いが急に増えた。洞窟のずっと奥で水の滴る音が、一滴ずつ数えられるほどはっきり届く。苔の明かりしかない暗がりの隅まで、岩の凹凸が見分けられる。湿った土と鉄錆の匂いに混じって、目の前の獣から腐った脂の臭いがした。


 魔物が跳んだ。開いた口が顔の高さまで来るより早く、左腕が上がっていた。盾をどう傾け、どちらの足に体重を預け、肘をどこまで締めるか。結人の知らないことばかりなのに、体のほうはその答えを覚えている。


 誰かが何千回となく繰り返してきた動きを、腕と脚がなぞっていく。盾の面で突進を受け止めて腰を回し、押し返す。灰色の体は横へ弾かれて岩壁に叩きつけられ、濁った鳴き声を上げた。


 来ないで、と言ったつもりだった。


「こ、来ないでよ!」


 喉からは、聞き覚えのない少女の声が出た。言葉を選んだのは自分なのに、言い回しも声の高さも結人のものとは違う。


 剣を握った手を見下ろすと、細い指が古い籠手に収まり、手の甲は日に焼けていた。僕、今……? そう呟いたつもりの口が、別の言葉を紡いだ。


「え‥今の声、あたし‥‥?」


 答えを考える暇はなかった。岩壁の下で魔物が身を起こし、赤い目を細める。次の瞬間には真横の岩壁を蹴り、天井を足場にして斜め後ろへ跳んでいた。爪が岩を掻く音が、頭の上を回り込んで背後へ抜ける。


 動きは見えていた。この体の目は跳ね回る灰色の影を一つも取りこぼさない。


 振り向いて盾を向ければ間に合う。それが分かっていて、膝から下が岩に貼りついたまま動かない。廊下で三人に押さえつけられた時と同じで、手足の先から感覚が引いていき、どこにも力が入らない。


 前歯が届く寸前に、盾が上がった。遅れた盾の縁に、黄ばんだ歯が深く食い込む。木と鉄の軋む音がして、噛む力が腕を伝って肩を引く。結人の体は岩壁のほうへ傾いた。


 肩に入った力を抜け、と促すものがあった。詰めていた息を吐き出したくなる感覚が背骨に沿って降りてきて、強張った肩の上でほどける。


 結人は、息を吐いた。


 肩が下がり、肘が緩む。張り合っていた腕から力が抜けると、魔物の勢いは行き場を失い、盾の面を滑って横へ流れた。灰色の胴が目の前を通り過ぎる。毛の抜けた脇腹ががら空きになっていた。


 右手の剣が閃いた。手応えは硬い。刃は黒い皮膚の表面を削っただけで、甲高い音とともに弾き返される。腕に痺れが残る。その痺れの中で、自分では下しようのない判断が一つ、はっきりと形を取った。


 浅い。


 魔物が着地して向き直るより先に、胸の真ん中が熱を持った。変身した時に体へ入った火が、今度は一か所へ集まっている。集まった熱が腕を下りて、刃へ注がれた。


 剣が燃え上がる。研ぎ減った刃を、橙色の炎が根元から切っ先まで包んだ。炎の照り返しが洞窟の壁を赤く染め、苔の光を塗り潰す。


 同じ瞬間、遠くで電子音が鳴り始めた。入口のほうだ。耳をつんざくような規則正しい警報が、岩壁に反響しながら洞窟の奥まで押し寄せる。


 魔物が地面を蹴る。今度は正面から、真っ直ぐに。


 剣を握る手首がひとりでに返った。肩の高さまで刃を引き、腰を沈める。刃を包んでいた炎が細く圧し縮められ、芯の色が橙から緋へ変わる。視界の隅に文字が一行だけ浮かんだ。


『緋走り《ひばしり》』


 その名を目にした時にはもう、それが何を起こす技なのかを腕が知っていた。


 踏み込みと同時に、剣を振り抜く。刃は思い描いた線を一寸も外れずになぞった。遅い、という感想がひどく軽い調子で胸をよぎる。


 燃える刃が黒い皮膚に触れた瞬間、刃の当たったところで緋色の光が爆ぜた。さっき剣を弾いた岩肌が一息に赤熱し、刃はそのまま胸元へ沈んで反対側へ抜ける。最初の一太刀で腕を痺れさせた硬さは、どこにもなかった。


 遅れて、刃の通った線から細かなひびが四方へ割れ広がり、その奥から火が噴き出した。残っていた灰色の毛が端から燃え上がり、魔物の体が火に包まれる。熱風が通路を逆流し、束ねた髪が後ろへ煽られた。魔物の上げかけた悲鳴は、燃え盛る音に呑まれて途切れた。


 振り抜いた切っ先から、緋色の炎が三日月の形に伸びる。炎は魔物の体を通り過ぎてなお勢いを失わず、その先の岩壁へ走った。轟音が通路を揺らし、炎の刃は岩壁を斜めに駆け上がって天井の近くまで一筋の溝を刻んでから消えた。


 魔物は燃えたまま結人の脇をすり抜け、二、三歩進んだところで前脚を折って倒れ込んだ。毛の焦げる臭いが立ち込め、皮膚のひびの奥で残り火がちらついている。それきり動かない。


 ダンジョンに潜る探索者の中でも、魔力を扱える者は一握りしか居ない。剣に宿した炎を斬撃のまま刃の先まで走らせる者となれば、熟練の探索者の中でもそう多くはないだろう。その技が、この小さなダンジョンに棲む取るに足らない獣に向けて振るわれた。


   * * *


 剣の炎が細くなり、消えた。岩壁の溝の縁はまだ赤く焼け、溶けた岩が雫になって垂れている。その赤みも、魔物のひびの奥の残り火も少しずつ暗くなり、通路はまた苔の青白い光に戻る。


 警報は鳴り続けている。ほかに聞こえるのは、奥で水の滴る音と、自分の荒い呼吸だけだ。


 結人は剣を下ろし、足元のスマートフォンを拾い上げた。電源の入らない画面は黒く沈んでいる。持ち上げた角度で苔の光が液晶に差し込み、ひびの間に誰かの顔が浮かんだ。


 オレンジ色の髪をした、知らない少女の顔だった。


 カードの中ではあれほど大きく笑っていたのに、今は眉を寄せ、唇をきつく引き結んでいる。琥珀色の目の縁が赤い。今にも泣き出しそうな顔をしている。


 結人自身は、泣いていない。それなのに、胸の中に覚えのない重さが広がっていた。腫れ上がっていた足首、打ちつけた肩、踏み割られた画面。それらを思い浮かべるたびに、重さは胸の底へ沈んでいく。


 この数か月、自分の怪我にそんな顔を向けられたことは一度もなかった。


 耳を澄ませても、声は聞こえない。ただ、背中の真ん中の、ちょうど掌一枚分の広さだけが、ほんのりと温かかった。

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