第2話 墜落
「おい」
暗闇の中から低い声が飛んできた。
ドア側の布団で、大河が上体を起こしている。窓から差す月明かりが、その口元の笑みだけを白く浮かび上がらせていた。
「起きてんだろ。取ってこいって言ったよな?」
隣の布団から押し殺した笑い声が漏れる。翔も起きていた。
大河は布団を出ると、結人の枕元を素通りして窓を大きく開け放った。冷えた夜気がなだれ込み、カーテンがはためく。
「ドアから出られると思うなよ。俺が通った道があんだろ。そこから行け」
顎で示された先には塀の上端があった。コンクリートの縁が月明かりを受けて白く浮かんでいる。窓からあの縁までは、細い通路を挟んで数メートル。
「跳べねえなら別にいいぜ。あれはずっとあそこに転がってるだけだ。明日からは、もっと遊んでやるけどな」
大河はそう言って、ドアの前に腰を下ろした。廊下へ出る道はそれで完全に塞がれる。
「先生にチクったら、どうなるか分かってるよな?」
結人は掛け布団を握ったまま動けなかった。宿直室まで辿り着けたとしても、何を言えばいいのかが分からない。昼間あれだけ叫んでも窓一つ開かなかった大人たちが、夜中に子供の話を聞いて塀の向こうまで探しに行ってくれるとは思えなかった。
開いた窓の向こうに、スマートフォンがある。
ハンカチに包まれたそれを手渡された日の、美咲の笑った顔が浮かぶ。ゲームの始め方を教わりながら、初めて引いた無料ガチャの光に二人で声を上げた。あのスマートフォンにはその日からの全部が入っている。
「取りに、行かなきゃ‥‥」
自分に言い聞かせるための声だった。背中で翔が噴き出す。
* * *
窓枠に足を掛けると、素足の裏に冷えたアルミの感触が伝わった。寝間着の裾から夜気が入り込んでくる。
見下ろした先では、施設と塀の間の細い通路が底の見えない溝になって黒く沈んでいた。大河が軽々と跳び移っていった距離は、窓枠に立ってみると部屋の中から見ていた時よりずっと遠い。
膝が震え、窓枠を掴む指がアルミに食い込む。
振り返れば、ドアの前に座り込んだ大河と目が合う。ここで布団に戻れば、スマートフォンは塀の向こうに置き去りになり、明日からの遊びはもっと痛くなるだけだ。
結人は窓枠を蹴った。
体が宙に投げ出された瞬間、耳元で風が鳴る。腕を伸ばす。塀の縁が迫る。右足のつま先だけが届いた。
体重のすべてがその一点に落ちる。乾いた枝を踏み折ったような音が、足首の内側から響いた。
何が起きたのかを理解する間もなく体が傾く。縁を掴もうとした指は冷たいコンクリートの上を滑り、結人は塀の内側へ落ちていった。
葉の擦れる音がして小枝が顔を打つ。背中が太い枝に引っ掛かって一瞬だけ落下が止まり、また落ちる。最後に左肩から地面に叩きつけられ、鈍い衝撃が全身を突き抜けた。
「うぐっ‥あ‥‥」
息ができない。
喉の奥で空気が詰まり、口を開いても声が出なかった。遅れて来た痛みは右の足首と左の肩で、互いに違う拍子で疼いている。
結人は地面に頬を押しつけたまま歯を食いしばった。叫べば誰かが来るかもしれない。けれど夜中に声を上げた時、来るのはいつも助けではなかった。毎晩の習慣が悲鳴を飲み下させる。
塀の出入り口の扉は闇の中で固く閉ざされ、管理事務所の窓にも明かりはない。木の葉のざわめきのほかには何の音もしなかった。
仰向けに転がると、枝葉の隙間から施設の二階が見える。開いた窓に大河の頭の影が一つ覗き、短い笑い声が夜気に混じった。影が引っ込み、窓の閉まる乾いた音がする。手を伸ばせば届きそうに見えるその窓は、四メートルの塀に阻まれ、今の結人にはどうやっても戻れない場所になっていた。
窓は、その後一度も開かなかった。
* * *
どれほどそうしていたのか、結人には分からない。
右足に体重を掛けようとした途端、目の前が白く弾けた。立ち上がるのはそれきり諦める。左腕も、肩から先が言うことを聞かない。結人は右手と左膝で地面を掻き、折れた足を引きずって木々の間を這い進んだ。
塀の内側は外から想像していたより広い。手入れのされていない植え込みの先に、ごつごつとした岩の塊が盛り上がっている。その根元に、大人がようやく屈んで通れるほどの裂け目が口を開けていた。
洞窟の入口に似たその暗がりから、ひんやりとした空気が流れ出してくる。湿った土に、嗅いだことのない金気の匂いが混じっていた。
ダンジョンの入口だ。
探索者の資格を持たない者はこの先へ立ち入ってはならない。ダンジョンの内部には魔素と呼ばれる異質なものが満ち、それを糧にする魔物が棲んでいる。最も易しいとされるダンジョンでさえ、丸腰の大人が奥まで入って無事に戻れる保証はない。
施設の職員たちは探索者の話をする時だけ声に熱がこもる。魔物を討ち、異界の宝を持ち帰り、街を守る英雄たち。君たちも大人になればなれる、と彼らは繰り返し語って聞かせた。
ダンジョンの外では、どんな探索者もスキルや魔法の本当の力を出せないのだという話も、その中で何度も聞いた。だから英雄たちは、地上では力を抑えて暮らし、裂け目の向こうでだけ本当の力を振るうのだと。そして話の最後には、決まってこう付け加えた。
「でも、大人になるまでは、絶対に入っちゃ駄目だよ」
その英雄たちの入口に、結人は今、這って辿り着いている。
入口の脇には金属の柱が一本立っていた。柱の上部に取り付けられた小さな装置が、緑のランプを規則正しく点滅させている。それが感知器だということを、結人は知らない。知っていたとしても、這って進む子供の体からはあの装置が拾うべき揺らぎなど何一つ出ていなかった。
岩の縁に手を掛け、結人は裂け目の中へ体を引きずり込んだ。
頭の内側に白い光が灯る。
目を閉じても消えない光の中に、文字が一行ずつ浮かび上がった。同時に、抑揚のない声がそれを読み上げ始める。耳を通らず、頭の内側で直接響いている。
『――への初回進入を確認しました』
引きずり込んだ右足が岩の縁に擦れ、折れた骨が軋んだ。声にならない息が歯の隙間から漏れる。声はその間も淡々と続いていた。
『――に基づき、――を付与します』
肩の痛みが脈打つたびに、視界の光が明滅する。結人は額を冷たい岩に押しつけた。浮かんでは消える文字を追う余裕は、どこにもない。意識のすべてが叫び出さないことだけに注がれている。
『――――を獲得しました』
何かの名前が告げられた気がした。それが何だったのかは、足首から突き上げてくる痛みに掻き消されて聞き取れない。
痛みの波が少し引いた隙間に、最後の一行だけがはっきりと届いた。
『付与を完了しました』
光は薄れ、頭の中に静けさが戻る。
ダンジョンの入口をくぐった者は、例外なく最初の「スキル」を与えられる。それはこの世界の常識で、職員たちの話にも何度となく出てきたことだ。だが痛みに耐えるだけで精一杯の結人は、たった今それが自分の身に起きたのだと思い至れなかった。
* * *
洞窟の中は思っていたほど暗くない。
岩壁のところどころに張りついた苔が、青白い光をぼんやりと放っている。灯りと呼ぶには頼りないが、地面の凹凸と行く手を塞ぐ岩の輪郭くらいは見分けられた。
通路は緩やかに下りながら奥へ続いている。どこかで水の滴る音がして、そのさらに向こうから、時折何かが岩を引っ掻く乾いた音が届いた。
結人は這う手を止めなかった。止めたら、二度と動けなくなる気がした。
進むうちに、岩壁の様子が変わり始める。腰ほどの高さに細い溝が何本も平行に刻まれていた。爪で削った跡だ。足元には乾いた木の実の殻のようなものが散らばり、手をつくたびに軽い音を立てて砕ける。殻の一つ一つに、小さな歯で齧り取った痕が残っていた。
ここには何かが棲んでいる。その歯は子供の指くらいなら簡単に噛みちぎれるだろう。
大河は入口からそれほど奥まで入っていないはずだ。窓から跳んで戻ってくるまでの時間は長くなかった。結人は苔の光を頼りに、岩陰を一つずつ覗き込んでいく。
一つ目の岩陰には黒い水が溜まっているだけだった。二つ目では、腕を差し入れた隙間から何か柔らかいものが逃げていき、結人は慌てて手を引っ込めた。一拍遅れて肩の痛みが追いかけてきて、しばらくその場から動けない。
三つ目の大きな岩を回り込んだ時、苔の光とは違う硬い光沢が目に入った。
スマートフォンは岩と地面の隙間に押し込まれていた。
右手を伸ばして引き寄せると、指先に見慣れたケースの角が触れる。ほっと息をつけたが、それも一瞬だった。
画面が、蜘蛛の巣のように砕けている。
割れ目の中心には靴底の溝の跡が白く残っていた。落としたのではない。ここに置いた誰かが、上から踏みつけたのだ。
電源ボタンを押し込んでも、画面は黒いまま変わらない。離して、もう一度押す。長押ししても何度叩いても、ひび割れた液晶は苔の光を鈍く映し返すだけだった。
星空の画面も、天球儀も、流れ星も、もうどこにもなかった。
「やだ‥‥やだよ‥‥なんでつかないの‥‥」
掠れた声が、岩肌に吸い込まれていく。
視界が滲み、熱いものが頬を伝って割れた液晶の上で弾けた。
いつもならここで布団の端を噛む。声を殺し、肩の震えを押さえ込んで、朝が来るのを待つ。今の結人の周りには布団もなければ、うるさいと蹴りつけてくる足もない。
まず、しゃくり上げるような短い息が漏れた。それが嗚咽になり、嗚咽は直ぐに抑えの利かない泣き声に変わる。
結人は割れたスマートフォンを胸に抱え込み、声を上げて泣いた。この数か月、一度も外へ出せなかった声が、堰を切って溢れ出す。泣き声は狭い通路の岩壁に何度も跳ね返り、洞窟の奥へ遠ざかっていった。
やがて声は掠れ、途切れがちになる。声が途切れたその合間に、別の音が混じった。低く、湿った、喉を鳴らす音。
結人は顔を上げた。
通路の奥、苔の光が届かない暗がりの中で、二つの小さな点が赤く光っている。
赤い点は瞬きを一つして、こちらへ近づいてきた。岩を引っ掻く爪の音が、さっきよりずっと近くで響く。
暗がりの奥で、何かが唸った。




