第1話 宝物
光る苔が岩壁をまだらに照らしている。
地上の夜よりも深い場所だ。湿った土と鉄錆の混じった空気が肺を満たし、遠くでは何かの爪が岩を掻く音が間を置いて響いてくる。
その底に六歳の子供がうずくまっていた。
神楽結人は、両手で一台のスマートフォンを握りしめている。砕けた液晶に苔の青白い光が滲み、ひびの一本一本が細い線になって浮かんで見えた。何度も電源ボタンを押し込むが、画面は応えない。
「やだ‥‥やだよ‥どうしてつかないの‥‥」
掠れた声は、誰にも届かないまま岩肌に消えた。
* * *
東京の外れ、古い住宅地の一角に、高さ四メートルほどのコンクリートの塀がある。
塀の内側にあるのは、ダンジョンだ。地上の常識が通じない魔物を吐き出し、同時に人類へ新たな資源と「スキル」をもたらした、異界への裂け目。ダンジョンが各地に現れて以来、その周囲は探索者ギルドの管理地となり、こうして塀で囲うのが通例になった。
もっとも、この塀の中にあるのは、ギルドが管理するダンジョンの中でもごく難易度の低い部類の、小さなダンジョンにすぎない。出入り口の扉は夜になると施錠され、管理事務所も無人になる。入口に据えられた感知器だけが、魔素や霊素の異常な揺らぎを夜通し見張っている。
その塀と細い通路一本を隔てて、二階建ての児童養護施設が建っていた。
ギルドが土地を提供し、運営にも名を連ねる施設だ。ダンジョンの出現以来、親を失う子供は確実に増えている。ここで暮らす十数人の中にも、探索者だった親をダンジョンに奪われた子は少なくない。
結人もその一人だった。
* * *
消灯から一時間が過ぎても、二階の四人部屋では寝息が揃わない。
窓際の布団の中で、結人は古い型のスマートフォンを腹に抱え込み、体を丸めていた。寝返りを打とうとするたびに、脇腹の奥がじくりと痛む。
夕方、大河たちに遊びに誘われた。誘われること自体は珍しくもない。廊下で始まった「プロレスごっこ」はいつも通り三人がかりで結人を床に押さえつける形になり、最後は大河の膝が脇腹にめり込んで終わった。通りかかった職員は「怪我しないようにね」とだけ言い残し、足も止めずに事務室へ戻っていった。
その間、結人はずっと笑っていた。笑っていれば、ただの遊びで済む。少し前までは本当にそう思えていた。
昼間に貼りつけた笑顔は消灯と同時に剥がれ落ちる。結人は掛け布団の端を口に押し込み、喉の奥で嗚咽を噛み殺した。声さえ漏らさなければ、朝まではやり過ごせる。この数か月で身についた夜の過ごし方だ。
ただ、布団の擦れる音までは消せない。
「――うるせえ!静かにしろっ!」
背中を鈍い衝撃が打った。ドア側で寝ていたはずの大河が、いつの間にか枕元に立っている。四年生の大河は部屋の誰よりも体が大きく、逆らえる者は居ない。
「‥‥ご、ごめんなさい」
布団を噛んだまま絞り出した謝罪に、舌打ちが一つ返ってきた。
* * *
「朝早くに失礼します。探索者ギルドの者です」
翌朝、施設の食堂の戸口で、大柄な男が頭を下げた。上枠に頭をぶつけないよう軽く身を屈めていて、色の褪せたネルシャツにジーンズという、勤め人らしくない格好をしている。
年は三十代の後半といったところだろう。短く刈り込んだ黒髪のこめかみには白いものが混じり、日に焼けた顎を無精髭が覆っている。がっしりとした体つきに似合わず、目元だけは妙に穏やかだった。
「今月から、こちらの施設とお隣の管理地を担当することになりまして。前任から引き継いだ書類をお持ちしました。感知器の点検記録と、スタンピードが起きた場合の避難計画の確認書です。院長先生の判をいただきたいんですが」
「あら、わざわざすみません。前の方は、いつも郵便受けに入れていかれたんですけど」
院長は封筒を受け取り、困ったように笑った。男は首の後ろを掻く。
「探索者上がりの新米なもんで、まだ要領が分からなくて。担当になった以上、顔くらいは出しておこうと思いまして」
院長が判を取りに奥へ引っ込むと、男は手持ち無沙汰に食堂を見回した。朝食の席に並ぶ子供たちの中で、入口に一番近い席の小さな男の子に目が留まる。
目元まで伸びた前髪の奥で、その子は人懐こい笑みを浮かべていた。
「おうっ!元気か、坊主っ!」
何の気なしに、男は手を伸ばした。子供の頭を撫でるのは男にとって挨拶と変わらない。
その手が髪に触れる寸前で、男は動きを止めた。
子供の笑顔がそのまま凍りついている。肩が強張り、呼吸が止まり、膝の上で握った指先から血の気が引いていた。逃げることも拒むこともできず、嵐が過ぎるのを待つ小動物の硬直だった。
長年ダンジョンで生き死にのやり取りをしてきた男は、その種の気配を見誤らない。施設の朝食の席で目にするには、あまりに場違いなものだ。
「‥‥悪い。驚かせちまったか」
「‥‥いえ」
「すみませんねえ。この子、人見知りで」
判を押した書類を手に戻ってきた院長が、愛想笑いを浮かべて男を玄関へ促す。男は去り際にもう一度だけ振り返ったが、子供は何事もなかったように皿へ視線を落としていた。
* * *
昼下がり、結人は裏庭の物置の陰に身を潜めていた。
途中にある職員用の倉庫の前は、いつものように扉から目を逸らし、早足で通り過ぎる。物置と塀の間の狭い隙間に腰を下ろして、ようやく肩の力が抜けた。施設の中で誰の目も届かないのは、ここしかない。
古い型のスマートフォンは、半年前の誕生日に職員の早瀬美咲から譲り受けたものだ。通信契約は切れているが、施設のWi-Fiに繋げばゲームくらいはできる。ハンカチに包んで手渡され、ゲームの始め方まで一から教わった。その美咲も少し前に施設を辞め、今はもう居ない。
画面に華やかなタイトルロゴが浮かび上がった。
『ステラヒーロー』
剣士や魔法使いを星の加護で喚び出し、パーティを組んで冒険する、ありふれたファンタジーゲームだ。結人の腕では序盤の戦闘すら満足に進められない。
ホーム画面の右下で、召喚のボタンが光を強めては弱めている。タップすると画面が一面の星空に切り替わり、上部に期間限定の告知が流れた。
金の縁取りの中で、銀髪の剣姫がこちらへ切っ先を向けている。★5、排出率は百回に一回にも満たない。長い告知文は結人には殆ど読めないが、その絵が何を意味するかは知っていた。一度も手に入れたことのない、遠い星だ。
有償の石を買う手段など、結人にはない。許されているのは一日一回の無料召喚だけだ。
ボタンに親指を置いて、結人は息を止める。
画面の中央に金色の線で描かれた天球儀が浮かび上がった。幾重にも重なった輪が回り始め、低い駆動音とともに速度を上げる。夜空の一点が瞬き、一筋の流れ星が尾を引いて落ちてきた。
このゲームでは流れ星の色が結果を予告する。青なら★3、金なら★4、虹色なら★5。ごくまれに、落下の途中で青が金へ、金が虹へと色を変える「昇格」が起きる。
落ちてくる星は、青だ。
それでも結人は画面から目を離さなかった。青い光が天球儀の中心に吸い込まれ、輪が弾けるように開く。光が収まりきるまで、昇格の目はまだ残っている。
流れ星は青のまま着地し、光の柱から一枚のカードがせり上がった。裏面の星座模様が回転して表を向く。台座に刻まれた三つの星が、短い効果音とともに一つずつ灯った。
『★3 鉄の盾』
キャラクターなら、ここで立ち絵が大きく映し出され、名乗りのボイスが流れる。装備品にはその演出もない。カードは所持品の一覧へ吸い込まれ、画面は元の星空に戻った。
結人は小さく笑った。外れであることは大した問題ではない。星が落ちてからカードが表を向くまでの、ほんの数秒。その間だけは、自分の手の中で何かが起きるかもしれないと信じていられる。
本物のガチャガチャなら、近所のスーパーの出口にも並んでいる。結人がまだ一度も回したことがないのは、硬貨を持っていないからだ。
前に施設の外出で行ったショッピングモールでも、機械の前で足が止まった。同じ年頃の男の子が両親に見守られながらハンドルを回し、転がり出たカプセルを掲げて歓声を上げる。三人が顔を寄せて笑い合う姿を、結人は列が動き出すまで通路の端から見つめていた。
「いつか、本物も回してみたいな」
呟いた直後、足元に影が差す。
「あ?何見てんだよ」
見上げると、大河が立っていた。後ろには取り巻きの翔と蓮が控えている。
返事をする間もなく、スマートフォンは大河の手の中に移っていた。
「か、返して‥それ、美咲先生の‥‥」
「は? 知るかよ!」
大河がスマートフォンを翔へ放り、翔から蓮へ、蓮から再び大河へと回す。宙を舞うたびに、三人の笑い声が高くなる。
「――返してっ!」
結人自身が驚くほどの声が出た。
「返してよ! 僕のだもん! 美咲先生がくれたんだもん!」
大河の腕にしがみついても、四つ年上の相手との体格差はどうにもならない。肩を突かれただけで地面に転がり、擦りむいた掌に血が滲む。結人は起き上がり、叫び、またしがみついた。
施設の窓は、一枚も開かなかった。
事務室のブラインドは下りたままで、院長室からはワイドショーの笑い声が微かに漏れてくる。子供の喧嘩にいちいち大人が出ていく必要はない。この施設の大人たちはずっとそうやって日々を回してきた。
「そんなに大事ならさ」
大河はスマートフォンを高く掲げ、口の端を吊り上げた。
「ダンジョンの中に隠してきてやるよ。度胸があんなら、取ってこれるよな?」
* * *
深夜、結人は暗闇の中で目を開けていた。
ドア側の布団で衣擦れの音がする。身を起こした大河の手の中で、見覚えのある画面が一瞬だけ光った。大河は眠ったふりをする結人の枕元を足音も立てずに横切り、窓の鍵を外す。
冷えた夜気が流れ込み、カーテンが大きく膨らんだ。
窓の外では、月明かりを浴びた塀が黒々とそびえている。窓から塀の上までは、細い通路を挟んで数メートル。跳んで届かない距離ではないが、着地を誤れば塀の内側へ真っ逆さまに落ちる。
大河は窓枠にしゃがみ込み、ためらいもなく跳んだ。
助走も、踏み切る音もない。浮き上がった体は夜空に低い弧を描き、幅の狭い塀の上に猫のように音もなく降り立った。一度も体勢を崩さないまま、内側の闇へ消えていく。
十歳の子供の身のこなしではない。ダンジョンに足を踏み入れた者だけが得る力、「スキル」を持つ者の動きだ。
しばらくして同じ影が塀を越えて戻り、窓から部屋へ滑り込んできた。大河の手にはもう何も握られていない。
月明かりの中で、大河は結人を見下ろし、声もなく笑った。
大河が布団に戻った後も、結人は窓の外から目を離さなかった。四メートルの塀の向こうに、子供が決して近づいてはならない場所が口を開けている。
そこに、結人のたった一つの宝物があった。




