第34話 蛾
「神楽くん。好きな食べ物は何ですか」
六月に入って最初の水曜の休み時間、イリスが結人の机の前に立った。手帳を開いて鉛筆を構えている。イリスの方から話しかけてくるなんて初めてのことで、結人は目を丸くした。
「え、えっと‥唐揚げかな。施設の唐揚げ、皮がカリカリですごく美味しいんだよ」
「唐揚げ。皮がカリカリ」
イリスは一字ずつ丁寧に書き付けてから顔を上げた。
「好きな色は何ですか」
「オレンジ! ‥あっ」
結人は慌てて口を押さえた。けれどイリスは何も気づかない様子で、オレンジと書き付けている。
「ね、ねえイリスちゃん。どうしてそんなこと聞くの?」
「お友達は相手の好きなものを知っているものだと、本に書いてありました。でもわたしは神楽くんの好きなものを、まだ一つも知りません」
「お友達って‥僕とイリスちゃんが?」
「違いますか」
イリスの青い目は相変わらず瞬きをしない。けれどその声の端が、ほんの僅かに揺れた気がした。
「ち、違わない! 違わないよ!」
結人が慌てて首を振ると、イリスは小さく頷いてから迷うように視線を落とした。
「‥わたしの好きなものも聞きますか」
「うん聞きたい! イリスちゃんの好きなものって何?」
イリスは長いこと黙ってから、窓を叩く雨を見て小さな声で答えた。
「‥水が好きです。雨の日の窓を見ていると落ち着きます」
* * *
「上に送った蛾に、名前が付いて返ってきやがった」
その晩、塀の扉の内側で、榊はリーゼの姿の結人に一枚の紙を見せた。梅雨入りが発表されて二日目の、傘を差しても肩が濡れるほどの雨の晩だった。
五月の間に榊は三度報告を出したが、二度目までは返事すら来なかった。その間も二人は討伐の晩のたびに割れ目を見張り、這い出してくる蛾を焼き続けている。一晩に数匹だった蛾は、五月の終わりには十匹を超えている。
「ランプモスだとよ。明かりに寄ってくる蛾って意味らしい。笑わせるよな。あいつらが寄ってくるのは明かりじゃなくて生き物の方だってのに」
紙の裏には一行だけ印刷されていた。
『担当の職員で処理すること。外部への応援要請は不要』
「‥これって、榊さん一人で何とかしろってこと? 三回も報告したのに?」
「そういうこった。三回出してやっと返ってきたのがこれだ。上はもう騒ぎを表に出したくねえんだろうよ。塀の向こうでガキどもが寝てるってのにな」
榊は紙を乱暴に胸ポケットへ押し込んでから、結人の顔を見下ろした。
「だから正直に言う。俺一人じゃ手が足りねえ。お前の火の魔法が要る。‥六歳のガキにこんなことを頼む大人は最低だ。それは分かってる」
「最低じゃないよ。榊さんはちゃんと報告したもん。それに陽向たちを守るんでしょ? だったらあたしもやる。任せといて!」
「‥ありがとよ。代わりに決まりは守れ。割れ目の向こうの洞には絶対に入るな。あそこで火の魔法を使ったら、熱と煙の逃げ場がねえ。それと苦しくなったら直ぐ下がれ。我慢したらそこで終わりだ」
榊は濡らした手拭いで結人の口と鼻を覆い、頭の後ろで結んでから、もう一つ手を差し出した。
「それから今夜は、お前の火打ち石を俺に貸してくれ。あれなら俺でも火花が出せる。お守りみたいなもんだ」
結人がインベントリから出した小さな火打ち石を、榊は作業着のポケットに仕舞った。
「俺は空洞の入口に立つ。お前は真ん中で思いきり焼け。十時には切り上げるからな」
「榊さんの方には一匹だって行かせないから!」
「言うじゃねえか。頼りにしてるぞ」
* * *
空洞の入口に着く前から、カサカサという乾いた音が聞こえていた。
榊が懐中電灯を向けると、光の先で天井が波打っていた。岩の天井一面に灰色の蛾が隙間なく貼りついている。翅を開いたり閉じたりするたびに、天井全体が息をして揺れた。数は百を下らない。
「‥うそ。こんなに居るの」
「先週の倍じゃ利かねえな。気ぃ引き締めろよ」
結人は左腕の円盾を確かめてから、残り火の剣を取り出して刀身に熱を流した。
燃える剣を手に一歩踏み込んだ瞬間、天井の波が止まった。百を超える蛾が一斉に翅を広げる。
「来るぞ!」
天井が崩れ落ちた。雪崩を打って殺到する灰色の群れの真ん中へ、結人は燃える剣を突き出した。
最初の一匹が刃に触れた次の瞬間、空洞の中に炎の花が咲いた。
燃えた蛾の翅から火の粉をまとった鱗粉が散って隣の蛾に燃え移り、その鱗粉がまた隣へ移る。炎は群れの中を走って枝分かれし、渦を巻きながら瞬く間に天井の手前側まで駆け上がった。空洞の中が真昼の明るさに変わる。燃える蛾が赤い雪になって降り注ぎ、燃え尽きた後には魔石だけが岩の床に散らばった。
「すげえ‥。おい見てるか結人。天井まで一息だぞ」
「見てる! すごいよ榊さん、全部燃えてく!」
結人の胸の中でリーゼの炎が跳ねていた。結人の気持ちよりもっと大きくて荒々しい、言葉にならない喜びが体の奥から込み上げてくる。
「リーゼ楽しそう。‥ねえ、楽しいんでしょ」
胸に手を当てて呟くと、自分でも笑ってしまった。怖いはずの群れが、今は少しも怖くなかった。
* * *
天井の奥に残っていた群れも半分ほど燃え落ちた時、割れ目の奥から比べものにならない音が湧き上がった。
洞の中に溜まっていた群れの一部が、灰色の煙のように一斉に溢れ出してくる。新しい群れは真っ直ぐ結人を目指し、炎が届くより先に先頭の蛾が顔に体当たりしてきた。
翅が頬を打ち、鱗粉が目に入る。手拭いの隙間から粉が入り込んで喉が焼けるように痛んだ。顔に群がった蛾は燃える刃の直ぐ側に居る。ここで炎を移せば、炎は結人の顔の上で燃え上がる。
「結人下がれ! 顔から離れろ!」
榊の怒鳴り声に、結人は盾で顔を庇って後ろへ跳んだ。涙で滲んだ目を擦ると、群れの一部が向きを変えるのが見えた。その先には空洞の入口に立つ榊が居る。
「榊さん、そっちに行った!」
「心配すんな。こっちにはお守りがある」
榊は手斧を構えずに、ポケットから出した火打ち石を両手で打ち合わせた。
カッ、と乾いた音がした。
散った小さな橙色の火花が、群れの先頭の鱗粉に触れる。炎は灰色の渦の中を一息に駆け抜け、榊の目の前で大きな火の玉になって弾けた。榊は寸前で地面へ身を投げ出し、燃える蛾がその背中の上を越えて落ちる。
火の玉を逃れた蛾たちが、空洞の真ん中へ渦を巻いて戻ってきた。
「結人! 残りはお前だ!」
結人は涙で滲む目を閉じた。
見えなくても音は聞こえる。カサカサという翅の音が右からも正面からも渦を巻いて近づいてくる。何も音を立てない生き物は居ない。五月の霞ヶ丘の暗闇で、鷹野がそう教えてくれた。
盾を顔の前に構えたまま、剣を持つ腕だけを真っ直ぐ前へ伸ばす。群れの音が腕の先で一番大きくなった。顔からは盾一枚分の距離がある。
「‥今っ!」
目を閉じたまま、結人は燃える剣を音の真ん中へ振り抜いた。
瞼の裏が赤く染まった。刃に触れた群れが燃え上がり、炎は渦の形のまま天井まで駆け上がる。目を開けた時には、燃え尽きた蛾の最後の火の粉がゆっくりと床へ降りてくるところだった。
空洞の中を飛んでいる蛾は、もう一匹も居なかった。
* * *
「榊さん! 大丈夫? どこか燃えてない?」
空洞の入口に座り込んだ榊のもとへ、結人は駆け寄った。
「燃えてねえよ。前髪が縮れたくらいだ。いい火打ち石だった。お前に借りといて命拾いしたぜ」
榊は返した火打ち石を結人の手に握らせてから、口の端を上げた。
「それより最後のやつは見事だったな。目を閉じたまま群れのど真ん中を斬りやがった。あれが、槍の兄ちゃんに教わったってやつか」
「そう! 真っ暗な所でも、音で敵の居場所が分かるんだよ。すごいでしょ!」
「槍の兄ちゃんには、また礼を言わなきゃならねえな」
懐中電灯で照らすと、岩の床一面に魔石が散らばっていた。どれも岩鼠のものより一回り大きく、灰色がかった光を宿している。結人は拾っても拾っても減らない魔石を抱えて、何度もインベントリへ運んだ。榊は上に出す分だと言って、二十ばかりをポケットに入れた。
拾い終えた時には、インベントリの魔石は百を軽く超えていた。
「こんなに‥! 榊さん、これでガチャ何回引けるかな!」
「大漁だな。けどまだ居るぞ。今夜出てきたのは溜まってた分の一部だろう。何晩かはかかる」
割れ目の奥からは、まだあの乾いた音がかすかに聞こえている。
結人はガチャのことを一度飲み込んで、塀の方を振り返った。塀の向こうの施設の窓はどれも暗く、陽向も翔も何も知らずに眠っている。
「榊さん、全部焼こうね。一匹も外に出さないように」
「ああ。二人で全部焼こう」
榊は腕時計に目を落とし、結人の背中を軽く押した。
「さあ十時だ。帰って寝ろ。明日も学校だろ」
「えー、まだ居られるのに。蛾だってまだ居るんだよ」
「蛾は逃げやしねえよ。お前がまだ居られても、ガキは寝る時間だ。それが約束だろ」
結人は口を尖らせたが言い返さなかった。雨の音のする塀の扉を、榊と並んでくぐる。




