第33話 暗闇
連休中の霞ヶ丘は門の前まで人で溢れると聞いて、榊は先週の土曜を見送っていた。連休明けの土曜の朝九時、霞ヶ丘の支部のロビーはまだ半分眠っていた。
榊が約束どおり早めに車を出してくれたおかげで、ロビーには缶コーヒーを啜る年配の探索者が二人居るだけだ。窓口の前を通りかかると宮原が目を丸くして書類から顔を上げた。
「あら、おはよう。こんなに早く来るなんて珍しいわね」
「ロビーが空いてるうちに来たの。もう椅子の上を跳ぶのは嫌だもん」
「賢いわ。鷹野さんならもう中で待ってるわよ。気をつけて行ってらっしゃい」
第一層の入口で、鷹野は前と同じ岩にもたれて待っていた。
「早いな。眠くないのか」
「眠いけど平気。ロビーで囲まれるよりずっといいもん」
「あれは見ものだったな。椅子の背を三つも跳ぶとは思わなかった。支部の中は一週間その話で持ちきりだった」
「‥鷹野まで知ってるの?」
「知らない奴の方が少ない」
鷹野の口の端が僅かに持ち上がった。鷹野がからかうように何かを言うのを、結人は初めて聞いた気がした。
「先週は来なかったな」
「ごめんね。連休は人が多いから行っちゃ駄目って言われたの」
「そうか。ならいい」
草原を横切る途中で、若い探索者の組が鷹野に手を振った。
「鷹野さんおはようございます! 今日は奥ですか? あ、そっちの子が噂の‥」
「連れだ。詮索するな。話はまた今度してやる」
鷹野が歩き続けると、若い探索者たちは顔を見合わせて追うのをやめた。背中の方で「鷹野さんが誰かと組んでるって本当だったんだ」と囁く声がする。
「鷹野って人気者なんだね。女の人も手を振ってたよ」
「‥お前は余計なことにばかり気がつくな」
そう言った鷹野の声は、いつもより早口だった。結人は声を殺して笑った。
* * *
第二層の石の森を、二人は前よりずっと奥まで進んだ。冬にボスと戦った辺りが近づくと、鷹野が足を止める。
「ここから先は今日は行かない。この辺りの群れは他より頭がいいから気を抜くなよ」
結人は左腕に円盾を通したまま、その手にランタンを提げていた。右手には残り火の剣を下げていたが、刀身の炎は消してある。この辺りの頭のいい群れは、燃える剣を見ると遠巻きにして近づいてこないと、鷹野に言われていたからだ。ランタンの光が灰色の幹の間を遠くまで照らしていた。
その光の輪の外で何かが動いた。
横合いから飛び込んできた灰色の影が、ランタンの持ち手を牙で掠めた。弾かれたランタンは土の上を転がり、硝子を下にして太い根の下の窪みへ嵌まり込んだ。光は土の中に閉じ込められた。
辺りが真っ暗になった。
結人は盾を構えて剣に熱を流そうとした。その手を闇の中から鷹野の声が止めた。
「待てリーゼ、魔法で剣を燃やすな!」
「え、でも‥!」
「今剣を燃やしたら、あいつらは炎の届かない所で俺たちを囲んだまま、何時間でも待つ。暗いうちなら向こうも油断して近くまで寄ってくるんだ」
「でも何も見えないよ! どこに居るのか全然分からない!」
「俺が見る。お前は俺の声だけ聞いて、言った方に盾を出せ。それだけでいい」
「‥鷹野、正直に言うね。あたし今、すっごく怖い」
「怖くていい。怖いまま俺の声を聞け」
結人は盾の取っ手を握りしめた。灰狼は足音を立てない。聞こえるのは自分の息と心臓の音だけだった。
「右だ」
声と同時に右へ盾を突き出すと、重い衝撃がぶつかってきた。牙が盾の縁を噛む。結人は引かれる力を横へ流して、灰狼の体を闇の中へ放り出した。
「いいぞ。次は左の低い所から来る」
盾を下げた途端、もう一頭の体当たりが盾の下半分を叩いた。
「後ろだ。前へ跳べ!」
前へ跳んだ結人の背中の直ぐ後ろで、何かが空を噛んだ。着地と同時に鷹野の槍が闇を裂き、灰狼の短い悲鳴が上がる。
「右。もう一度右だ。‥そうだ、上手いぞ」
鷹野の声に従って盾を出しては跳び、跳んでは下がる。何度も繰り返すうちに腕から力みが抜け、いつの間にか体が鷹野の声のする方へ自然と向くようになっていた。
怖いのに怖くなかった。
「リーゼよく聞け。囲まれた。六頭がお前の周りに輪になってる。一番近い奴まで三歩だ」
三歩なら灰狼が跳べば一度で届く。結人の喉が乾いた音を立てた。
「次に跳んでくる時は六頭が一斉に来る。俺が合図したら剣を思いきり燃やせ。溜めた分を全部だ」
「任せて。全部ぶつけてやる!」
剣の柄を握る手のひらに汗が滲んだ。
空気が動いた。
「今だ!」
結人は溜めていた熱を残り火の剣に叩き込んだ。
闇の真ん中で刀身が燃え上がり、赤い光が辺りを照らし出す。跳びかかろうとしていた六頭の灰狼が、宙で一斉に目を眩ませていた。闇に慣れきった緑の目には、炎が眩しすぎたのだ。
結人はその場で体ごと回った。円を描いた燃える剣が灰狼たちの胸を次々と薙ぎ、三頭が土の上に転がる。たたらを踏んで後ずさった残りの三頭は、その背後から滑り込んできた鷹野の槍に、振り向く暇もなく貫かれた。
森が静かになった。結人の剣だけがまだ赤々と燃えていた。
* * *
根の下の窪みからランタンを掘り出して掲げると、辺りにまた光が戻った。それを見た途端、結人の足から力が抜けそうになった。
「‥怖かったぁ。本当に本当に怖かった」
「そうだろうな。初めてでよく最後まで動けた」
「だって鷹野の声がずっと聞こえてたもん。鷹野が『俺が見る』って言ってくれたから、見えなくても平気だったんだよ」
穂先を拭っていた鷹野の手が止まった。長いこと黙ってから、鷹野は結人の方を見ないまま低い声で言った。
「俺の声を信じて動ける奴はそう居ない。大抵の奴は暗くなった途端に自分の目を信じようとする。何も見えやしないのにな。それで死ぬんだ」
鷹野は灰狼の胸から緑の魔石を抜き、黒い砂になって崩れる死骸の上で小さく息を吐いた。
「お前は俺を信じた。‥礼を言うのは俺の方だ」
「ねえ、どうして真っ暗なのに見えたの?」
「見えてたわけじゃない。土を踏む爪の擦れる音と、空気の揺れ方で分かる。足音がしなくても、何も音を立てない生き物は居ない。長く潜ってりゃ、お前もそのうち分かるようになる」
結人はランタンの持ち手を両手で握りしめた。硝子の中の光が、さっきより明るく見えた。
* * *
月曜は朝から雨だった。
「ひでえ雨だな。梅雨にはまだ早いはずなんだが」
塀の扉を閉めながら、榊が濡れた作業着の肩を払った。
「ねえ榊さん、土曜日にね、鷹野と真っ暗な所で戦ったの! 鷹野が声で‥」
「おう、後でゆっくり聞かせろ。先にあいつらだ」
榊が顎で示した先で、岩鼠の群れの赤い目が光っていた。
群れを片付けた後、二人はいつものように奥の空洞を覗いた。鉄の匂いの中に、今夜は乾いた埃のような匂いが混じっている。
「榊さん、何かいつもと匂いが違う」
「お前も気づいたか。俺も入った時からそう思ってた」
榊が懐中電灯を空洞の奥へ向けた。ボスが伏せていた場所の真後ろで、二月の夜に崩れたままの割れ目が口を開けている。
その隙間から、灰色の何かが舞い出た。
手のひらほどの大きさの灰色の蛾だった。蛾は懐中電灯の光には目もくれずに、宙で揺れながら結人の方へ寄ってくる。
「下がってろ結人!」
榊が前に出て手斧を一閃させた。刃に触れた蛾の翅から灰色の粉が散り、その粉が結人の剣に燻っていた炎に触れる。
ボッ、と小さな音を立てて、蛾は宙で燃え上がった。翅は一息で炎に包まれ、地面に落ちる前に燃え尽きる。後には岩鼠のものより一回り大きな魔石が一つ転がっていた。
「‥今の、洞の床の粉と同じ燃え方だよね」
「ああ。あの粉は、こいつらが落としてやがったのか」
榊がそう言い終わらないうちに、割れ目から二匹、三匹と続けて蛾が這い出してきた。今度は真っ直ぐ榊の顔を目がけて飛んでくる。
「榊さん伏せて!」
結人は榊の前に跳び出して、燃える剣を横に払った。刃に触れた先頭の一匹が燃え上がると、その翅から散った粉が後ろの二匹に燃え移り、三匹がまとめて火の玉になって弾けた。焦げた粉の匂いが空洞に広がり、魔石が三つ乾いた音を立てて岩の床を転がる。
「‥助かった。一匹触れただけで、後ろの奴まで燃えちまうのか」
榊は落ちた魔石を拾い集めながら、低く唸った。
割れ目の奥の暗がりから、乾いた紙を擦り合わせるようなカサカサという音が聞こえていた。数えきれないほどの音が重なり合っている。
「榊さん。前にあたしが洞に落ちた時に見た、天井の灰色の塊って‥」
「ああ。繭だったんだな。それが今、孵ってやがるんだ」
榊は長いこと割れ目を睨んでから、結人の肩を軽く叩いた。
「今夜はここまでだ。明日の昼、上にもう一度報告を出す」
「でも前は、対応の必要なしって言われたんでしょ? また同じことを言われたら‥」
「言われるだろうな。それでも出す。ここで何が起きてるか知ってて何もしなかったなんてのは、俺は御免だ」
帰り道で、結人は一度だけ振り返った。この洞窟は施設の塀の直ぐ向こうにあって、塀の内側では今夜も陽向や翔たちが何も知らずに眠っている。
懐中電灯の光の届かない暗がりで、乾いた翅の音はまだ続いていた。




