第32話 報告
イリス・ノルデンは今朝も教室の一番前の席で手帳を開き、前の戸から入ってくる子供たちを見ていた。
四月の終わりの火曜の朝で、イリスが毎朝ここで待っている相手は今日も一人だけだった。
神楽結人はいつもより早く教室に入ってきた。ランドセルも下ろさずに蒼井小春の席へ真っ直ぐ歩いていき、何度か口を開きかけては閉じて、ようやく声を出す。
「あ、あのね小春ちゃん。‥おはよう」
小春は目を丸くしてから、教室中に響く声で笑った。
「おはよう神楽くん! ねえ今の、神楽くんから言ってくれたよね? 初めてじゃない? わたしずっと待ってたんだよ!」
「ま、待ってたの?」
「待ってたよ! だって神楽くん、いつもわたしが言うまで黙ってこっち見てるだけなんだもん」
周りの子供たちが笑い出し、結人は耳まで赤くして自分の席の方へ逃げ出した。
イリスは手帳に鉛筆を走らせた。火曜日、八時十一分。神楽結人が蒼井小春に自分から挨拶をする。初めて。
顔を上げると、席へ戻る途中の結人が直ぐ目の前に立っていた。結人はイリスと手帳を見比べて迷ってから、さっきよりもっと小さな声で言った。
「‥イリスちゃんも、おはよう」
イリスは鉛筆を持ったまま動けなくなった。朝の挨拶に何と返せばいいのかは本で読んで知っている。けれどそれを自分が口にしたことは一度もなかった。
「おはようございます」
結人は安心したように肩の力を抜き、イリスの手元を遠慮がちに覗き込んだ。
「イリスちゃんっていつも手帳に何か書いてるよね。何を書いてるの」
「見たことを書いています。毎日、見たことを全部です」
「全部!? すごいなあ。僕なんか宿題の日記も三行で終わっちゃうのに」
結人は感心したように手帳を眺めてから、イリスの顔に目を戻した。
「字もすごく綺麗だね」
字を褒められたことなど一度もないイリスには、何と答えればいいのか分からなかった。
「‥ありがとうございます」
結人は照れたように笑って自分の席へ戻っていった。
書くべきことはもう分かっていた。神楽結人がイリス・ノルデンに挨拶をする。字を褒める。いつものように見たとおりに書けばいい。それなのに鉛筆の先を紙に当てたまま、イリスの手は最後まで動かなかった。
* * *
昼休みになると、小春が窓際の席までやって来た。
「イリスちゃん、一緒に鬼ごっこしようよ!神楽くんも誘ったの。イリスちゃんが来たらちょうど六人になるんだよ!」
小春の後ろで、結人が息を詰めてこちらを見ている。
「‥わたし、鬼ごっこをしたことがありません。決まりも知らないです」
「えっそうなの? じゃあわたしが教えてあげる! 簡単だよ。鬼にタッチされたら、今度はその子が鬼になるの!」
「タッチされた人は、どうして鬼になるのですか」
「え? どうしてって‥そういう遊びだから?」
小春が助けを求めて振り返ると、結人も困った顔で首を傾げた。イリスは二人の顔を見比べてから言った。
「今日は窓から見ていてもいいですか。決まりを覚えてから入りたいです」
「うん、いいよ!ちゃんと見ててね。次は絶対一緒にやろうね!」
小春は結人の腕を引っ張って校庭へ駆け出した。窓から見下ろすと、鬼になった結人が小春を追いかけて走っている。イリスは手帳に書き付けた。タッチされた人が鬼になる。鬼から逃げる時、皆は笑う。理由は分からない。
* * *
イリスは学校の近くの古い集合住宅で、口を利かない世話係と二人で暮らしている。
研究所へ行く前の晩、イリスは寝る前にコップの水へ人差し指を浸した。指を持ち上げると水が小さな玉になって宙に浮かび、髪の先と同じ薄い水色に光る。水の魔法は誰にも見せてはいけないことになっている。だからこれは、寝る前の短い時間だけの秘密だった。
連休の二日目、イリスは世話係の運転する車で月に一度の研究所へ向かった。
白い廊下を歩いていると、部屋の一つからイリスより年下の女の子たちが机に並んでいるのが見えた。誰もがイリスと同じ顔をしている。その中の一人が顔を上げ、通り過ぎる物を見る目でイリスを追った。
同じ人は居ない。
担任の先生の声がなぜか耳の奥で響いた。イリスは目を逸らして廊下の突き当たりまで歩いた。
扉を開けると、机の向こうで女が書類から顔を上げた。白衣の下に紺のワンピースを着て、長い髪を後ろで一つにまとめている。イリスと同じ顔の女は穏やかに微笑んだ。
「お帰りなさいイリス。学校にはもう慣れましたか」
「はい。問題はありません」
「給食はどうですか。美味しいと思えるものはありましたか」
「揚げパンの日は教室の皆がとても喜んでいました。わたしにも甘くて美味しいと思えました」
「それはよかった。では今月の分を聞かせてもらいましょう」
イリスはいつものように手帳を読み上げた。席の並びと担任の名前、授業の進み方と級友の親の仕事。読み終えると、女は書類を二枚イリスの方へ滑らせた。ギルドの事故の報告書の写しで、焼け焦げた岩の壁という行に線が引いてある。
「あの子の施設の隣にある小さなダンジョンで、去年の冬から二度焼けた跡が見つかっています。岩の壁が天井近くまで焼け焦げていたそうです」
女は線の引かれた行を指で叩いた。
「松明を落としたくらいで岩はこんな焼け方をしません。これは火の魔法の跡です。それも、とても強い火の魔法の。そして跡が見つかった夜には二度とも神楽結人がそこに居ました」
女の声は天気の話をする時と何も変わらなかった。
「あなたは神楽結人を鑑定しましたか?」
イリスの手の中で手帳の角が僅かに曲がった。
体育の時間の校庭で、顔の高さに飛んできたボールの前へ結人は迷いもせずに滑り込んできた。避ける必要もなかったイリスの前に、わざわざ立ったのだ。
その背中をイリスは鑑定で見た。『受け身』。それからもう一つ。固有スキル『ステラヒーロー』。その名前から目を離せずにいるうちに、イリスの喉からは知らないうちに声がこぼれていた。ヒーロー、と。
「しました。スキルは『受け身』が一つです。ボールを受けた時の体の使い方がとても上手でした」
「『受け身』だけで、岩の壁が天井まで焼けるでしょうか」
女の声は変わらず穏やかだった。
見下ろした手帳の頁には、書き写した先生の言葉の後に、自分で書き足した一行が見える。
同じ人は居ない。
「分かりません」
イリスは顔を上げて女の目を見た。
「わたしに見えたのは、それだけでした」
音の消えた部屋の中で、イリスと同じ形の目がイリスの顔の一点から動かない。校庭で結人を見ていた時の自分も、こんな目をしていたのだろうか。イリスは瞬きをしないように目の奥へ力を込め続けた。
やがて女はゆっくりと椅子の背にもたれた。
「そうですか。鑑定にも見えないものがあるのかもしれませんね。あなたの鑑定はまだ育ち始めたばかりですから」
叱る声も疑う声もないまま、女は手を差し出した。
「手帳を見せてもらえますか」
女は頁をめくり、端の一行で指を止めた。
「同じ人は居ない。‥これは誰の言葉ですか」
「担任の先生の言葉です。先生が神楽結人に言っていたのを、わたしも教室で聞いていました。書き写した言葉を、わたしが短くしました」
「あなたが聞いていたのですね」
女はイリスと同じ顔で、形だけは柔らかな温度のない笑みを浮かべた。
「いい言葉ですね」
女は手帳を閉じてイリスの手に返した。
「これからはもっと近くで神楽結人を見ていてください。あの子とお友達になれますか」
イリスは答えられなかった。
「お友達になれば、あの子はいつか自分から何でも見せてくれます。人はお友達には隠し事をしないものですから。それと水の魔法は、これまでどおり誰にも見せないように。来月も待っていますね」
女はもう次の書類に目を落としていた。
* * *
帰りの車の中で、イリスは手帳を開いた。
研究所で嘘をついたのは初めてだったが、どうして嘘をついたのかはイリス自身にも分からない。分からないことは手帳に書けない。イリスは長いこと鉛筆を握ったまま動けずにいた。
やがて頁を戻して、火曜の朝の頁を開く。神楽結人が蒼井小春に自分から挨拶をする。初めて。
空いたままのその下の行に、イリスは鉛筆を当てた。
神楽結人がイリス・ノルデンに、おはようと言う。字が綺麗だと言う。
しばらく迷ってから、もう一行足した。
お友達。
それが女に言われた仕事の言葉なのかどうかは、自分でも決められない。それでもその一行だけは消す気になれなかった。
町の灯りが窓に映り始めると、イリスは手帳を閉じて両手で胸に抱えた。




