第31話 校門
「神楽くん、大ニュース! 大ニュースだよ!」
月曜の朝、結人がランドセルを机に下ろすより早く、小春が教室の戸口から駆け込んできた。二つに結んだ髪が、走った勢いで左右に跳ねている。
「土曜日にね、霞ヶ丘のギルドにオレンジの髪のお姉さんが来たんだって!それで、大人の探索者がいっぱい集まってきて、お姉さんを囲んじゃったの。そしたらお姉さん、椅子の上をぴょんぴょん跳んで、みんなの頭の上を飛び越えて逃げちゃったんだって!」
結人は、ランドセルの留め金を掛け損ねた。
「お兄ちゃんの友達がその場に居たんだって。すっごかったって! 忍者みたいだったって!」
「‥へえ。すごいね」
榊に言われたとおりの言葉を、結人は口にした。顔に出すな、と言われたのも覚えている。それなのに、頬が熱くなるのは止められなかった。
「神楽くん顔赤いよ?」
「あ、暑いから」
「今日寒いよ?」
小春は首を傾げたが直ぐに次の話を始めた。
「それでね、お兄ちゃんが迎えに来てくれるの。バイトが早く終わる日なんだって。この前言ったでしょ、神楽くんにも会わせてあげるって!」
「ふん。椅子を跳ぶくらい僕の姉さんにも出来る!」
いつの間にか後ろに居た宋乾坤が、腕を組んで口を挟んだ。小春が「乾坤くんのお姉さん、何でもできるじゃん」と言い返し、二人の言い合いが始まる。
その横で、結人はランドセルの肩紐を握りしめていた。会ったら何を話せばいいのだろう。
* * *
帰りの会が終わっても、施設の職員の姿は校門に見えなかった。
結人は門柱の陰に立って、通りの向こうを眺めていた。隣では小春が、ランドセルを背負ったまま爪先立ちになって、兄の姿を探している。下校する子供たちの声が、二人の横を次々に通り過ぎる。
「あー!、ずるのやつだ!」
通りすがりに、ドッジボールで顔を狙ってきた体の大きな男の子が言った。結人が首をすくめるより早く、小春が振り返る。
「ずるじゃないってば!先生も見てたもん!」
男の子は舌を出して友達と一緒に走り去った。小春は頬を膨らませたままその背中を睨んでいる。結人は、何と言えばいいのか分からなくて、小さな声で「ありがと」とだけ言った。小春は「どういたしまして!」と、まだ怒った顔のまま胸を張った。
「あ、来た!お兄ちゃーん!」
小春が爪先立ちのまま、通りの向こうへ大きく手を振った。
通りの角を曲がって自転車が一台やって来る。ペダルをこぐ若い男は茶色く染めた髪を軽く立たせ、コンビニの制服の上着を私服の上に羽織ったままだった。
蒼井だ。
霞ヶ丘のロビーで、リーゼを囲んで手首に手を伸ばしてきた人。次の晩には一人で謝りに来て、灰狼の群れの中では仲間を庇って剣を振っていた人。
自転車が校門の前で止まった途端、結人の体はひとりでに動いて、小春の背中の後ろへ半歩だけ下がっていた。大人の男の人が近づいてくると、今でも足の方が先に逃げてしまうのだ。
「小春、お待たせ。今日は何してた?」
自転車を降りた蒼井が、小春の後ろに隠れた結人に気がついた。
蒼井の足が止まり、それから蒼井は結人から二歩離れた所でしゃがみ込んだ。目の高さを結人より下にして、両手を腿の上に置く。
「ごめんごめん、驚かせたな。でかい男が急に来たらそりゃ怖いよな」
「お兄ちゃん、神楽くんだよ! この前話した子!」
「ああ、君が神楽くんか。小春がいつも話してるよ。施設の隣にダンジョンがあるんだって?」
蒼井はそれ以上近づいてこなかった。人懐こい笑い方はロビーで声を掛けてきた時と同じなのに、立ち止まる場所だけが違う。
あの夜の霞ヶ丘の第一層で、蒼井は柱一本分の距離を空けて座った。今も、同じだけの距離を空けている。
「‥こ、こんにちは」
「おう!こんにちは!小春と仲良くしてくれて、ありがとな!」
小春が、兄の袖を引っ張った。
「ねえねえ、お兄ちゃん。土曜日のお姉さんの話もっと聞かせて!椅子の上を跳んだって本当?」
「本当らしいよ。俺は見てないんだけどさ。あーあ、見たかったなー」
蒼井はしゃがんだまま空を仰いだ。
「俺、あの子にもう一回ちゃんとお礼が言いたいんだよな。最初に会った時は失礼なことしちゃったしさ。助けてもらった晩も、怪我した仲間のことで頭が一杯でさ。門で別れたきりだったし」
結人は俯いたまま、しゃがんだ蒼井の声を黙って聞いていた。
「だから今、三人で稽古してんの。今度は俺らがお姉さんを助けられるくらいになろうって。そしたらお礼もちゃんと言えるだろ?」
今度は、俺らがリーゼを助けられるようになるからさ。
冬の夜、草原を歩きながら蒼井が言った言葉を、結人は思い出していた。あの晩の言葉を、蒼井は今も本気で守ろうとしている。
「‥お姉さん、もう怒ってないと思うよ」
気がつくと口から言葉がこぼれていた。
蒼井が、目を丸くして結人を見た。
「え? 何で君が?」
結人の背中に冷たい汗が噴き出し、小春まで不思議そうに結人の顔を覗き込んでくる。何か言わなければと、結人は必死に言葉を探した。
「だ、だって、小春ちゃんが言ってたから。お兄ちゃんは、お姉さんとの約束をずっと守ってるって」
やっとのことで、結人は続けた。
「約束を守る人のこと、怒ったりしないと思う。‥僕なら怒らない」
蒼井はしばらく黙って結人を見ていたが、やがて、顔中で笑った。
「神楽くんいい奴だなあ」
蒼井はしゃがんだまま、握った拳を結人の方へ差し出した。手は伸ばしきらずに、二人の間の真ん中で止めている。
「よし。じゃあ、男同士の約束な。俺が稽古してるってこと、お姉さんに会っても内緒にしといて。助けられるようになるまで、かっこ悪いからさ。小春も、学校で言いふらすなよ」
「えー! もうエマちゃんに言っちゃったよ!」
「言っちゃったのかよ」
兄妹のやり取りに結人は思わず笑ってしまった。
差し出されたままの拳を、結人は長いこと見つめてから、自分の拳をそっと当てた。コツン、と小さな音がする。
大人の男の人に、自分から手を伸ばしたのは、初めてかもしれない。拳の当たった所に、蒼井の手の温かさが残っていた。
通りの向こうから、施設の職員が小走りでやって来るのが見えた。遅くなってごめんね、と手を振る職員に、蒼井は立ち上がって頭を下げる。
「じゃあな神楽くん。またな」
「神楽くんまた明日ね!」
蒼井は自転車を押して、小春と並んで来た道を戻り始めた。小春は角を曲がるまで、ずっとこちらへ手を振っていた。
職員と並んで歩きながら、結人は自分の右手を何度も握ったり開いたりした。
* * *
「囮?」
月曜の晩、塀の扉の内側で榊は手斧を担いだまま眉を上げた。
「うん。あたしが群れを引っ張ってきて、榊さんの前を通らせるの。土曜日に鷹野とやったら、すっごく上手くいったんだよ」
「槍の兄ちゃんは面白いことを教えるな」
榊は顎を撫でてから口の端を上げた。
「いいぞ。やってみろ。俺は最初の曲がり角で待ってる」
洞窟の第一層の奥には今夜も岩鼠の群れが居た。十匹を超える灰色の背中が岩の床の上でひしめいている。
結人は残り火の剣に火を灯し、群れの鼻先を掠めて駆け出した。岩鼠が一斉に甲高い声を上げる。結人は振り返らずに狭い通路を曲がり角まで一息に駆け抜けた。
「いくよ!」
榊の脇を抜けて足を止めたが、後ろからは何も来なかった。
「‥あれ?」
恐る恐る通路を覗くと、岩鼠の群れは、通路の入口で行ったり来たりしていた。何匹かは、もう奥の方へ戻りかけている。リーゼの脚が速すぎて、追いかける相手を見失ってしまったらしい。
隣で榊が吹き出した。
「灰狼ってのは頭がいいから追ってくるんだ。岩鼠は見えなくなったら諦める」
「えー!先に言ってよ!」
「言ったら面白くねえだろ?」
榊は笑いながら手斧を肩から下ろした。
「しょうがねえ。迎えに行くぞ」
榊が通路に踏み込むと、岩鼠の群れが一斉に振り返った。今度は迷いもせずに、大きな獲物の方へ殺到する。
榊は半歩も下がらなかった。
手斧が一度、横に唸った。先頭の三匹がまとめて岩壁に叩きつけられる。返す刃が二匹を床へ叩き落とし、足元へ潜り込もうとした一匹を、榊は見もせずに靴の踵で踏みつけた。
結人も負けてはいられなかった。榊の脇をすり抜けて、燃える剣を床すれすれに薙ぐ。赤い刃が残りの岩鼠を一息に払い、焦げた毛の匂いが通路に満ちた。
「何だ。囮なんか要らねえじゃねえか」
「榊さんが強すぎるんだよ!」
「お前の足が速すぎるんだ」
二人は顔を見合わせて同時に笑い出した。結人は笑いながら、焦げた岩鼠の胸から魔石を抜いて回った。抜くたびに死骸は黒い砂になって崩れる。
魔石を拾い終えて、帰りに奥の空洞を覗く。笑い声の余韻が消えた暗がりは、今夜も変わらず鉄臭かった。
* * *
十時に塀の扉をくぐって部屋に戻り、布団に潜り込んでから結人はスキルの画面を開いた。
魔石の数を確かめて、ミッションの印を眺める。最後にフレンドの一覧を開いた。今日の拳の感触が、まだ手の甲に残っている。蒼井の名前が増えているかもしれないと、ほんの少し思ったのだ。
一覧には、『鷹野』と『榊』の下に、三つ目の名前が増えていた。
『小春』
結人は画面を見つめたまま動けなかった。
使用者が信頼する相手を、自動で登録する。前に読んだ画面の説明を、結人は思い出した。小春を友達だと自分で思っていいのか、結人にはまだ分からなかった。分からないうちに、名前の方が先にそこに並んでいる。
大ニュースだよ、と駆け込んできた朝の声。神楽くんはずるしてないもん、と言い返してくれた教室の声。お家の隣にダンジョンがあるのいいなー、と昇降口の外で目を丸くした声。
結人は、画面の光を手のひらで隠した。隠した手の下で、口元が緩むのを止められなかった。
明日の朝は、自分から「おはよう」と言ってみよう。
画面を閉じて、結人は布団を頭まで被った。




