第30話 また潜ろう
鷹野の声を聞いた途端、結人の喉の奥から返事が飛び出していた。
「組みたい!」
思ったより大きな声が出て、第一層の入口の草が揺れた気がした。近くで荷物を広げていた探索者の組が、何事かとこちらを振り返る。結人は慌てて口を押さえたが、もう遅い。
「組みます。お願い、しまス‥‥」
言い直したら、今度は声が裏返った。
鷹野は何も言わずに背を向け、草原の奥へ歩き出した。けれど、その肩が一度だけ小さく揺れたのが、結人には見えた。
「‥鷹野、いま笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑ったもん!」
「早く来い。時間がないんだろ?」
結人は口を尖らせたまま、鷹野の後を追った。リーゼの脚なら追いつくのに三歩もかからない。
昼の草原には、夜とは比べものにならないほど大勢の探索者が居た。草の上で弁当を広げる組もあれば、新しい防具の具合を確かめ合っている若い組もある。その間を歩いていくと、あちこちから視線が刺さった。
「おい、あれ見ろよ」
「オレンジの髪だ。動画の子じゃないか?一緒に居るのは男か?すげぇイケメンだな‥‥」
囁き声に結人が肩をすくめると、鷹野が黙って歩く位置を変え、声のする側に自分の体を置いた。それきり、視線は殆ど届かなくなった。
結人はインベントリから一瞬だけスマホを出して時刻を確かめた。一時四十分。四時に車へ戻るなら、門を出るのは三時半だ。
「三時半には門に戻りたいな」
「なら、三時には引き返す。帰りの坂で何かに出くわしても間に合うようにな」
鷹野は前を向いたまま、当たり前のように言った。結人の都合を、自分の都合のように数えてくれる。そのことが、結人には何だかくすぐったかった。
* * *
第二層へ下る長い坂の手前で、結人はインベントリから『導きのランタン』と残り火の剣を取り出した。人の多い草原で、目立つ魔法の剣を手に提げて歩く気にはなれなかったのだ。ランタンの持ち手を握ると、硝子の中に光が宿り、坂の先の暗がりへ膨らむように広がった。
鷹野の前なら使っても大丈夫だと思う。榊さんが駄目だと言ったのは知らない人に見せることだ。坂の下に他の灯りがないのを確かめてから、結人は剣を握り直した。
坂の下には灰色の石の森が広がっていた。葉を一枚も付けていない木々が、低い天井に枝の先を届かせている。冬の夜に初めて来た時と、何も変わっていない。変わったと言えば、結人の右手の剣くらいのものだ。
「その武器」
前を歩いていた鷹野が、肩越しに振り返った。
「前のと違うな。良い剣だ」
「うん。新しいの。‥見てて」
結人が刀身に熱を流すと、リーゼの体の中から湧いた炎が、剣の根元から切っ先まで這い上がった。熱を流すのをやめても、刃は赤く燃えたまま、石の木々の幹を照らしている。
「残り火の剣って言うの。一度火を付けたら、なかなか消えないんだよ」
鷹野は燃える刃を、長いこと黙って見ていた。
「最初の晩は、俺の前でそれを使わなかったな」
結人は思わず剣を握り直した。初めてこの森に来た夜、灰狼に盾を噛まれながら、結人は炎を使わなかった。鷹野をまだ信じきれなかったからだ。
「‥気づいてたの?」
「ああ」
鷹野はそれだけ言って、また前を向いた。けれど、その背中の歩き方がさっきより軽くなったように見えた。
* * *
最初の灰狼は、石の森に入って間もなく、一頭だけで現れた。
結人はランタンをインベントリへ放り込み、盾を構えた。明かりは、燃える刃だけで足りる。木々の間から灰色の影が飛び出し、真っ直ぐ結人の喉を狙ってくる。結人は盾で受けずに、燃える剣を横に払った。
毛の焦げる匂いが鼻を突いた。
灰狼は、跳びかかった勢いのまま地面を転がり、起き上がらなかった。首の付け根から胸にかけて赤い筋が一本焼き付いている。
鷹野は、構えた槍を下ろすのも忘れていた。
「ほう‥‥一太刀か」
「冬の時より、ちょっとだけ強くなったの」
「そうか、成長したな」
鷹野は灰狼の死骸の脇にしゃがみ、ナイフで胸から魔石を抜くと、死骸が黒い砂になって崩れた。鷹野が放ってよこした緑の魔石は、灰狼の体温を残して温かかった。
「今日のは斥候だ。後ろに群れが居る」
その言葉が終わらないうちに、森の奥で長い遠吠えが上がった。一つ、二つ、三つ。声は重なり合いながら、左右に広がっていく。
鷹野が、止まれの合図に槍を横にした。
「八頭、いや、もっとだな」
鷹野の声は低いままで、結人は唾を飲み込んだ。冬の夜、窪地で蒼井たちを囲んでいた群れよりずっと多い。
「囲まれる前にこっちから動く。リーゼ」
「うん」
「お前は足が速い。群れを引っ張ってこい。俺の前を通らせろ」
結人は鷹野の顔を見上げた。冬の夜の鷹野は、結人をいつも自分の右に立たせ、盾で受けさせてから槍を出した。今日は、結人の足に群れを預けるという。
「通ったのは全部俺が貫く。お前は止まるな。炎も絶やすな」
「任せて!」
* * *
結人は石の森の中へ駆け込んだ。
遠吠えの方へ真っ直ぐ走り、最初に見えた灰色の影の鼻先を、燃える剣で掠めてやる。灰狼が怒って吠え、その声に応えて、木々の陰から次々と影が湧き出した。
結人は向きを変えて元来た方へ走り出した。
背中に足音のしない群れの気配が迫る。石の木の幹を右へ左へとかわしながら、結人は鷹野の待つ方へ駆けた。真横から跳びかかってきた一頭を盾で弾き、すれ違いざまに剣で脇腹を裂く。
次の一頭は弾ききれなかった。盾の縁に牙が食い込み、腕ごと後ろへ引き倒されそうになる。結人は踏ん張らずに、引かれる方へ体を回した。灰狼の勢いが空回りし、緩んだ顎から盾が抜ける。転がりかけた体を片手で地面に突いて起こし、結人はまた走り出した。止まったらその場で囲まれる。
木々の間を抜けた先で鷹野が槍を低く構えていた。
「行くぞ!」
結人が鷹野の右を駆け抜けた次の瞬間、背後で槍が唸った。追ってきた先頭の灰狼が、喉を貫かれて地面に倒れる。二頭目、三頭目。鷹野の槍は、一度も同じ場所に留まらなかった。
結人は森の奥で弧を描いて向きを変え、残りの群れをもう一度引っ張って戻った。二度、三度と同じことを繰り返すうちに、灰狼の影は目に見えて数を減らした。
走りながら、結人は刀身に熱を継ぎ足す。
いつもの剣なら、熱を流すのをやめた途端に火が消える。走りながら火を保とうとすれば、足か剣のどちらかが疎かになっただろう。この剣は、継ぎ足すまで火を抱えたまま待っていてくれた。施設の隣の洞窟の、短い戦いでは分からなかったことだ。
炎を絶やすな。
鷹野がさっき言ったのと同じ言葉が、剣の効果の欄の下にも書いてあった。結人は走りながら、そのことを思い出していた。
* * *
最後の四頭を引き連れて駆け戻る途中で、結人は足を止めかけた。
鷹野の待つ木々の切れ目の手前に、一頭だけ、別の灰狼が立ち塞がっていた。冬に鷹野と倒したボスほどの大きさはない。けれど、首の周りの毛だけが逆立ち、緑の目が他の灰狼より一段暗い。群れが囮を追っている間、この一頭だけは森の陰を回り込み、結人の帰り道に先回りしていたのだ。
前に一頭、後ろに四頭。
鷹野までは、まだ二十歩以上ある。
「リーゼ!」
鷹野が槍を構えて駆け出したが、間に合わない。首の毛を逆立てた灰狼が、低く身を沈めた。後ろの四頭の息遣いが、背中のすぐ後ろまで迫っている。
止まったら挟まれる。
結人は止まらなかった。
胸の奥の炎を、残り火の剣に注ぎ込む。『緋纏い』。走りながら継ぎ足してきた熱に新しい炎が重なり、刀身から一本の火柱が立ち上った。石の森の灰色の幹が一斉に照らし出される。
首の毛を逆立てた灰狼が跳んだ。結人も同時に跳んだ。
燃え上がる剣が、宙で灰狼の首から胴を一息に断ち割った。
炎が斬り口から噴き上がる。灰狼は声も上げずに地面へ落ち、結人はその向こうへ転がるように着地した。振り返りざまに剣を薙ぐと、追ってきた四頭の先頭が炎を浴びて倒れ、残りの三頭が炎の前で一斉に足を止める。
正面から駆けつけた鷹野の槍が、立ちすくんだ三頭に続けて突き立った。
森が、静寂に包まれた。
結人の剣の火柱は、細い炎に戻ってもまだ燃え続けていた。
* * *
鷹野は槍を地面に突いたまま、しばらく結人の顔を見ていた。
「‥怪我は?」
「ない。転んだだけ」
結人が服の土を払って立ち上がると、鷹野は長く息を吐いた。
「冬は、お前が盾で受けて、俺が貫いていた」
「うん」
「今日はお前が群れを動かして、俺がそれに合わせたな」
鷹野は、自分の槍の穂先に目を落とした。
「悪くない連携だった。次もそれでいく」
結人は、何と返していいのか分からなかった。鷹野に褒められたのだと、遅れて気がつく。頬が熱くなったのは、燃える剣の熱のせいにした。
結人は剣をインベントリへ仕舞い、二人で手分けして、灰狼の魔石を拾い集めた。首の毛を逆立てていた灰狼の魔石は、普通の灰狼のものより一回り大きく、緑の色も濃い。鷹野はそれを、結人の方へ押しやった。
「お前の取り分だ」
「また?でも‥」
「斬ったのはお前だ」
結人は両手で魔石を受け取った。
鷹野の顔を見ているうちに、冬の夜に言えなかった言葉が喉元まで上がってきた。本当は、六歳で。本当は、男の子で。
「鷹野。あたし、ね‥」
そこまで言って、結人は唇を閉じた。
鷹野は続きを待たずに、外套の土を払った。
「言えるようになったら言えばいい。言わなくても俺は組む。」
結人は小さく頷いたが、それ以上は声にならなかった。
* * *
約束どおり三時に引き返し、二人は三時半の少し前に門を出た。
外の空気に触れた途端、手足から熱が引き始める。門の前で、結人は鷹野を振り返った。
「来週も土曜か?」
「うん! また潜ろうね!」
鷹野は片手を上げただけだったが、結人にはそれで十分だった。
結人は人の流れから外れて、駐車場の奥へ駆けた。榊の車は、大きな運搬車の陰になる隅に停めてある。周りに誰も居ないのを確かめて後部座席に飛び込み、変身を解く。視界が低くなり、肩に落ちていた髪が消えた。
運転席の榊が、バックミラー越しに結人を見た。
「どうだった?」
「鷹野と組んだ。前に話した槍の人」
「そうか」
榊はエンジンを掛けながらもう一度ミラーを見た。
「信用できる奴か?」
「うん」
迷わずに答えられたことが、結人には不思議だった。
「なら良かった」
車が駐車場を出たところで、結人はロビーで大人たちに囲まれたことを話した。椅子の背を跳んで逃げたと言うと、榊は前を向いたまま、喉の奥で笑った。
「派手にやったな。来週はもうちっと早く出て、ロビーが空いてるうちに着くようにするか」
それから、ハンドルを切りながら付け足す。
「腹、減ったろ?帰ったら飯だ。今夜は唐揚げだって、厨房のおばちゃんが言ってたぞ!」
「やった! 唐揚げだー!」
結人が身を乗り出すと、榊は声を上げて笑った。
車の揺れに合わせて結人の瞼が重くなる。リーゼの体で走り回った分の疲れが、生身の体にまとめて降りてきた。
信号で車が止まった時、ラジオの音が小さくなった。運転席から伸びた榊の手が、つまみから離れる。結人はそれを見届けて、目を閉じた。




