第29話 有名人
次の週の金曜、五時間目の学活が始まると黒板に大きな世界地図が貼り出された。
見慣れた地図と違って、陸地のあちこちに斜めの線がびっしりと引かれている。
「線が引いてある所はね、魔物が多すぎて今は人が住めなくなっちゃった場所なの」
先生は地図の上を指でなぞりながら言った。
「ダンジョンができる前は、ここの斜線が引いていある北海道や沖縄諸島って大きな島にも、たくさんの町があったんだよ。でも今は、人が安心して住める場所は世界の半分くらいに減っちゃったんだ。日本で済める所も、本土の半分くらいしかないの。国の名前が地図から消えちゃった所も、たくさんあるんだ」
教室が静かになる中、窓際の後ろの方の席でブラジルから来た男の子が手を挙げた。
「ぼくのおじいちゃんの町も、人が住めなくなっちゃったって、パパが言ってた」
先生は男の子のそばまで歩いていき、肩に手を置いた。
「そっか。教えてくれてありがとう。おじいちゃんの町のこといつか先生にも教えてね」
男の子が頷くのを見届けてから先生は黒板の前に戻った。
「今も世界のどこかで、ダンジョンから魔物が溢れ出す『スタンピード』が起きてるの。それも毎日ね。だから世界中の国は喧嘩をやめて、みんなで力を合わせて魔物と戦うことにしたんだよ」
討伐の晩ごとに通っている塀の向こうのダンジョンも、霞ヶ丘の大きなダンジョンも、この地図のどこかにつながっている。結人は線の引かれた陸地から目を離せなかった。
「先生! 探索者って強さの順番あるんでしょ!」
小春が、椅子から半分立ち上がって手を挙げた。
「よく知ってるね。探索者の中でも、世界で一番強い十二人のことを、『英雄級』って呼ぶんだよ」
先生が黒板に大きく「えいゆうきゅう」と書くと、教室が沸いた。
ふと、首筋に覚えのある感じがして、結人は前を見た。窓際の一番前の席でイリスが黒板を見上げたまま、手帳に鉛筆を走らせている。一瞬だけ、透き通った目がこちらへ流れた気がして、結人は慌てて地図の方へ視線を戻した。
「中国にも英雄級が4人も居るよ。みんなすっごく強いんだ!」
腕を組んだまま、宋乾坤が胸を張った。
「乾坤くんよく知ってるね。アメリカにも4人居るんだよ。」
先生がそう言った時、教室の真ん中の席で、ミアの肩がびくりと揺れた。俯いたまま、ミアがおずおずと手を挙げる。
「はい、ミアさん」
「それ、わたしの、おにいちゃんなの‥‥」
消え入りそうな声で、ミアは続けた。
「アメリカの、英雄級。ノア・カーター」
一瞬の間があって、教室中がひっくり返ったような騒ぎになった。
「ミアちゃんのお兄ちゃん、すごい人なの!?」
「サインもらってきて!」
「ノア・カーターって、テレビに出てた人だ!すっごくカッコよかった!」
ミアは耳まで真っ赤になって、両手で顔を覆ってしまった。先生も目を丸くして、「ミアさんのお兄さんだったんだ!」と手を叩いている。
乾坤だけが、腕を組んだまま口を尖らせていた。
「ふん。僕だって、いつか英雄級になるんだから」
「乾坤くんのお姉ちゃんの方が強いんじゃなかったの?」
「姉さんは別! 姉さんは、英雄級より強くなる人なの!」
教室がどっと笑い、ミアもようやく指の隙間から顔を覗かせた。
「先生、日本には? 日本には英雄級、居ないの?」
誰かの問いに、先生は少しだけ黙ってから、優しい声で答えた。
「日本には、今は一人だけ居るよ。前はもう一人居たんだけど、その人は、何年か前に亡くなってしまったの」
教室の騒ぎが潮が引くように静まる。
結人は黒板の「えいゆうきゅう」という字を見つめていた。なぜだか、いつか榊が言っていた言葉が、耳の奥に蘇る。
「俺の知ってる一番強かった奴も、最初は誰より弱かった」
あの時の榊は、どんな顔をしていただろう。
「ねえねえ先生! オレンジの髪のお姉さんは何級なの!?」
小春の大声で、教室はたちまち元の賑やかさを取り戻した。先生は「それは先生も知らないなあ」と笑い、子供たちはまた噂の剣士の話で盛り上がり始める。結人は机に突っ伏して、熱くなった耳を両腕で隠した。
* * *
次の日の土曜、結人は榊の車の後部座席で、窓の外を流れる町を眺めていた。
榊と二人で、施設の外へ出かけるのは初めてだった。院長は榊が差し出した外出届に判を押しながら、「榊さんなら安心ですね。夕方までには帰ってきてね」と言っただけだ。それだけのことが結人には不思議なほど嬉しかった。
「学校が始まってから、土曜の討伐はやめにしたろ。代わりに、今日から土曜は霞ヶ丘だ。明るいうちに潜ってこい」
ハンドルを握ったまま、榊が言った。
「宮原さんにも、明るい時間に来いって言われてたんだろ。顔を見せてやれ。それと、四時になったらこの車に戻ってこい。それより遅れたら迎えに行く」
「うん」
「着いたら、駐車場の隅に停める。お前は車の中で変身して、一人で門へ行け。俺がリーゼと並んで歩いてるところを見られたら、面倒なことになるからな」
霞ヶ丘の町が近づくと、通りを歩く人の様子が変わった。剣や槍を背負った若者に、大きな盾を担いだ外国人の一団。防具の店の看板がいくつも並んでいる。前に来た時は、いつも真夜中だった。昼間の霞ヶ丘は、ダンジョンと一緒に生きている町の顔をしている。
駐車場の隅で、結人は後部座席に身を伏せた。
「変身」
胸に火が入って視界が高くなり、髪が肩に落ちる。
「行ってくる!」
「おう。気をつけてな」
車を降りて、リーゼの脚で駆け出す。外に居られるのは十分くらいでも、門までは三分もかからない。宮原に顔を見せるだけなら、一分で済む。
ところが、支部の建物に入った途端、ロビーのざわめきが一瞬で静まり返った。
ロビーに居た探索者たちが、一斉にこちらを振り返る。誰かが、スマホの画面とリーゼの髪を見比べた。
「おい。あれ、例の動画の子じゃないか?」
「オレンジの髪の剣士だ! 石の森を凄い魔法で焼いたって噂の!」
あっという間に、リーゼの周りに人の輪ができた。
「ねぇ君、パーティー決まってる?うちは中級が三人居るんだけど、一緒にどうかな?」
「待て待て、うちが先だ! 第三層まで連れてってやるぞ!」
「サインくれない!?」
「この動画、君だよね? 一万回以上再生されてるんだけど!」
突き出されたスマホの画面に、見覚えのある光景が映っていた。年末の連休の夜、混み合った門の前で、腕で顔を隠して逃げていく少女。酔った三人組に撮られたあの夜の動画だった。
結人の頭が真っ白になる。四方から大人の男たちの手が伸びてきて、体が勝手に強張った。息が浅くなり、伸びてくる手から目が離せないまま、膝が言うことを聞かない。
その上、肩の奥に薄い気だるさが降りてきた。
変身してからもう五分近く経っている。ここで立ち止まっていたら、ロビーの真ん中で変身が解けてしまう。
その怖さが凍りついていた喉をこじ開けた。
「ご、ごめんなさい!あたし急いでるの!」
リーゼの声がロビーに響いた。結人は盾を体の前に構え人の輪の一番薄い所へ肩から滑り込む。伸びてきた手を半身でかわし、もう一つの手の下をくぐって輪の外へ抜け出した。
けれど、門へ出る自動扉の前にも、話を聞きつけた探索者たちが集まり始めていた。背中からは追ってくる足音がいくつも重なる。
「おい!待てって!」
結人は床を蹴ってロビーの長椅子の背に飛び乗った。驚いて身を引いた人たちの頭の上を、椅子の背から椅子の背へ、三つ続けて跳び移る。最後の一つから跳んで、自動扉の前の人だかりの向こうへ着地した。ロビーのあちこちからどよめきが上がる。
振り返ると、追ってきた男たちが長椅子の手前で足を止め、口を開けたままこちらを見ていた。
リーゼの体なら、このくらいは岩鼠の群れの中を抜けるより簡単だった。それでも、胸の奥では心臓がまだ早鐘を打っている。
「返事も聞かずに、寄ってたかって囲むのはギルドの規約違反です!」
カウンターの向こうから、凛とした声が飛んだ。
窓口から出てきたのは、宮原だった。夜の窓口で、何度もリーゼの登録や換金を手伝ってくれた職員だ。宮原は追いかけようとした探索者たちの前に立ち塞がって、一人一人を睨み回した。
「それから、本人の許可なく撮った動画を見せびらかすのも、褒められたことじゃないわよ。全員下がりなさい!」
探索者たちが気まずそうに散っていく間に、宮原はリーゼの隣に並んで、門の方へ早足で歩き出した。
「急いでるんでしょ。歩きながら話すわ。今日は昼の番なの」
「‥ありがと」
「どういたしまして。明るい時間に来なさいって言ったのは、私だものね。誰かと一緒にとも言ったはずだけど」
宮原は、横目でリーゼを見て苦笑いした。
「あの動画のせいで、あなたすっかり有名人よ。だからお願い。深い所へ行くなら、一人じゃなくて誰かと組んでちょうだい。一人で何かあっても、私には何もしてあげられないから」
肩の気だるさが、少しずつ重くなってくる。門の読み取り機がもう目の前に見えていた。
「でも、組む人なんて‥」
「誰でもいいわけじゃないわよ。私が見て、任せられると思った人だけ」
宮原は門の手前で足を止め、柵の向こうを顎で示した。
「だから、前から一人相談してあったの。さっきの騒ぎの間、ロビーの隅に居たわよ、あの人。騒ぎを見たら黙って先に門をくぐっていったけど」
結人は首を傾げたまま、読み取り機に探索者証をかざして門を抜けた。
裂け目をくぐった途端、外で引きかけていた熱が、手足の先まで一息に戻ってくる。肩の気だるさが、嘘のように消えた。
草原の広がる第一層の入口に槍を背負った男が一人、岩にもたれて立っていた。
背が高く、切れ長の目をした男。あの冬の夜、第二層の入口で合図を決めて灰狼の群れの中を一緒に駆け抜けた探索者。
「あ!鷹野‥!」
呼んだ声が、自分でも驚くほど弾んでいた。
鷹野は岩から背を離した。けれど、それ以上は近づいてこない。リーゼとの間にいつかと同じ距離を空けたまま、静かに口を開いた。
「宮原から聞いた。深い所へ行くなら組む相手が要るそうだな」
鷹野の口の端が、ほんの僅かに持ち上がった。
「なら、俺と組め。リーゼ」




