第28話 鑑定
「はーい!みんな聞いてー!内野の人はボールをよく見て逃げること! 外野の人は、思いっきり投げてオッケー! でも、顔は狙わないこと!」
校庭に先生の笛が高く響いた。
その週の金曜の三時間目は、二組の初めての体育だった。赤いジャージの先生は、首から下げた笛をくわえたまま、白線で描いた四角い枠の周りを跳ねるように走り回っている。子供たちは赤と白の帽子に分かれて、ドッジボールの枠の中にぎっしりと詰め込まれていた。
白い帽子の内野の隅で、結人は自分に言い聞かせていた。目立たないように。おとといの給食の時のように、変だと思われないように。皆と同じくらいに逃げて、皆と同じくらいに当たればいい。
ボールが飛んでくるたびに、内野の子供たちが悲鳴を上げて右へ左へ逃げ惑う。結人もその流れに混ざって、わざと重い足取りで走った。
けれど飛んでくるボールは遅すぎた。岩鼠の跳びかかってくる速さに比べたら、宙に浮いて止まっているのと変わらない。どこへ逃げればいいのかが、ボールが、投げる子の手を離れる前から分かってしまう。わざと半歩遅れて動いても、ボールはいつも結人の横をすり抜けていく。
「きゃあっ!」
突然の悲鳴に振り向くと、先生が外野の白線の上で片足立ちになり、両手を振り回していた。足元の土の上を、小さな黒い甲虫が一匹、のんびりと横切っている。
「む、虫! ダメ!、先生、虫だけはほんとに駄目なの! 誰か、誰かどけてー!」
子供たちがどっと笑った。外野の男の子が甲虫を指で摘まんで花壇に放すと、先生は胸に手を当てて「きゃー!ありがとう!すっごくカッコよかったよ!」と大袈裟に喜んだ。また笑いが起きて結人も思わず口元を緩めた。
ゲームが再開すると内野の子供はみるみる減っていった。
白い帽子の内野に残っているのは、いつの間にか結人とあと二人だけになっている。すばしっこい小柄な男の子と、窓際の一番前の席のイリスだ。
イリスは逃げもせず、プラチナブロンドの長い髪を背中に流したまま、内野の真ん中に背筋を伸ばして立っていた。ボールが飛んできても目でその行方を追うだけで、足は一歩も動かない。それなのにボールの方が狙いを外れて、イリスの横を飛び過ぎていく。「あいつ、当たんねー」と、外野の男の子が首を傾げた。
赤い帽子の外野で、体の大きな男の子がボールを拾い上げた。
「あいつ、ずっと突っ立ってるぞ。当ててやる!」
男の子が、大きく腕を振りかぶる。一年生とは思えない勢いで、ボールが真っ直ぐに飛んだ。狙いは、イリスの顔の高さだった。
イリスは、やっぱり動かない。結人の体の方が、先に動いていた。
二歩でイリスの前へ滑り込み、左腕を前へ出す。顔の前に迫ったボールを左の前腕で受けて勢いを殺し、跳ね上がったところを右手で上から押さえ込んだ。リーゼの円盾で、岩鼠の体当たりを受け流す時と同じ動きだった。
乾いた音がしてボールは結人の胸の前で止まった。
校庭が静まり返る。
「すっげ」
誰かの呟きを合図にして、外野からも内野からも、わっと声が上がった。
「今の見た!?」
「神楽くん、めちゃくちゃ速かった!」
「なんで取れんの!?」
先生が笛をくわえたまま駆け寄ってきた。
「ナイスキャッチ! 神楽くん、今のすごかったよ! それと、顔を狙っちゃった人。後で先生とお話ししようね」
体の大きな男の子が、首をすくめた。結人は、ボールを抱えたまま動けなかった。
皆と同じくらいに、と決めていたのに、やってしまった。顔に当たると思った瞬間、体の方が勝手に、守る動きをしてしまったのだ。
「た、たまたま、です‥」
小さな声でそう言って、結人はボールを足元に落とした。投げ返せと言われる前に、わざと枠の外へ転がす。体の大きな男の子が、面白くなさそうな顔でそのボールを拾った。
「ずりー。あいつ、絶対ずるしてる」
そんな声が聞こえて、結人は帽子のつばを引き下げた。
「ずるじゃないよ。わたしちゃんと見てたもん!」
外野からはっきりした声が返った。栗色の髪を一本の三つ編みにした、イギリスから来たエマ・ベネットという女の子だ。
「顔狙ったのそっちでしょ?先生に言われたじゃん!」
「その通りだよ!」
赤い帽子の外野から、宋乾坤が腕を組んだまま歩み出てきた。
「今のはずるじゃない。腕で受けて力を逃がして上から押さえる。あれは型だ。あんなに綺麗に受けられる人はなかなか居ないよ」
乾坤は結人の顔をまじまじと見つめた。
「神楽。お前ただ者じゃないな?」
「た、ただ者だよ」
慌てて首を振る結人に乾坤はにやりと笑ってそれ以上は何も言わなかった。体の大きな男の子は、ばつが悪そうに口を尖らせて黙った。
背中に視線を感じて振り返ると、イリスが結人を見ていた。
透き通るような青い目が、瞬きもせずに結人の顔の一点を見据えている。ボールを追っていた時と同じ、何かを確かめるような目だった。
首筋がぞわりと粟立った。大人の男の人にじっと見られた時のあの嫌な感じとは違う。けれど、ただ見られているだけにしては、あまりに長い。結人が目を伏せてもイリスの視線が顔から離れないのが分かる。
「な、何?」
小さな声で聞いても、イリスは答えずにただ見ている。
どれくらい経ったのか、イリスの唇がかすかに動いた。
「‥ヒーロー」
直ぐ傍に居る結人にしか届かない、小さな声だった。それだけ言うと、イリスはようやく目を逸らした。ジャージのポケットから小さな手帳を取り出し、何かを書き付け始める。
ヒーロー。
おとといの給食の時、班の男の子たちがステラヒーローの話をしていた。イリスにも、聞こえていたのかもしれない。それとも、ボールから庇われたことを、そう言っただけなのだろうか。
先生の笛が鳴ってゲームが再開した。次に飛んできたボールに、結人はわざと肩を当てて外野へ出た。
* * *
その日の放課後、結人は迎えの職員を待って教室に一人で残っていた。
体育の後から教室の空気が変わった。「神楽くんすごいね」と話しかけてくる子が居る一方で、体の大きな男の子たちは、結人が近くを通るたびに「ずる」「変なの」と聞こえるように言った。小春が「神楽くんはずるしてないもん!」と言い返してくれてもその声は止まらなかった。
窓際の一番前の席にはイリスがまだ座っていた。迎えを待っているのか、背筋を伸ばしたまま手帳に鉛筆を走らせている。教室には結人とイリスの二人だけだ。
「神楽くん、まだ居たんだ」
教室の前の戸から赤いジャージの先生が顔を出した。プリントの束を教卓に置くと一番後ろの結人の席までやって来て、隣の机の椅子を引いて座る。
「今日のキャッチ、先生ほんとにびっくりしちゃった。体の使い方が上手なんだね」
結人は、ランドセルの肩紐を握ったまま俯いた。
「‥僕、みんなと違うから」
「違う?」
「みんなの話、分かんないし‥分かる話でも、僕だけ変なこと言っちゃうし。今日もずるって‥変なのって」
言っているうちに喉の奥が熱くなってきた。こんなことを大人に話すつもりはなかったのだ。
先生は黙って結人の顔を見ていたが、やがて目の高さを合わせるように身を屈めた。
「神楽くん。誰かと全く同じ人なんて、一人も居ないんだよ」
教室で話す時より、ずっと柔らかい声だった。
「神楽くんは世界に一人だけの神楽くんなんだから、自分のことを大切にしてね。人と違うのは悪いことじゃないよ。今日、ボールから友達を守った時の神楽くん、先生、かっこいいと思った」
結人は、顔を上げた。
先生は照れ臭そうに笑って、結人の頭をぽんと撫でた。
窓際で、鉛筆の音が止まっていた。
イリスが席から立ち上がっていた。手帳と鉛筆を握ったまま先生の方へ真っ直ぐに歩いてくる。抑揚のない、平らな声で言った。
「先生。今の言葉をもう一度言ってください」
「え?」
「誰かと全く同じ人なんて、の後です。書き取ります」
先生は戸惑った顔で結人とイリスを見比べたが、やがて、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。誰かと全く同じ人なんて、一人も居ない。世界に一人だけなんだから、自分のことを大切にしてね。人と違うのは、悪いことじゃない。
イリスは手帳に一字一句を書き写していった。鉛筆の音だけが、二人きりの教室に小さく響く。書き終えると、イリスは手帳の文字を、指でなぞるようにして見下ろした。
「同じ人は、居ない‥‥」
呟いた声は平らなままなのに、結人にはその言葉の終わりが、かすかに震えたように聞こえた。
イリスは手帳を閉じ、先生に向かって深々と頭を下げた。席に戻ってランドセルを背負うと、教室を出ていく前に、結人の方を一度だけ振り返る。
校庭で見据えられた時と同じ青い目が、今度は直ぐに逸らされた。長い髪の先で、薄い水色が、窓から差し込む昼過ぎの日差しを受けて光った。
「不思議な子だね」
先生がぽつりと言った。
結人はイリスの出ていった戸を見つめていた。イリスも教室で誰とも話していない。皆の輪に入っていかない。もしかしたらイリスも、自分と同じ所に立っているのかもしれない。
* * *
金曜の晩も、岩鼠の群れはいつもどおりに現れた。
残り火の剣で群れを片付けた後、リーゼの体の結人は、岩に腰掛けてミッションの画面を閉じた。榊は離れた岩の上で、奥の空洞の方へ耳を澄ませている。さっき覗いた奥の空洞の鉄臭さは、今夜も変わらずそこにあった。
校庭で見据えられた時の首筋の感じが、まだ消えていなかった。
結人は自分の固有スキルの名前を思い出した。
ステラヒーロー。
イリスは、「ヒーロー」と言った。
給食の時の話を思い出しただけかもしれない。ボールから庇われたことを、そう呼んだだけかもしれない。そう考えようとしても、首筋の冷たさは引いていかなかった。
「どうした?黙り込んで」
榊の声に結人は顔を上げた。
困ったら言え、と榊は言った。でも、これはまだ困っていることなのかどうかも分からない。ただ、イリスに長いこと見つめられて、何だか怖かっただけだ。
「学校で、じっと見られただけ」
「一年坊主なんざ、珍しいもんは何でもじっと見るもんだ」
榊は笑って、手斧を肩に担いだ。
「帰るぞ。十時だ」
結人は頷いて立ち上がった。塀の扉へ向かう途中、もう一度あの青い目を思い出す。じっと見つめていたあの間に、イリスは自分の何を見ていたのだろう。




