第27話 入学
入学して一週間が過ぎた水曜の朝も、結人は教室の一番後ろの席で、ランドセルの留め金を何度も掛け直していた。
黒いランドセルは、院長先生が入学式の前の日に渡してくれた物だ。まだ革が硬く、背負うと肩紐が肩に食い込む。リーゼの盾よりずっと軽いのに、なぜか背中が落ち着かない。
一年二組の教室は、どこもかしこも新しい匂いがする。机の天板には名前のシールが貼られ、壁には桜の形に切った色紙が並んでいた。黒板の端に先生が書いた「きょうのめあて」の字は、右に傾いて踊っている。
二組には海の向こうから来た子が何人も居た。教室のあちこちで日本語に混じって、結人の知らない言葉が時々弾ける。
周りの子供たちの声が、結人には遠く聞こえた。
昨日見たアニメの話に、給食に出る揚げパンの話。どれも楽しそうなのに、結人はどこに入っていけばいいのか分からない。おとといの月曜の晩には、ダンジョンで岩鼠を十二匹斬ってきた。そんな話ができる相手は、この教室には一人も居ないのだ。
隣の席の男の子がさっきから結人の顔を盗み見ている。目が合うと男の子は慌てて前を向き、隣の子に何か耳打ちした。「女の子みたい」という言葉だけが、はっきり聞こえた。
結人は前髪を引っ張って、目元を隠した。
「はーい!皆さんおはようございます!」
教室の前の戸が勢いよく開いて、先生が入ってきた。
赤い生地に白いラインの入ったジャージに、茶色い髪の短いポニーテール。その先生が両手に抱えたプリントの束の一番上から、何枚かが床に滑り落ちた。
「あっ、ちょ待って待って」
慌てて拾おうとしゃがんだ拍子に、今度は束が丸ごと崩れる。前の方の席の子たちが、どっと笑った。
「笑ったなー? じゃあ、拾ってくれた人には先生から特別に、ありがとうって言っちゃいます!」
何人もの子が席を飛び出して、プリントを拾い集めた。先生は一人一人に「ありがとう!」と言いながら、拾ってくれた子の頭を撫でる。結人は席から動けないまま、その様子を眺めていた。
先生の目が一瞬だけ、教室の一番後ろの結人に留まった気がした。
* * *
二時間目の後の休み時間、教室の真ん中に人だかりができた。
「でね、うちのお兄ちゃん、探索者なの!」
輪の真ん中で両手を振り回しているのは、蒼井小春という女の子だった。二つに結んだ髪を揺らして、よく通る声で話す。入学式の日からずっと、誰にでも話しかけている子だ。
その名字を聞いた日から、結人は落ち着かなかった。
霞ヶ丘の支部のロビーで、リーゼをしつこくパーティーに誘ってきた茶色い髪の探索者。次の晩、ダンジョンの中まで謝りに来てくれた人。灰狼の群れに囲まれていた三人組の先頭で剣を振っていたのも、その人だった。
あの人も蒼井と名乗っていた。妹は春から小学生だと言っていた。
「お兄ちゃんね、霞ヶ丘ってとこの、すっごく大きいダンジョンに潜ってるの。でっかい狼とか普通に出るんだって!」
「すげー!」
「狼、見たの?」
「お兄ちゃんは見たって! それでね、それでね」
小春が秘密を打ち明けるように声を落とすと、教室中の子が身を乗り出した。
「霞ヶ丘には、オレンジの髪の、すっごく綺麗な剣士のお姉さんが居るんだって」
結人の手から鉛筆が転がり落ちた。
「一人で狼の群れをやっつけちゃうんだって。石の森が焼けた時も、そのお姉さんが居たって噂なの!」
「何それ、かっけー!」
「ふん。オレンジの髪のお姉さんなんて、大したことないよ」
輪の後ろから、やけに堂々とした声が割り込んだ。
声の主は、腕を組んで立っている宋乾坤という男の子だった。中国から来た子で、日本語は誰よりも流暢だ。入学式の自己紹介では「宋乾坤です。将来は大英雄になります」と胸を張り、教室中をぽかんとさせた。
「僕の姉さんの方がずっと強い。姉さんは中学生で、蹴り一発で岩だって割るんだから」
「えー、うそだー」
「嘘じゃない。それに僕だって、いつか姉さんより強くなるんだ」
子供たちは顔を見合わせたが、乾坤は少しも気にせずに胸を反らした。
結人は、背中にじっとりと汗が滲むのを感じた。オレンジの髪のお姉さんの噂は、思っていたよりずっと大勢の子の口に上っている。
「お兄ちゃん、会ったことあるの?」
小春は胸を張った。
「あるって! 一回だけ、一緒に戦ったんだって!」
結人は机の下で、落ちた鉛筆を拾うふりをしてしゃがみ込んだ。オレンジの髪の、すっごく綺麗な剣士のお姉さん。それは今、机の下で縮こまっている、前髪の長い一年生のことなのだ。
「どんな技使うの? ビームとか出る?」
男の子の一人が聞いて、結人は息を止めた。
小春が、急に口を尖らせる。
「それがね、お兄ちゃん、絶対に教えてくれないの。何回聞いても、『それは言えない。約束したから』って。ケチでしょ!」
机の下で、結人は動けなくなった。
あの夜、灰狼の群れの真ん中で『緋走り』を撃った後、蒼井は「言わない。絶対に」と言った。その約束を、蒼井は妹にさえ守っている。
結人の胸のどこかが、じんわりと温かくなった。
「ケチじゃ、ないと思う」
机の下から出た自分の声に、結人の方が驚いた。輪の子供たちが、一斉に振り返る。机の下から半分だけ顔を出した結人を、小春が目を丸くして見下ろした。
「え? なんで?」
結人は鉛筆を握りしめたまま、やっとのことで口を開いた。
「約束、守ってるんだもん」
小春は何度か瞬きをしてから、歯を見せて笑った。
「そっか。そうかも! お兄ちゃん、えらいかも!」
それから小春は、結人の机の前にしゃがみ込んで、顔を覗き込んできた。
「ねえ、神楽くんって、ダンジョン好き?」
「え‥」
「だって今、すっごく真剣な顔してたもん。わたしもね、大きくなったら探索者になるの! お兄ちゃんより強くなって、オレンジの髪のお姉さんとパーティー組むの!」
結人は、何と答えていいのか分からなかった。オレンジの髪のお姉さんは、パーティーを組む相手としては、多分一番難しい。
「なれるといいね」
「なるの!」
小春がそう言い切った時、休み時間の終わりのチャイムが鳴り、子供たちは席へ戻り始めた。
席に戻る途中、結人は窓際の一番前の席に目をやった。
そこには、白に近い金色の長い髪の女の子が座っていた。髪の先だけが、薄い水色に透けている。小春の話で教室中が沸いていた間も、その子だけは輪に加わらなかった。
背筋を伸ばして前を向いたまま、小さな手帳に何かを書き付けている。入学式の自己紹介でも、名前を小さく言ったきりで、結人には聞き取れなかった。机の名前のシールには、片仮名で「イリス・ノルデン」と書いてあった。
入学式の日から、イリスが誰かと話しているのを、結人は一度も見ていない。
* * *
給食の後、班の机をくっつけたまま、男の子たちがゲームの話を始めた。
「おれ、ステラヒーローやってる! 兄ちゃんのスマホで!」
その名前が聞こえた瞬間、結人は顔を上げていた。
「あれ、ガチャが渋いんだよなー。金の流れ星、全然出ない」
「おれ、この前、虹引いたの見たよ! 兄ちゃんが引いたやつだけど!」
結人の胸が大きく鳴った。この教室で初めて分かる話だ。
「虹は出にくいよ?毎日引いてるけど一回も見たことないもん」
一度話し始めると、止まらなかった。
「でも、星が落ちてくる途中で、色が一つ上がることがあるの。それを昇格って言うんだけど、青から金に上がる時は、尾の根元から色が変わるからそこを見てれば‥」
そこまで言って結人は口を閉じた。
班の男の子たちが、呆気に取られた顔で結人を見ている。
「しょうかくって、なに?」
「なんで、そんなこと知ってんの?」
一人が、隣の子に「こいつ、なんか変」と囁くのが聞こえた。結人は俯いて、給食の牛乳の空き箱を指で小さく畳んだ。分かる話が出てきたと思ったのに、また、自分だけが違う所に立っている。
「‥わたし知ってる」
小さな声がした。
向かいの席で、金色の巻き毛の女の子が、スプーンを握ったまま結人を見ていた。アメリカから来たミア・カーターという子だ。日本語はまだゆっくりで、授業中も殆ど喋らない。
「しょうかく。青が、金になるとき。きれいだよね」
それだけ言うと、ミアは耳まで赤くなってスプーンで給食のスープをかき混ぜ始めた。筆箱に付いた小さなガチャガチャの鍵飾りが机の上でかちゃりと揺れる。
結人は何と返していいのか分からなかった。ただ、畳みかけた牛乳の空き箱をそれ以上は畳まなかった。
* * *
帰りの会が終わって昇降口を出ると、後ろから足音が追いかけてきた。
「神楽くん、待って待って!」
ランドセルの横で給食袋を跳ねさせながら、小春が駆けてきた。
「神楽くんのお家、どっち? 一緒に帰ろ!」
「‥僕、施設だから。職員の人が迎えに来るの」
言ってから、結人は小春の顔を見られなくなった。施設の子だと知ると、大人も子供も決まって困った顔をする。
けれど小春は、ふうん、と頷いただけだった。
「どこの施設? 駅の方?」
「‥ダンジョンの隣」
「えっ!」
小春の目が、まん丸になった。
「お家の隣にダンジョンがあるの!? いいなー! 毎日見られるじゃん!」
「い、いいことじゃないよ。塀があって中は見えないし」
慌てて付け足しても、小春は聞いていなかった。両手を胸の前で握りしめて、空を見上げている。
「今度、お兄ちゃんに言おうっと。お兄ちゃんね、たまにバイトの帰りに迎えに来てくれるの。今度来たら、神楽くんにも会わせてあげるね!」
結人はランドセルの肩紐をぎゅっと握った。会ったら何を話せばいいのかまるで分からない。
校門の前で職員の姿を見つけて、結人は逃げるように手を振った。
* * *
討伐の晩の洞窟は、昼の教室よりずっと息がしやすかった。
入学してからの榊は、約束どおり帰る時刻を早めた。十時には「帰るぞ」と声が掛かる。その分、リーゼの体の結人は、昼の分を取り返すように剣を振った。残り火の剣が岩鼠の群れの中を一巡りすると、残るのは焦げた毛の匂いと、拾い集める魔石だけだ。
帰りに覗いた奥の空洞は、相変わらず鉄臭かった。先週と比べて、変わった様子はない。榊は帳面に一行書き付けると、鉛筆を耳に挟んで、結人の方を振り返った。
「で、どうだ?一年生は」
その声はどこか楽しそうだった。結人は迷ってから手の中の魔石を見下ろした。
「まだよく分かんない。みんなが何の話をしてるのか、分からないの」
「はは!そりゃそうだ!一週間で分かったら大したもんだ!」
榊は手斧の柄で自分の肩を軽く叩いた。
「俺なんか一年の頃は、給食の時間しか学校が好きじゃなかったぞ。焦んな。そのうち、一人くらいは話の合う奴が出てくる」
「‥一人居たかも」
給食の時に耳まで赤くなっていたミアの顔が、結人の頭に浮かんだ。
「お、やるじゃねえか。どんな奴だ」
「アメリカから来た子。ステラヒーローの昇格のこと、分かってくれたの」
「しょうかく?」
榊は首を捻った。
「何のことかは知らんが、話が通じたんならそれでいい。上出来だ」
「あのね、榊さん。オレンジの髪の剣士のお姉さんって、一年生の間でちょっと有名みたい」
榊の足が止まった。
「‥は?」
結人が小春の話をかいつまんで話すと、榊は目を丸くしてから、堪えきれないように吹き出した。
「一年坊主の間で有名、か。大したお姉さんだな、おい」
榊は結人の顔を覗き込んだ。
「探索者の兄貴が妹にも約束を守ってる、か。そいつはいい奴だ」
それから、榊は真面目な顔になった。
「けどな、学校じゃ知らん顔しとけよ。噂ってのは子供の口から一番よく漏れるんだ。お姉さんの話が出たら、『へえ、すごいね』って言っときゃいい。顔に出すなよ。お前直ぐ赤くなるからな」
「な、ならないもん」
「なってるぞ、今」
結人は慌てて、両手で頬を押さえた。榊の笑い声が、洞窟の天井に響く。結人は頬を押さえたまま、魔石をインベントリに仕舞った。
明日もまた、あの教室へ行く。窓際の一番前の席では、イリスが今日と同じように、手帳に何かを書いているのだろう。




