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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第25話 鉄の匂い

 その夜、リーゼの姿で隙間道を抜けると、鼻の奥を鉄臭さが刺した。


 奥の空洞は、天井が高く、苔の光は壁の下の方にしか届かない。地面にはボスと戦った夜の焦げ跡が黒く残り、巨大な岩鼠が崩れた後の砂は、もう平たく均されていた。


「どうだ」


 手斧を肩に担いだ榊が低い声で聞く。


「鉄の匂いが濃いよ。前に来た時より、ずっと濃い」


 錆びた鉄のような匂いが、息を吸うたびに鼻の奥へ溜まっていく。結人はリーゼの鼻をひくつかせながら、匂いの濃い方へ顔を巡らせた。


「こっち」


 結人が指差したのは、空洞の一番奥の岩壁だ。榊は黙って結人の前に出て、手斧を構えたまま歩き出す。結人は昼に言われたとおり、作業着の背中から離れないようについていった。


 空洞の一番奥、ボスが伏せていた辺りの岩壁の根元に、縦に細長い割れ目が裂けていた。


 あの夜、陽向が隠れていた入口側の隙間とは違う。ボスが伏せていた場所の真後ろで、人が横向きになってやっと通れるほどの幅しかない。割れ目の奥は斜め下へ続いていて、そこから重い空気が吹き上がってきていた。


 榊が懐中電灯を差し入れ、肩を入れようとして岩に阻まれた。体を横にしても、厚い胸板が縁につかえてしまう。


「俺じゃ通れねえな。結人、お前も入るなよ。覗くだけだ」


「うん」


 結人は導きのランタンをインベントリから取り出し、割れ目の縁にしゃがみ込んだ。真鍮の枠のランタンが結人の霊素を受けて、暗がりの中でみるみる明るさを増す。光の先では、割れ目の床に灰色の粉が積もり、その先が見えなくなるほど急な下り坂になっていた。


 もう少しよく見ようと、結人が縁に手を突いた時だった。


 手の下の岩が降り積もった粉ごと崩れた。


「結人!」


 榊の手が伸びてくるより早く、結人の体は粉と一緒に割れ目の中へ滑り込んでいた。肩が岩に擦れ、左腕の円盾が硬い音を立てる。


 急な坂を滑り落ちる途中で、体が勝手に顎を引き、背中を丸めた。昼に生身の体で覚えたばかりの転び方を、リーゼの体がなぞる。坂の下に投げ出された結人は、粉の上を一回転してそのまま膝を突いて止まった。


 ランタンだけは手放さずに済んだ。


 見上げると、滑り落ちてきた坂は大人の背丈ほどの高さだった。その上の方で、崩れた岩と粉が割れ目を半分塞いでいる。榊の声が、岩の向こうからくぐもって聞こえた。


「結人! 返事しろ!」


「だ、大丈夫! 滑っただけ! 怪我もしてない!」


 叫び返してから、結人はランタンを掲げて、落ちた場所を見回した。


 そこは、施設の寝室ほどの広さの天井の低い洞だった。


 その天井一面に、灰色の塊がぶら下がっている。大人の握り拳ほどの細長い塊で、乾いた泥を丸めた物にも、何かの繭にも見えた。数は数十か、それ以上ありそうだ。洞の壁には低い所に穴がいくつも空いていて、穴の奥はさらに暗い方へ続いているらしかった。


 息を詰めて見上げていると、塊の一つが、ほんの僅かに身じろいだ気がする。背筋が冷たくなった。


 洞の壁の穴から赤い目が覗いたのは、その直後だ。一つ二つと増えた目は、隣の穴にもそのまた隣の穴にも灯った。岩を掻く音が四方から湧き上がり、穴という穴から岩鼠が這い出してくる。


 結人はランタンを足元に置き、剣を抜いた。


 狭い洞では、剣を振りかぶると切っ先が天井の塊に当たってしまう。結人は左腕の盾を前に突き出し、跳びかかってきた一匹を盾の縁で叩き落として、返す剣を下から短く突き上げた。


 二匹三匹と倒しても、穴からは次々に赤い目が湧いてくる。一匹ずつ斬っていては追いつかない。数を減らすには火しかないと、結人は熱を右腕へ流して刃に火を移した。


 その瞬間、足元の灰色の粉が燃えた。


 刃から零れた火の粉が足元に落ちた途端、灰色の粉が低い唸りを上げて燃え上がった。炎は一面に、橙色の波になって床を走る。熱風が顔を打ち、リーゼの前髪の先が焦げる匂いがした。


 結人は咄嗟に盾で顔を庇い、剣の火を消した。床を走った炎は、粉を燃やし尽くすと呆気なく消える。けれど、もう一度火を使えば、今度は天井の塊にまで燃え移るかもしれない。そうなれば、この狭い洞で真っ先に焼けるのは自分だ。


 火は使えない。


 煙の向こうから押し寄せてくる岩鼠を、盾で受けて剣で突き、また盾で受ける。一匹を倒す間に、二匹が足元へ潜り込んでくる。足首に鋭い痛みが走り、見下ろすと、岩鼠の前歯がブーツの革を破って食い込んでいた。剣の柄で叩き落とした拍子に、踵がランタンを蹴り倒す。


 光が、床の上で大きく揺れた。


 倒れたランタンの光は、横倒しのまま洞の片側しか照らさない。照らされない側の暗がりから、岩を掻く音だけが近づいてくる。下がろうとした背中が、冷たい岩壁に当たった。


 変身してから首に掛けておいた銀色の笛が、胸元で揺れている。


 吹けば、榊はここへ来ようとする。この狭い割れ目を、あの大きな体で、無理をしてでも通ろうとするだろう。危ない所に、榊を呼んでしまう。


 どこに居ても、走って行く。物置の陰で笛を渡された時の声が、耳の奥に蘇った。


 結人は剣を盾の握りと一緒に左手で掴み、空いた右手で笛を握って思いきり吹いた。


 甲高い音が、狭い洞の岩壁に跳ね返る。耳が痛くなるほどの音が坂を駆け上がり、塞がりかけた割れ目の隙間から外へ抜けていった。


 返事は直ぐに来た。


「結人!」


 上の方で岩を打つ重い音がした。二度、三度と続いたのは、手斧の背で崩れた岩と割れ目の縁を叩き割る音だ。音が続く間も、結人は盾で岩鼠を押し返し続けた。砕けた岩の欠片が坂を転がり落ちてきて、粉が舞い上がる。続いて、布の裂ける音と、苦しげな唸り声が聞こえた。


 作業着の肩を裂き、腕に擦り傷を作った榊が、粉まみれになって坂を滑り降りてきた。


 着地と同時に榊は宙に跳んだ一匹を左手で掴み取り、暗がりから這い出してくる群れの真ん中へ投げつけた。ぶつかり合って転がった岩鼠の上を、手斧の背が横薙ぎに払う。三匹がまとめて、壁の穴の縁へ叩きつけられた。


「吹きゃ行くって言ったろうが!」


 榊は結人の前に立ち手斧を短く握り直した。狭い洞の中で大きく振りかぶることはせず、跳びかかってくる岩鼠を一匹ずつ確実に叩き落としていく。結人も剣を右手に戻し、榊の脇から盾を突き出して、足元へ潜り込もうとする岩鼠を仕留めた。


 最後の一匹が動かなくなると、聞こえるのは二人の荒い息だけになった。


 榊は手斧を下げるより先に結人の前にしゃがみ込んだ。


「怪我は?どこを噛まれた」


「あ、足首だけ。平気だよ」


「平気なわけあるか。痛えもんは痛えだろ」


 榊はブーツの破れ目を確かめ、血が止まりかけているのを見ると、ようやく長い息を吐いた。


「近づけた俺が悪かった。覗くだけでも、割れ目の縁は粉で崩れるって、気づくべきだった」


「ご、ごめんなさい。あたしが縁に手を突いたから‥」


「謝るな。お前はちゃんと吹いた。気にし過ぎるな」


 手の中の銀色の笛は、汗で濡れていた。


 榊は立ち上がると、ランタンを起こして天井を照らした。灰色の塊が、光の中にずらりと浮かび上がる。


「何だこりゃ‥」


 探索者だった頃の榊でも、見たことがない物らしかった。榊は顔を険しくしたまま、ポケットからスマホを出して天井の塊を何枚も写した。低い所にある塊を手斧の刃で慎重に一つ切り落とし、腰の袋に入れる。


 それから床の焦げ跡を見下ろすと、靴の先で灰色の粉を掻き寄せて、黒い跡の上に被せていく。


「焼け跡は、撮らねえ。このダンジョンに火を吐く魔物なんざ居ねえ。第一層の焦げは、討伐で松明を使ったとでも書きゃいい。だが、上に送る写真に焼け跡が写ってりゃ、言い逃れが利かねえ」


「この塊、燃やしちゃった方がいいの?」


「この粉だぞ。ここで火を使えば洞ごと火の海だ。それに、あの穴がどこまで続いてるかも分からねえ。まずは上に見せる。これを見せりゃ上も放ってはおけねえだろ」


 榊は坂の下で膝を突き、両手を組んで結人の足場にした。その手に足を掛けて、結人は粉の坂を這い上がった。


   * * *


 水曜の夜、ダンジョンの入口の裂け目をくぐって最初の曲がり角まで来た所で、榊はとうとう足を止めた。地面には、白い石灰の線が今も残っている。


「上から返事が来た」


 榊の声は平らだった。


「『小規模ダンジョンの残留魔素による一時的な現象と考えられる。対応の必要なし』だとよ。持っていった塊は上が預かると言ったきりで、ついでに、余計な報告は上げるな、とさ」


「でも、あの塊‥」


「写真も消しとけと言われたが、消しちゃいねえ」


 懐中電灯を握る榊の手の甲には、太い筋が浮いていた。


 結人は、来た道を振り返った。裂け目と塀を越えたその先では、同じ部屋の翔も陽向も小さな子たちも眠っている。今日の昼も、陽向たちと裏庭で鬼ごっこをしたばかりだ。その裏庭の塀一枚向こうで、あの洞は夜ごとに重くなっていく。


「榊さん」


 結人は榊の作業着の裾を掴んだ。


「あたし困ってる」


 榊が振り返った。


「あそこ、来るたびに鉄の匂いが濃くなってるの。みんな、塀の隣で寝てるのに。大人の人は、何もしなくていいって言ってて‥あたし、どうしたらいいか分からない」


 言い終えた途端に喉が詰まり、結人は泣きそうになるのを唇を噛んで堪えた。


 榊は長いこと黙っていた。それから懐中電灯を脇に挟み、結人の肩に大きな手を置いた。


「やっと言ったな」


「実はな、俺も困ってた。上に掛け合っても話が通らねえ。お前にどう言やいいか一晩考えてた」


 榊は苦笑いを浮かべて、結人の顔を覗き込んだ。


「だから、言ってくれて助かった。困ったらそうやって言え。俺もお前に言う」


「‥うん」


「上が動かねえなら俺たちで見張る。討伐の晩は毎回、帰りに奥の様子を見る。お前の鼻で何か変わったと思ったら、どんなに小さなことでも全部俺に言え。どうするかは二人で考える。ただし、あの割れ目には二度と近づけねえ。奥へは俺が先に入る」


 結人はこくりと頷いた。


 榊が手を離して、奥へ向かって歩き出す。結人は胸元の笛を一度握ってから、榊の後ろではなく、その隣に並んで歩き出した。

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