第24話 鬼ごっこ
「ゆいとにいちゃん、はやく!」
月曜の昼過ぎ、裏口で運動靴の踵を踏んだまま立ち止まっていた結人の手を、陽向が両手で引っ張った。
小学校に上がる前の子供たちは、平日の昼も施設で過ごしている。裏庭の物干しの下では、陽向と同じ部屋の女の子が二人と、年中の男の子が一人待っていた。陽向を入れた四人とも、結人より年下の小さな子たちだ。
ここ一年ほど、結人は施設の庭で誰とも遊んだことがない。年上の子たちに目を付けられないように、いつも物置の陰か窓の内側に居た。その小さな子たちが今は結人を待っている。
「えっとね、きのところが、おうち。おうちにいたら、つかまらないの。それで、おには、えっと、十かぞえたら、おいかける!」
陽向は、物干しの隣の柿の木を指差しながら、途中で何度も言い直して決まりを教えてくれた。
結人は踵を靴に押し込みながら、昨日の朝のことを思い出していた。布団を二枚続けて運んだ自分を、洗濯籠を抱えた職員が不思議そうに見ていた。六歳の子がほかの子より目立って速く走り回れば、きっとまた変に思われる。今日は、皆と同じくらいの速さで走ればいい。
じゃんけんで負けた年中の男の子が、柿の木の幹に顔を押しつけて、大きな声で数え始めた。
「いーち、にーい、さーん」
女の子たちが甲高い歓声を上げて四方へ散り、結人も一拍遅れて物置の方へ駆け出した。
走り出してみると、地面を蹴る足が驚くほど軽かった。冷たい二月の風が頬を切り、枯れた芝が運動靴の下で乾いた音を立てる。後ろから「じゅう!」という声が上がり、小さな足音が追いかけてきた。
追いかけられているのに、ちっとも怖くない。
ダンジョンの中で岩鼠に追われる時とは違って、捕まっても痛いことは何もないのだ。後ろで鬼の子が「まてー!」と笑っていて、気がつくと結人の喉の奥からも、施設の庭で上げたことのない高い笑い声がこぼれていた。
その笑い声に気を取られた瞬間、足がもつれた。
物置の角を曲がろうとして、体が勝手に、リーゼの時の動き方をしたのだ。リーゼの長い脚なら、踵を軸に向きを変えられる。でも結人の短い脚では、回りきる前に爪先が地面に引っ掛かった。前のめりに倒れ、両手を枯れ芝に突いて擦りむく。
「ゆいとにいちゃん!」
陽向が駆け寄ってきて、鬼の男の子も追いかけるのをやめて立ち止まった。
「だいじょうぶ? いたい?」
「平気だよ。ちょっと転んだだけ」
手のひらの土を払って立ち上がると、鬼の子が得意げに笑って、結人の肩を軽く叩いた。
「つかまえた! ゆいとにいちゃん、おにー!」
「あっ、ずるい!」
思わず言い返した自分の声に、結人の方が驚いた。年下の子に言い返したのなんて初めてで、小さな子たちが一斉に笑い出した。
鬼になってからも、結人は何度も転んだ。陽向を追って柿の木を回り込もうとした時も、急に向きを変えた男の子の前で慌てて止まろうとした時も、足がもつれて地面が迫ってくる。そのたびに体は、どう転べばいいのかを知っているかのように動こうとした。
洞窟の中で、リーゼの体は何度も地面に転がされてきた。岩鼠の体当たりで背中から叩きつけられ、息が詰まった夜もある。
顎を引くこと、背中を丸めること、肩から地面に入ること。転がされるたびに、リーゼの体はひとりでにそう動いていて、その感じが、生身の結人の体のどこかにも残っている。
生身の体はまだそれを上手く真似できない。三度目は肩から転がろうとして途中で横に倒れ、四度目は背中を丸めるのが遅れて尻餅をついた。
「ゆいとにいちゃん、ころんでばっかり!」
「いっぱい、でんぐりがえししてる!」
女の子たちは、結人が転ぶたびに手を叩いて喜んでいる。結人も、地面に寝転がったまま声を上げて笑っていた。
五度目は、陽向を追いかけている時だった。柿の木の根元へ飛び込もうとした陽向が、地面から盛り上がった根に足を取られた。前へ倒れかけた小さな背中に、結人は咄嗟に手を伸ばす。陽向の服を掴んで引き戻した反動で、今度は結人の体が前へ放り出された。
地面が迫る。
顎を引く。背中を丸める。右の肩から地面に触れる。
体が前へ一回転した。回った勢いが止まらないうちに足の裏が地面を捉え、結人は気づけば、何事もなかったように立ち上がっていた。
その瞬間、頭の内側に白い光が灯り、抑揚のない声が響いた。
『反復経験を確認しました 経験に基づき、スキルを付与します』
『スキル「受け身」を獲得しました 付与を完了しました』
ステラヒーローの画面の金色とは違う、飾り気のない白い文字が、声に合わせて一行ずつ浮かんでは消えていく。
この声を、結人は一度だけ聞いたことがある。
大河に煽られて窓から跳び、塀の縁で足首を折って、ダンジョンのある塀の内側へ落ちた夜だ。這うようにして入口をくぐった時に響いた声は、痛みでほとんど聞き取れなかった。今は、その声が最後の一行まではっきりと聞こえた。
「スキルが増えた‥‥」
口の中で言ってみてから、自分の両手を見下ろす。擦りむいた手のひらがじんじんと熱く、結人はその手をぎゅっと握った。
「ゆいとにいちゃん、いまのすごい!」
陽向が、結人に引き戻された時のまま服の裾を握りしめて、結人を見上げていた。
「くるんってなって、すぐにたったよ! それに、ひなたころばなかった。ありがと!」
「‥うん」
「ねえ、もういっかいやって!」
「もういっかい!」
「もういっかい!」
ほかの子たちまで、声を揃えて飛び跳ねている。結人は迷ってから、芝生の上で、わざと前へ転がってみせた。顎を引き、背中を丸め、肩から入る。今度は考えなくても体の方がやり方を知っていて、一回転すると、そのまま両足で立てた。
小さな子たちの歓声が、裏庭いっぱいに弾けた。
「じゃあ続きね! 十数えるからね!」
結人は柿の木に顔を押しつけて、大きな声で数え始めた。
そこからの鬼ごっこは、さっきまでとはまるで違った。
逃げる陽向を追って物干しの下をくぐり、急に向きを変えた男の子を追って芝生を斜めに横切る。足がもつれそうになっても、もう怖くない。転んだら転がって、そのまま立てばいいのだ。地面に手を突くたびに一回転して起き上がる結人を見て、女の子たちは逃げるのも忘れて笑い転げた。
男の子の背中が手の届く所まで来た時、結人の脚が勝手に前へ出かけた。地面を蹴る足に、思っていたよりも力が乗る。慌てて歩幅を縮めると、男の子は悲鳴のような声を上げて柿の木に飛びつき、幹にしがみついたまま「せーふ!」と勝ち誇った。
「あーあ、逃げられちゃった」
わざと悔しそうに言うと、男の子は得意げに胸を張る。その顔が可笑しくて、結人はまた声を上げて笑った。
* * *
職員に「おやつよ」と呼ばれた時には、結人の運動靴も半ズボンも、すっかり土だらけになっていた。
小さな子たちが我先に裏口へ駆けていき、最後に靴の土を払っていた結人は、裏庭の端に立つ大きな人影に気づいて手を止めた。
色の褪せたネルシャツに、紙の挟まったクリップボードを抱えた、榊だった。院長に届ける書類を持ってきたついでに、物置の陰の壁にもたれて、こちらを眺めていたらしい。
大人の男の人に、ずっと見られていた。それなのに体が固くならないことに、結人は榊の方へ歩き出してから気づいた。
裏口の方を振り返ると、職員は子供たちの手洗いを見ていて、こちらには気づいていない。結人が二歩手前で足を止めると、榊はクリップボードを脇に挟み、その場にしゃがみ込んだ。大きな体が縮まって、目の高さが六歳の結人と同じになる。
「いい受け身だったな」
「見てたの?」
「途中からな。最初はひどかったが、最後の方のはなかなかだった。探索者はな、剣より先に転び方から覚えるんだ。俺も最初の一年は転んでばっかりだった」
結人は土で汚れた自分の手を見下ろしてから、周りに誰も居ないことをもう一度確かめて、小さな声で言った。
「あのね、榊さん。僕スキルを貰ったの。さっき転んだ時に」
榊の眉が僅かに上がった。
「生身のお前が、か」
結人が頷くと、榊は長い息を吐いた。驚いているのか困っているのか、結人には読み取れない顔だ。その顔のまま、髭の生えた口の端が、片方だけ持ち上がった。
「そうか。転んだ分だけ、お前の体が覚えたんだな」
それから、声を一段落とす。
「ただな、それは黙っとけ。変身のスキルに続いて、六つで二つ目を授かる奴なんて、俺は聞いたことがねえ。知られりゃ、鑑定持ちの連中に目を付けられる」
「うん。言わない」
「よし。それとその手。ちゃんと洗ってからおやつを食えよ。土が入ると膿むからな」
言われて見下ろすと、擦りむいた手のひらに、薄く血が滲んでいた。結人が慌てて手を背中に回すと、榊は喉の奥で短く笑って立ち上がった。
「今夜の討伐だがな。奥の空洞の方まで回るつもりだ。俺の後ろから離れるなよ」
結人は顔を上げた。
奥の空洞は、榊が「もう何も居ない」と言い切った場所だ。結人だけが、あの重い空気と鉄の匂いをまだ感じている場所でもあった。
「うん」
榊は一つ頷くと、クリップボードを抱え直して、玄関の方へ歩いていった。
大きな背中が角を曲がって見えなくなってから、結人は物置の陰の壁に背中を預けて目を閉じた。
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【名 前】神楽 結人 【レベル】2
【体 力】F+
【筋 力】F+
【敏 捷】E+
【魔 力】B+
【スキル】 受け身
【固有スキル】 ステラヒーロー
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この前の夜は「なし」だった欄に自分で手に入れた名前が一つ入っている。結人は目を閉じたまま、唇の形だけで「受け身」と読んだ。
裏口の方から陽向の呼ぶ声がする。
「ゆいとにいちゃーん! おやつなくなっちゃうよー!」
今夜は榊と一緒にあの奥へ行く。結人は目を開けて、擦りむいた手を握りしめたまま、裏口へ駆け出した。




