第21話 信頼
名前を呼ばれたまま、結人は塀の縁で動けなくなった。
懐中電灯の光はオレンジ色の髪の上から動かない。逃げるなら窓へ跳び戻るだけでいいのに、榊がもうこの顔を知っていると思うと、脚に力が入らなかった。
結人は観念して縁を蹴り、塀の内側へ飛び降りた。湿った土に靴底が沈むと、光の輪が顔から足元へ下りる。
「ち、違うの! 中には入ってないよ。ちょっと、確かめたいことがあって‥奥の方に、まだ‥」
言いかけて結人は口を噤んだ。鉄の匂いのことをどう話せばいいのか分からない。言い訳のつもりで出た声は、夜の庭に場違いなほど明るく響いて、自分の耳にも嘘臭く聞こえた。
榊は何も言わず、植え込み一つ分の距離を空けたまま、結人の顔を見つめていた。大人が黙っている時は、その後に必ず怒鳴り声が来るのだと、結人は知っている。
けれど、榊の口から出たのはひどく疲れた声だった。
「今夜はいい。戻って寝ろ」
「え‥」
「話は昼にする。昼過ぎに裏の物置の所に来い」
手足の先から熱が引き始め、外に居られる時間は、もう半分を過ぎていた。榊は塀の上を目で示す。
結人は頷いて塀の上へ跳び、窓へ渡ろうとした。その背中に、榊の声が追いついてくる。
「布団、ちゃんと掛けて寝ろよ。今夜は冷えるからな」
振り返ると榊はもう光を消して、魔法瓶を拾い上げていた。
* * *
その日の昼過ぎ、表の庭からは年下の子たちの縄跳びの声が聞こえていた。
物置の陰に回り込むと、榊が地面に古い鞄を置いて、しゃがみ込んでいた。色の褪せたネルシャツの袖をまくり、革の鞄の留め金を外している。鞄の角は擦り切れて白くなり、肩紐には何度も縫い直した跡があった。食堂の窓からは、職員の女の人がときどきこちらを覗いている。院長には話を通してあるらしい。
結人が近づくと、榊は顔を上げないまま、手のひらで結人を押し止める仕草をした。そこから先へは来なくていい、ということらしい。
「座れ。地面でいい」
結人はその場に座り込み、両腕で脚を抱えた。怒られるなら、先に謝ってしまった方がいいと、施設の暮らしで覚えている。
「ごめんなさい。もう、塀は越えないから。榊さんに迷惑かけないようにするから、だから」
「止めねえよ」
言葉の続きを見失った結人に、榊は鞄の中を探りながら続けた。
「お前が朝の返事をした時から、ゆうべは来ると思ってた。止めたってお前は行く。一人で塀を越えられるくらいなら、俺が付いてる方がずっとましだ」
鞄を探る手を止めて、榊は顔を上げた。
「それに、止めるのは簡単だ。ギルドに一言言やあ、それで済む。けどな、あの夜に陽向を連れて出てきたのはお前だ。その力を、俺の都合で取り上げていいとは思えねえ」
そう言ってから、榊は鞄の口金に目を落とした。
「正直、これが正しいのかは分からん。ボスが出たばかりの穴に、ガキを入れるんだからな」
怒られていないと分かるまでに、結人は何度か瞬きをしなければならなかった。
「その代わり、死なねえやり方を教える。黙って聞け」
榊は鞄から物を取り出して、二人の間の地面に並べ始めた。傷だらけの小さな懐中電灯と巻いた包帯、白い石灰の塊、それに紐の付いた銀色の笛だった。
「入る前に、帰り道を決めとけ。帰れなくなった奴はどんなに強くても死ぬ。怖いと思ったら、それは正しい。怖くねえって笑ってた奴ほど、帰ってこなかった」
榊は石灰の塊を指で弾いてから、並べた物を眺めて、困ったように頭を掻いた。
「水も要るな。水筒は‥今度、俺のを」
「あ‥あるよ。水筒なら」
結人は目を閉じてインベントリの枠を開き、革の水筒を手の中に呼び出した。ついでに、黒い石と鉄の板を紐で束ねた物も出して、地面に置く。
榊の顔色が変わり、太い指が水筒を取り上げた。栓を抜いて匂いを嗅ぎ、縫い目を親指でなぞる。それから火打ち石の鉄の板を石に当てて、一度だけ鋭く打ち合わせた。昼の光の中でも分かるほど、太い火花が散った。
「いい物持ってるじゃねえか。縫いがまるで違う。こっちの石も上物だ。こんなもん、どこで?」
言いかけた口を、榊は閉じた。結人の手が、抱えた脚の上で強張っている。
「いや、いい。言いたくなきゃ言うな」
結人は迷ってから、つまみの付いた丸くて平たい鉄の板を、もう一つだけ取り出した。
「これも、ある」
榊は鍋の蓋を手に取って裏返し、黙って見つめた。
「それは知らん」
結人が思わず噴き出すと、榊も髭の生えた口元を歪めて、喉の奥で笑った。
笑いが収まると、榊は銀色の笛の紐を指に掛けて、結人の方へ差し出した。
「最後にこれだ。中ではぐれたら吹け。どこに居ても、走って行く」
結人は受け取ろうとして、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「でも、それ榊さんのでしょ。いいよ、僕、ちゃんと一人でできるから」
「結人」
名前を呼ばれただけで、結人の肩が跳ねた。
「困ったら俺を頼れ。ガキが大人の顔色なんか窺ってんじゃねえ。遠慮すんな」
結人は、いつものように笑おうとした。
大人に何か言われたら、笑って頷けば、叱られないし面倒がられない。ずっとそうしてきたのに、今は口の端が持ち上がらなかった。代わりに鼻の奥が熱くなって、目の前の笛の銀色が滲んでいく。
結人は両手を伸ばして、笛を受け取った。
「‥うん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
榊は鞄の留め金を掛け直すと、何でもない顔で立ち上がった。
「潜るのは、俺の討伐の晩だけだ。今夜がそうだ。討伐の間は、警報を切ってある。消灯の後、塀の扉まで来い。十時半には帰す。俺の居ない晩に塀を越えたら、それで終わりだからな」
* * *
消灯から一時間待って、結人は布団の中で変身した。
窓から塀の外の通路へ降り、塀に沿って扉の前まで走ると、鉄の扉は細く開いていた。左腕の円盾は、ボスに噛み割られた縁まで、元の形に戻っている。
扉の内側で、榊は柄の長い手斧を肩に担いで待っていた。足元には、ゆうべの魔法瓶が置いてある。
「行くぞ。中じゃお前が前だ。俺は後ろから見てる」
裂け目をくぐった途端、外で引きかけていた熱が、手足の先まで一息に戻ってきた。苔の青白い光の中で、榊は最初の曲がり角の岩に、石灰で短い線を一本引く。
「帰り道だ。お前も引け」
結人は石灰の欠片を受け取って、榊の線の隣に、曲がった不格好な線を引いた。
三つ目の大きな岩を回り込んだ時、リーゼの耳が音を拾った。
岩を掻く音は、一つではなかった。右の岩陰から二つと天井の暗がりから一つ、正面の岩の割れ目からは、さらにいくつも。苔の光の縁に灯った赤い点は、数えるうちに十になった。その中に一つだけ、ほかより高い位置で光る目がある。
「多いな。どうする?」
試すようでも、急かすようでもない声だった。怖い。それでも、昼に聞いた榊の声を思い出すと、足は前へ出た。
「行くよ!」
答えると同時に、最初の一匹が跳んだ。
結人は盾を斜めに構えて、岩鼠の体当たりを横へ流した。勢いを殺せないまま岩壁へ叩きつけられた岩鼠の首を、返す剣で刎ねる。その時には、もう次の二匹が左右から迫っていた。
左の一匹を盾の縁で殴り上げ、右から来た一匹は剣の腹で地面へ叩き落とす。二匹がもつれて転がる間に、結人は岩壁を蹴っていた。
体が軽かった。リーゼの脚は岩壁を二歩で駆け上がり、天井から飛びかかろうとしていた三匹目の、さらに上を取る。宙で身を捻って落ちながら剣を振り下ろすと、灰色の体が二つに割れて足元へ落ちた。
着地した結人を目がけて、正面の割れ目から四匹がまとめて溢れ出す。
盾を突き出して真正面から受け止めると、腕が肩まで痺れたが、押し負けはしなかった。盾の後ろで深く息を吐き、押し返す力を一気に横へ逃がす。四匹が互いにぶつかって体勢を崩したところへ剣を走らせ、一匹ずつ仕留めていった。
最後の一匹が倒れた時、背中の産毛が逆立った。
真後ろの崩れた岩の陰から、一匹が結人の首筋めがけて跳んでいた。振り向くより早く、牙が迫る。間に合わない。
風が、結人の頬を掠めた。
回転しながら飛んできた手斧が宙の岩鼠を捉え、そのまま岩壁へ縫い止めた。重い音が洞窟に響き、壁に刺さった手斧の柄が、まだ細かく震えている。
振り返ると、榊は投げ終えた腕を下ろしたところだった。最初に立っていた場所から、一歩も動いていない。
「一人だったら、今ので終わってたぞ」
暴れる心臓を胸の上から押さえて、結人は頷いた。怖かったのに、なぜか笑いたいような気持ちが込み上げてくる。
割れ目の奥の暗がりから、残っていた高い目が這い出してきた。
一回り大きな岩鼠だった。背中の岩の板は分厚く、苔の光を鈍く撥ね返している。結人が斬りつけた剣は、その背中で甲高く弾かれた。腕に痺れが走る。
岩鼠が地面を蹴った。盾で受けた体当たりがリーゼの体ごと結人を跳ね飛ばし、背中から地面に叩きつける。息が詰まった。
仰向けの視界いっぱいに灰色の巨体が覆いかぶさり、開いた顎が喉へ落ちる。結人は咄嗟に盾を顔の前へ押し上げた。牙が盾の縁に食い込み、木の軋む音が耳元で鳴る。重い。盾ごと、腕が押し込まれていく。
「結人!」
榊の声がした。けれど、榊の手斧はまだ壁に刺さったままだ。
硬い背中は、剣では通らない。あの夜、初めて変身した時もそうだった。だったら、と結人は歯を食いしばる。
胸の真ん中の火を、右腕へ叩き込んだ。
刃の根元から切っ先までが一息に燃え上がり、暗い洞窟が赤く染まる。結人は盾の下から、岩の板に覆われていない柔らかな腹へ、燃える剣を突き上げた。
炎が、巨体の内側から噴き上がった。
甲高い悲鳴が洞窟に響き、盾にかかっていた重みが消える。転がり出た結人が跳ね起きるのと同時に、火に包まれた岩鼠が横倒しに崩れ落ちた。熱風が洞窟を吹き抜け、榊の作業着の裾をはためかせる。
炎が細くなって消えると、洞窟には苔の光と、二人の息遣いだけが残った。
榊は壁から手斧を引き抜き、刃に付いた毛を払ってから、焼け焦げた岩鼠と結人を見比べた。
「速えな」
そう言ってから、榊は漂う焦げ臭い煙を手で払った。
「火の魔法は、ほどほどにしとけ。記録を書くのは俺なんだ」
苔の光の中に浮かんだ榊の目は、言葉とは裏腹に、珍しく丸くなっていた。
* * *
鷹野に教わった通りに魔石を抜き終えた時、結人は手を止めた。
洞窟の奥から、冷たい空気が流れ出していた。鼻の奥を、鉄臭さが刺す。ゆうべ塀の上で嗅いだ時より、ずっと濃い。
「榊さん。奥から、あの匂いがする」
榊は答えずに、洞窟の奥の暗がりへ懐中電灯を向けた。光は岩壁に吸い込まれるだけで、何も照らさない。それでも榊は、長いことその暗がりを見つめていた。
ずっと奥の暗がりで、岩を擦るような音がした。榊の手が、手斧の柄を握り直す。音は、それきり聞こえなかった。
「多すぎたんだ、今夜は。夕方に一回りしてるのに、あの数は」
呟いてから、榊は腕の時計に目を落とした。
「十時半だ。帰るぞ」
「え‥でも奥は」
「奥は、俺と一緒の時だけだ。一人では絶対に行くな。まだ行ける、って時に帰るのが、一番いいんだ。覚えとけ」
唇を尖らせてから結人は頷いた。
帰り道の曲がり角には、真っ直ぐな線と曲がった線が、二本並んで残っている。結人はその前を通る時、籠手の指で、自分の線の端をなぞった。
塀の扉の内側で、榊は魔法瓶の蓋に、甘い匂いの湯気が立つものを注いで差し出した。
「ココアだ。時間がねえんだろ。一口でいい」
リーゼの舌には熱すぎたが、結人は息を吹きかけて一口だけ飲み、蓋を返した。外に居られる時間は、もう残り少ない。
結人が差し出した魔石の山から、榊は三つだけを摘まんで、作業着の胸ポケットに移した。
「俺の分だ。担当の成果が一匹もなきゃ、上に怪しまれる。残りは全部、お前のだ」
結人は残りの魔石をインベントリに仕舞い、塀の上へ跳んだ。
* * *
布団に潜り込んで熱が途切れると、結人はインベントリから銀色の笛を取り出した。
生身の六歳の手で握ると、笛は昼よりもずっと重く感じられた。鼻の奥には、まだあの鉄臭さが残っている。
結人は笛の紐を指に巻きつけて、目を閉じた。握っているうちに、銀色の笛は掌の温度で温かくなっていった。




