第20話 魔石
施設の食堂の戸口で、榊が身を屈めて頭を下げた。
「朝早くにすみません。隣の管理地の件で書類をお持ちしました」
大河が施設を出されてから、十日が過ぎていた。朝食の席では結人の向かいの椅子が一つ空いている。誰もその椅子を詰めようとしないまま朝食は進んでいた。
院長が戸口へ出ていくと、榊はネルシャツの胸ポケットから折り畳んだ紙を何枚も取り出した。榊はいつもの格好だったが、食堂の奥まで届く声はいつになく硬かった。
「今週から隣のダンジョンの管理を締め直すことになりました。昼のあいだは管理事務所に人が入ります。感知器も点検し直して、前より細かく記録が取れるようにしました。それから明日の水曜から、月水金と土曜の夕方から夜にかけて、担当の私が中の魔物を間引きます」
「間引く、ですか?」
「定期討伐です。ああいう物が二度と育たないように」
院長は書類に目を落としたまま、困ったように眼鏡を押し上げた。
「夜も中に入られるんですか。子供たちが怖がらないといいんですけど」
「討伐の時間は警報を切ってあります。音で起こすようなことはしません。それ以外の時間は、前よりずっと敏感になってますから、何かあれば直ぐに分かります」
榊の目が院長の肩越しに食堂の中を一巡りして、入口に近い席で止まった。
結人はトーストを持ったまま、榊を見返す。前髪の奥で、自然と笑顔を浮かべた。
* * *
院長が判子を取りに奥へ引っ込むと榊は戸口の柱に寄りかかり、手招きもせずに待った。結人が椅子を降りて近づくと、二歩手前で片手を上げる。それ以上は寄らなくていいという合図だった。
「熱は、もういいのか?」
「うん。三日で下がったよ」
「そうか、良かったな」
榊は首の後ろを掻いて、声を落とした。
「奥のあの広い所な。昨日、管理事務所の連中と一緒に端から端まで見てきた。もう何も居ない。岩鼠が何匹か、隙間道の手前をうろついてただけだ」
結人は返事をしなかった。陽向の泣き声が、あの空洞の壁にこもって響いていたのを思い出す。榊はその沈黙を、怖がっていると受け取ったらしい。
「心配すんな。俺が週に何度も入る。次にあんなのが育つ前に、片っ端から潰しとく」
それから榊は、結人の目を真っ直ぐに見て付け加えた。
「お前は入るなよ?夜中に誰かが入れば、感知器の記録を見ただけで分かる。そうなったら俺でも庇いきれない」
「‥うん」
頷いた結人の顔を、榊はしばらく黙って見ていた。院長の足音が廊下を戻ってきて、榊は柱から背中を離した。
* * *
その夜、部屋の寝息が揃うのを待ってから、結人は掛け布団を頭まで被った。
大河の布団があった場所は、もう畳が剥き出しになっている。翔は壁の方を向いて丸くなり、年下の男の子は寝言で誰かの名前を呼んでいた。ドアの横を窺うことも、この部屋ではもうない。
目を閉じると、瞼の裏に濃い紺色の画面が開いた。
一番上の枠に、見慣れた一覧が浮かんでいる。
【名前】 神楽 結人
【レベル】1
【スキル】 ステラヒーロー
病院のベッドで初めてこの画面を見た夜から、レベルの数字は一度も動いていなかった。
「ずっとレベル1のままだ‥どうやったらレベルって上がるんだろう‥‥?」
灰狼の群れも、二つのボスも、リーゼの剣で倒してきたはずだ。結人は首をかしげてみたが、画面はそれについて何も答えない。
インベントリの枠を開くと、見慣れた物が並んでいた。直ったスマートフォン、盾の鍵飾り、榊の電話番号を書いた紙、導きのランタン。石ころと雑草も、まだ捨てずに取ってある。
その中に魔石が二つあった。
一つは、第二層の奥で鷹野と一緒に倒した灰狼のボスの石だ。深い緑の光を宿していて、ほかの灰狼の石よりずっと大きい。もう一つは、熱を出して寝ていた日に榊から渡された、握り拳ほどの黒ずんだ石だった。濁った灰色の奥に、白い筋が幾本も走っている。
灰狼のボスの石を売れば、リーゼの名前で大きな石を出したことになり、窓口でまた宮原に何か聞かれる。白い筋の入った石は、売ることも人に見せることもできない。ギルドには、割れて使い物にならなかったと榊が報告しているからだ。
入院していた頃は、スマートフォンの修理代のために、売れる石は窓口で売った。スマートフォンはもう直っている。
ガチャが引ける。
結人は星空の召喚画面を開き、インベントリの二つの石を選んだ。画面の下に、確認の枠が浮かび上がる。
『保有魔素:355』 『この魔石を召喚に使用しますか?』
数字の意味は、横に添えられた小さな説明で分かった。単発の召喚には魔素が百要り、十回まとめて引く十連には千が要る。
「これで三回なら引けそう」
指を折って数えてから、結人は布団の中で唇を引き結んだ。十回には全然足りない。それでも、三回だ。自分の手で倒した魔物の石で、自分のために引く三回だった。
確認の枠で『はい』を選ぶと、二つの石の重みがインベントリから消えた。
* * *
灰色だった『召喚』のボタンが、光を強めては弱めていた。
病院の個室で、魔石が要ると知ってから、このボタンが光るのを見たのは初めてだった。結人は掛け布団の中で親指を立てた。現実の指を動かさなくてもいいと分かっていても、ステラヒーローを遊んできた指は、そうしないと落ち着かない。
息を止めて、ボタンをタップした。
星空の中央に、金色の細い線で組まれた天球儀が浮かび上がる。幾重にも重なった輪が、それぞれ違う向きに回り始めた。低く唸る駆動音が、輪の速さに合わせて音程を上げていく。
夜空の一点が瞬き、星が一つ、尾を引いて落ち始めた。
尾の色は青だ。★3の色。
青い星が天球儀の中心へ吸い込まれるまで、結人は目を離さなかった。落ちきるまでは、昇格の目が残っている。星は青のまま着地し、輪が弾けるように開いて、光の柱が立ち上がった。
柱の中から、裏面に星座模様を刻んだカードがせり上がってくる。模様が一回転して表を返すと、青みがかった銀色の枠の中に、革の袋のような物が一つ描かれていた。台座の星が三つ、順に灯る。
『★3 革の水筒』 『効果:中に入れた水が温まりにくい』 『長い旅の始まりに、一つ』
カードが縮んでインベントリの空いた枠に収まると、結人は枠の絵に意識を重ねた。掛け布団の中に、冷たい重みが転がり出る。
使い込まれて黒ずんだ、平たい革の水筒だった。栓の木の部分に、誰かが噛んだような小さな歯形が残っている。肩に掛ける紐は一度切れて、結び直してあった。
「‥誰のだったんだろう?」
ランタンの持ち手にも、こんなふうに指の形のへこみがあった。どれも、知らない誰かが長い間使ってきた物の重さがする。結人は水筒の紐を手首に巻きつけてから、二回目のボタンをタップした。
二回目も青い星が落ちた。
カードには、黒い石と鉄の小さな板を紐で一つに束ねた物が描かれている。
『★3 火打ち石』 『効果:打ち合わせると火花が散る』 『濡れても、よく火が点く』
結人は布団の中で、思わず笑った。リーゼの剣なら、火打ち石を打ち合わせなくても燃え上がる。笑いながらも、カードの説明を何度も読み返してから、インベントリに仕舞った。
三回目のボタンをタップする前に結人は一度、目を開けた。
暗い部屋に、翔の寝息と年下の子の小さな寝言が聞こえる。耳を澄ませても、廊下を近づいてくる足音はない。
もう一度目を閉じて、結人は最後のボタンをタップした。
天球儀の輪が回る。駆動音が高まる。夜空の一点が瞬いて星が落ち始める。
「金‥金‥」
布団の中で、声に出さずに唇だけで唱えた。ステラヒーローで無料の一回を引くたびに、心の中で唱えてきた言葉だ。
星の尾は青かった。昇格の揺らぎもないまま、青い光が天球儀の中心へ吸い込まれていく。
カードが表を返した。青みがかった銀色の枠の中に、丸くて平たい鉄の板が描かれている。真ん中に、小さなつまみが一つ付いていた。
『★3 鍋の蓋』 『効果:煮炊きの熱を逃がしにくい』 『盾にするには、小さすぎる』
「盾じゃない‥!」
結人は掛け布団の中で、両足をばたつかせた。慌てて口を押さえても、笑い声が指の間から漏れる。翔の寝息が一瞬止まり、また規則正しく続き始めるのを待ってから、結人は枕に顔を押しつけてもう一度笑った。
水筒と火打ち石と鍋の蓋。三つ並べてみると、まるでどこかの旅人の荷物を、少しずつ分けて貰っているようだった。
召喚画面の隅で、数字が二つ光っていた。
『保有魔素:55』 『通算召喚回数:4』
フレンドガチャで引いた分は、この数に入っていないらしい。四回のうちの一回は、あの夜、割れたスマートフォンの上で引いた初回無料の一回だ。
キャラクターは、出なかった。告知の中で切っ先を向けていた銀髪の剣姫のことは、もう考えていない。ただ、二体目は出るのだろうか、と結人は思う。リーゼの隣の、空いた二つの枠に入る誰かは。
残りの魔素は五十五だった。単発一回分には、四十五足りない。
第一層の岩鼠の石なら、一つで十ほどになる。窓のすぐ向こうの塀の中には、その岩鼠が棲んでいる。榊は、隙間道の手前をうろついていたと言っていた。
結人は目を開けて、天井の染みを見上げた。
入るなよ、と榊は言った。その言葉を思い出すと、手首に巻いた水筒の紐が急に重く感じられる。
けれどもう一つ、結人の頭から離れないことがあった。
あの夜、隙間道の先の空洞に踏み込んだ途端、鼻の奥にまとわりついた鉄臭さだ。第二層の危険地帯で鷹野と足を止めた時と、同じ重さの空気。ボスが燃え尽きた後、陽向を背負って空洞を出る時にも、あの重さは足元に溜まったままだった気がする。
榊はもう何も居ないと言った。けれど榊の鼻はリーゼの鼻ほど利かない。
* * *
一時を過ぎると、施設の廊下から宿直の職員の足音が消えた。
結人は音を立てないように起き上がり、手首の水筒の紐を解いてインベントリに仕舞ってから、窓の鍵を外した。冷えた夜気が流れ込み、カーテンの裾が膨らむ。月の明るい夜で、細い通路の向こうに、塀の上端が白く浮かんでいた。
確かめるだけだ、と結人は自分に言い聞かせた。中には入らない。塀の上から、裂け目の空気を嗅ぐだけなら、感知器にも記録は残らない。
布団に戻って掛け布団を被り直すと、結人は窓の方を見たまま、囁くように言った。
「変身」
胸の真ん中に火が入る。伸びた脚が掛け布団の端からはみ出し、天井が近づいた。リーゼの耳に、翔の寝息がさっきよりずっと大きく届く。結人は布団を抜け出し、窓枠に足を掛けた。
外に居られるのは、ここから十分ほどだ。
窓枠を蹴ると、体は細い通路の上を低く渡り、塀の上端に両足で降りた。コンクリートの縁は、靴底の幅よりもずっと広く感じられる。結人は縁の上にしゃがみ込み、塀の内側の闇へ顔を向けた。
手入れのされていない植え込みの向こうに、岩の塊が黒く盛り上がっている。裂け目の脇の金属の柱では、感知器のランプが緑に点滅していた。点検し直したと榊が言っていたが、外から見ただけでは何も変わっていない。
結人は目を閉じ息を吸った。
湿った土の匂い。枯れ葉の匂い。裂け目から流れ出してくる、ひんやりとした金気の匂い。ここまでは、結人がこの塀の中で最初に嗅いだ空気と変わらない。
もう一度、深く吸う。
金気の匂いの底に、別のものが混じっていた。もっと重く、鼻の奥に薄く貼りつく鉄臭さだ。あの空洞の、重い空気の匂いだった。塀の上では、かすかに鼻をかすめる程度でしかない。それでも、確かにある。
「‥まだ、ある」
声に出した途端、塀の内側で光が灯った。
懐中電灯の白い光の輪が、植え込みの影から真っ直ぐに伸びてくる。輪は塀の縁を這い上がり、しゃがみ込んだ結人のブーツを照らし、オレンジ色の髪の上で止まった。
逃げようとして腰を浮かせた時、光の向こうから低い声がした。
「降りてこい、結人」
懐中電灯を持った大きな影が、植え込みの向こうに立っている。厚手の作業着の上に上着を羽織り、足元の地面には魔法瓶が一つ置いてあった。討伐は、まだ始まっていないはずだった。




