間章 血
月に一度のことなので、針が腕に刺さっても真壁宗一郎はもう顔をしかめなかった。背広の上着は椅子の背に掛け、杖は脇に立て掛けてある。
背の高い女の子が一人、慣れた手つきで宗一郎の腕から血を抜いていく。その横ではそれより小さな子が管を持ち、一番小さな子が綿を持って待っていた。三人とも揃いの白い上っ張りを着て、淡い金色の髪を肩の上で切り揃えている。背丈のほかに見分けのつくところはない。
国が封鎖したダンジョンの奥にあるこの研究所の主に、宗一郎は何年も前から仕えている。老いを止めてもらう約束と引き換えだったが、今夜はそれを終わりにするつもりで来た。
針が抜かれ、腕に綿を当てられたところで扉が開いた。子供たちは血の入った管や道具を手にしたまま部屋の隅へ下がる。
入ってきた女は、白衣の下に紺のワンピースを着ていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、子供たちをそのまま大人にしたような顔をしている。三十前に見えるが宗一郎は女の名前を一度も聞いたことがない。
「こんばんは。曽孫さんが施設を出されたそうですね」
宗一郎の向かいに座った女の言葉遣いは丁寧で、声はいつも穏やかだ。
「今朝、一時保護所へ移されました」
大河を引き取らずにギルドの施設へ入れたのは、宗一郎自身だ。父親を亡くし、母親にも見放された曽孫を、家に置く気はなかった。
宗一郎は綿で押さえた腕を下ろし、椅子の背の上着から紙の束を出した。理事会に回ってきた報告書の写しだった。
「あの施設の隣のダンジョンで、化け物が見つかりました。あなたの頼みを聞くために、あそこには誰も入れないようにしてきた。夜の見回りも止めさせた。そのせいで、奥に化け物が育っていたのです。曽孫は施設の小さな子供を連れ込んで、置き去りにしました。その子は死にかけた」
宗一郎は報告書を机に置いた。
「理事会では、なぜあのダンジョンを放っておいたのかと問い詰める者が出ています。もう私の力では押さえきれない。今夜限りで手を引かせていただきたい。お約束のものを頂いて」
「お約束のもの、ですか」
女は首を傾げた。
「老いを止める方法はまだ出来上がっていません」
「‥‥何ですと」
宗一郎は杖を掴み、椅子から腰を浮かせた。
「何年待ったと思っておられる。曽孫の不始末も、あの施設で起きたことも、全部あなたのために揉み消してきたのですぞ。今さら、出来ていないで済むと――」
声を荒らげても女は表情一つ変えなかった。部屋の隅の子供たちも、こちらを見さえしない。
女は答える代わりに、報告書の束から二枚を抜き出して並べた。
「二か月余り前の夜、あのダンジョンで警報が鳴りました。中で倒れているのが見つかったのは、施設の六歳の男の子。神楽結人」
女の細い指が、一枚目の紙の名前をなぞり、その下の一行で止まった。
「この夜、ダンジョンの中の岩の壁が天井近くまで焼け焦げていたそうですね」
指が二枚目の紙へ移った。
「三日前の夜、化け物が出た時。塀の扉の前で、榊さんという職員を呼んだのも、神楽結人です。そして、奥で拾われた岩の欠片は焦げていた」
女は顔を上げた。
「あのダンジョンに火を吐く魔物は居ません。それなのにあの子が居た夜にだけ、二度とも魔法で何かを燃やした痕跡があります」
宗一郎は、立ち上がりかけたまま動けなかった。報告書は二枚とも自分で目を通したのに、二つの夜を並べて考えたことは一度もない。
女は、そこで初めて机の上に身を乗り出した。
「あの子はダンジョンの中で、何かとても珍しいものを授かったのかもしれません。老いを止める方法は、あの子の血を調べれば見つかるかもしれない」
宗一郎は黙って女の顔を見返し、浮かせていた腰を椅子に戻した。
「覚えていますか。私は前に一度、あの子の血をお願いしました。倉庫で何があったのでしたか」
答えたくはなかった。それでも女は、穏やかな顔のまま宗一郎の言葉を待っている。
「‥‥大河の叔父に当たる孫を、施設の職員として送り込みました。孫はあの子を職員用の倉庫に連れ込んで、押さえつけて血を抜こうとした。あの子が泣き叫んで、早瀬という若い職員に見つかりました」
口に出してみると、自分の声がひどく乾いて聞こえた。
「早瀬は辞めさせ、孫も引き上げさせました。血は、取れなかった」
「ええ。それから、あの子は大人の男を怖がるようになりました。怖がる子は何でも隠します」
女は二枚の紙を重ね、指で軽く叩いた。
「その子が三日前の夜、自分から榊さんを呼びに行きました。大人の男を怖がる子が、です」
宗一郎は、読んだ時から気になっていたことを口にした。
「榊は、化け物を一人で仕留めたことになっています。ですが、あの男は元探索者だ。化け物から魔石を抜くのにしくじって割ったなど、私には信じられません」
「榊さんは、あの子を庇っているのでしょう」
女は、当たり前のことを言うような口ぶりだった。
「榊さんには何もしないでください。あの子が榊さんの傍に居れば、いつか自分から、授かったものを見せてくれます。押さえつけるより、その方がずっと確かです」
女は立ち上がり、背の高い子から管を受け取った。宗一郎の黒ずんだ血が、灯りに透けて揺れている。
「手を引かれるならそれで構いません。その時は、お約束もそこまでです。どうなさいますか?」
宗一郎は直ぐには答えられず、杖を握る自分の手に目を落とした。染みの浮いたこの手は来年にはもっと動かなくなり、再来年には、杖をついても歩けないかもしれない。
「‥‥続けさせていただきます」
「ありがとうございます」
女は嬉しそうに笑った。
「あの子は、春から小学校に上がりますね。どこの学校に通うのか、調べておいてください」
* * *
部屋を出る時、宗一郎は戸口で足を止めて振り返った。
一番小さな子が、宗一郎の血の入った管を壁の棚へ運んでいる。棚には似た管が何十本も並び、一本ずつに名前の札が付いていた。
その子は宗一郎の札の付いた穴に管を差し込むと、隣の空いた穴を指で撫でた。
その穴の札には、「神楽結人」と書いてあった。




