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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第18話 露見

 岩の小山に見えていたものが、空洞の奥の闇から這い出してきた。


 苔の光の縁に現れた姿は、形だけなら岩鼠だった。背中を覆う岩の板は、伏せていれば崩れた岩の山と見分けがつかない。


 けれど、後脚で伸び上がっていた体が前脚を下ろしても、その背はまだリーゼの胸に届く。牛ほどもある胴を、黒く濡れた岩の板が鱗のように覆い、板と板の継ぎ目から灰色の毛がはみ出していた。顎の下まで長く伸びた二本の前歯は、鑿の刃に似た鈍い光を帯びている。


 肌が粟立った。第二層の危険地帯で、灰狼を従えていたあの大きな個体と向き合った時と、同じ感覚がある。鷹野が「ボス」と呼んでいたものが、目の前に居る。


 巨大な岩鼠は鼻先を上下させ、湿った音を立てて空気を嗅いだ。赤い目が、剣を提げたリーゼと、その背後の隙間とを順に捉える。


「出てきちゃ駄目!」


 結人は振り返らずに叫び、陽向の隙間の前に盾を構えて立った。背中の方で、陽向が身を縮める気配がした。


 岩鼠が地面を蹴る。見た目からは想像できない速さで迫った巨体を、結人はリーゼの体が覚えている角度で盾に受け、重さを横へ流そうとした。流しきれなかった分が左腕から肩へ突き抜け、背中が隙間の脇の岩壁に叩きつけられる。肺の空気が押し出されて、視界が一瞬暗くなった。


 歯を食いしばって脇腹へ剣を振り下ろしても、刃は岩の板に弾かれ、腕に痺れが残るばかりで通らない。


 岩鼠は壁際に押しつけた結人ごと、隙間の入り口へ前歯を突き込んできた。結人は咄嗟に盾を掲げる。硬い音が空洞に響き、盾の縁が前歯に噛み割られて、鉄の欠片が飛び散った。砕けた岩の粉が隙間の奥へ降り注ぎ、陽向の悲鳴が上がる。


 火を使わずに勝てる相手ではなかった。このまま斬り合えば、先に崩れるのは盾か、陽向の隠れている岩壁の方だ。


 結人は胸の火を剣を握る右腕へ流し込んだ。


 刃に火が移った瞬間、遠く入口の方で電子音が鳴り出した。あの夜と同じ音が、施設の窓の一つ一つにまで届いているはずだ。結人は割れた盾を構え直し、燃える剣で、隙間に首を突っ込んだ巨体の肩口を斬り上げた。


 炎をまとった刃は、今度は岩の板に深々と食い込む。


 継ぎ目が赤く焼け、岩鼠が甲高い声を上げて跳び退いた。焦げた板の隙間から煙を上げながら、岩鼠は赤い目で結人を睨み据える。


 岩鼠が身を沈めると全身の板が逆立ち、前歯が地面を削った。次の突進はさっきの比ではないだろう。受け止めれば、陽向が背後の岩壁ごと押し潰される。


 『緋走り』を撃てば、帰りの時間は残らないかもしれない。塀を越える前に、元の体に戻ってしまうかもしれない。陽向の目の前で、あるいは誰か知らない大人の前で。


 それでも、ここで撃たなければ帰り道そのものがなくなる。


 結人は割れた盾を下ろし、剣を腰の脇に寝かせた。燃え広がっていた炎が刃の内側へ引き戻され、剣そのものが、炉から出したばかりの鉄の色に変わっていく。


『緋走り』


 巨体が地面を蹴り結人も同時に踏み込む。


 緋色の弧が空洞を横切った一瞬、隙間の奥で目を見開いた陽向の顔が赤く照らし出される。弧は正面から突っ込んでくる岩鼠の額を捉え、岩の板を真ん中から割り裂いて、胴の奥まで一直線に抜けていった。


 突進は結人の数歩手前で崩れ、割れた板の間から火を噴きながら巨体が横倒しになる。地面を削ってようやく止まった後、赤い目が再び灯ることはなかった。


 剣を下ろした途端、帰りの分として取っておいたはずの火が、手のひらで囲えるほどしか残っていないと分かった。手足の先から冷えが這い上がり、剣の重さが倍になった気がする。魔石を取り出している暇など、どこにもない。


 結人は剣を収め、隙間の前にしゃがみ込んだ。


「陽向ちゃん。もう、大丈夫だよ」


 そう言ったつもりだったのに、口からは「陽向! もう大丈夫!」という、リーゼの明るい声が出た。


 隙間の奥の陽向は、燃え尽きていく巨体と、剣を提げた少女とを何度も見比べていた。小さな唇が、やっと言葉を作る。


「‥‥おねえちゃんってヒーロー‥‥?」


 結人は答えられずに、両手を空にして差し出した。


「帰ろう。ここ寒いでしょ?」


 陽向はしばらくその手を見つめてから、恐る恐る指を伸ばしてきた。小さな手が結人の手に触れた瞬間、陽向の顔が歪み、隙間から転がり出るようにして結人の胸にしがみついてくる。


「こわかった‥‥! こわかったよう‥‥! たいがくんが、ライトであのいわをてらしたら、おきたの‥‥。たいがくん、にげちゃって、おっきいの、おいかけてって‥ひなた、ここにかくれて‥‥うごいたら、またくるって、おもって‥‥っ」


「うん。‥‥うん。今は、目をつぶってて」


 泣きじゃくる陽向を背負うと、細い腕が首に回された。結人は空洞を背にして走り出した。


   * * *


 隙間道では陽向を先に押し込み、自分は体を横にして後を追った。洞窟を駆け上がる間も、警報は鳴りやまなかった。


 陽向は結人の首筋に顔を埋めて片方の耳を肩に押しつけ、もう片方を手で塞いで目を固く閉じている。小さな体が強張っているのが、走るたびに背中へ伝わってきた。


 裂け目から外へ出た途端、体の中の何かが大きく揺らいだ。ダンジョンの外の不安定さと、削られた火の残りが、一度に押し寄せる。左腕の割れた盾の革紐が、締めたはずの穴から緩んでいくような感覚があり、地面が足の下で傾いて見えた。


 植え込みを抜けた先で、塀の扉が開け放たれていた。懐中電灯を握った大きな影が、扉の内側へ踏み込んでくる。


「誰だ! 中に誰か居るのか!」


 榊の声だった。上着の下は寝間着のような薄いシャツで、足元はサンダルのままだ。光は、結人の居る木の陰ではなく、裂け目の方へ向けられている。


 結人は木の陰で足を止めていた。


 陽向をここに下ろして闇へ戻れば、まだ間に合うかもしれない。けれど、あの光は真っ直ぐ裂け目へ向かっている。陽向に気づかないまま、この人は一人で洞窟へ入っていくかもしれない。警報の鳴り続ける暗がりに、陽向を置き去りにしたまま。


 あの夜、誰も来なかった暗がりで、結人は一人で泣いた。


 結人は光の方へ歩き出した。


 懐中電灯の光が、顔を真正面から照らす。扉の向こうでは施設の窓に次々と明かりが灯り、二階の端の窓に人影が一つ張りついていた。光がこちらを向いた瞬間、その影は窓から身を引く。


「‥!お前は‥‥」


 榊の光が、オレンジの髪と剣とを上から下までなぞる。結人は答えずに、背中の陽向を差し出した。


「この子をお願い! 怪我はしてないと思うから!」


 榊は懐中電灯を脇に挟み、慌てて陽向を受け取った。陽向は目を閉じたまま、榊の胸に顔を押しつける。その重みが背中から消えた瞬間、結人の体を支えていたものも一緒に抜け落ちていった。


 力が抜けてゆく。


 リーゼの体の輪郭から、淡い光の粒がこぼれ出した。髪の先からも剣の柄からも割れた盾の縁からも、粒は次々と剥がれて夜気の中へ舞い上がっては消えていく。視界が見る間に低くなり、寝間着の袖から細い腕が覗いた。素足の裏に、凍った土の冷たさが突き刺さる。


 榊の脇から、懐中電灯が滑り落ちた。


 地面を転がった光が、結人の素足を照らして止まる。陽向を抱いたまま光の先を見下ろす榊の口が、開いては閉じた。


「嘘だろ‥‥」


「結人なのか‥‥? お前、い、今のは‥‥」


 榊の視線は、結人の顔と、さっきまでオレンジの髪の少女が立っていた空間との間を何度も往復していた。大きな体が、一回り縮んだように見えた。


「あの夜、お前が倒れてた横の‥‥あの焼け跡もお前だったのか‥‥」


 見られた、という言葉だけが、頭の中で鳴り響いた。


 大人の男に、一番知られてはいけない形で、全部見られた。後ずさろうとしても、足が言うことを聞かない。歯の根が合わない。胃の底から吐き気がせり上がり、目の前が端から暗く狭まる。


「ち、ちがっ‥‥」


「言わないで!お願い!誰にも‥言わないでっ!」


 脚が崩れて地面に倒れ込む直前、榊がしゃがみ込み、空いた方の腕で結人の体を受け止めた。


 大人の男の腕だと分かった瞬間、結人の全身が跳ねた。逃げなければ、と体の奥が叫ぶ。けれど、結人を支える榊の腕もまた、結人と同じくらい震えていた。


「‥言わない」


 耳の直ぐ上で、榊が言った。


「誰にも言わない。約束する。だからもう喋るな。疲れてるんだろ?」


 榊は陽向を片腕に抱き直すと、上着の前を開き、結人をその内側へ抱き寄せた。汗の染みた布の温かさが凍えた体を包み、酒の匂いはしなかった。


 施設の裏口の方から、職員たちの声と足音が近づいてくる。榊は何か言おうとして、一度唇を噛んだ。


「いいか?お前は扉の前で俺を呼んだ。それだけだ。中のことは全部俺が引き受ける」


 それだけ言うと、榊は二人を抱えて立ち上がった。結人は榊の肩に額を押しつけたまま、辛うじて頷いた。


 そこから先のことは、もう覚えていない。

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