第17話 身代わり
施設で一番小さい五歳の女の子、陽向は、裏庭の砂場の縁にしゃがみ込み、木の枝で地面に剣の絵を描いていた。
陽向にとって、探索者は絵本の中のヒーローと同じだった。職員が食堂で話してくれる探索者たちは、魔物を倒して宝物を持ち帰り、街を守っている。玄関の靴箱の上のポスターでは、剣を掲げた男の人が笑っている。大人になったら、陽向もああなるつもりだった。
描きかけの剣の先を、スニーカーのつま先が踏んだ。
「へー。上手いじゃん」
顔を上げると、男の子たちの中で一番体の大きい大河が、陽向を見下ろしていた。いつもは陽向のことなど見もしないのに、今日はしゃがんで目の高さを合わせてくる。陽向は嬉しくなって、枝を握ったまま頷いた。
「お前さ、結人が何で入院してたか知ってるか?」
「‥‥せんせいが、ころんだっていってたよ?」
「違えよ。あいつ、隣のダンジョンに入ったんだ」
大河は塀の方を顎で示し、声を落とした。
「ダンジョンに入るとな、スキルが貰えるんだ。ヒーローの力だよ。あいつ、中ですげえの貰ってきたんだぜ。警報が鳴るくらい強いやつ」
陽向の胸が大きく跳ねた。職員の話にも、ダンジョンの裂け目に入った人は誰でも最初の力を貰えるのだと出てくる。
「……ひなたも、けんとかでる?」
「出る出る。結人より、もっとすげえの」
大河は口の端を吊り上げた。
「あいつだけ特別だなんて、思わせとかねえよ」
陽向には、最後の言葉の意味が分からなかった。
「でも、子どもは入っちゃだめって、せんせいが‥」
「俺は何回も入ってるよ。ほら」
大河はその場で軽く跳び、物置の屋根の縁に片手で掴まると、そのまま体を引き上げた。屋根の上に立った大河は、ポスターの探索者と同じくらい高く見えた。
「それにな、奥にはあいつが何か焼いた跡があるんだ。でっけえ溝みたいなやつ。その先には、俺しか知らねえ広い所もある。秘密基地だ。どっちも見せてやるよ。懐中電灯も持ってくから、怖くねえ」
「今夜、みんなが寝たら二階の廊下の突き当たりのトイレに来い。そこの窓から連れてってやる。俺が背負ってってやるから、お前は目をつぶってりゃいい」
屋根から飛び降りてきた大河は、陽向の肩に重たい手を置いた。
「その代わり、誰にも言うなよ。先生にも結人にもだ。言ったら、お前も結人みたいに病院行きだからな」
肩に置かれた手に、ぐっと力が込められた。陽向は枝を握りしめたまま、小さく頷くことしかできなかった。
* * *
その日の夕方から、結人は陽向の様子が気になっていた。
夕飯の間じゅう、陽向は箸を握ったまま落ち着きなく足を揺らし、時々大河の方を盗み見ている。大河の方は陽向を見ない。それなのに、食器を下げる時には陽向の頭の上へ手を置いて、何か短く囁いていくのが見えた。
風呂から上がって廊下を歩いていると、後ろから寝間着の袖を引っ張られた。振り返ると、二階の反対側の端にある小さな女の子たちの部屋から、陽向が抜け出してきている。
「ねえ、ゆいとにいちゃん」
陽向は廊下の左右を窺ってから、内緒話の声で聞いてきた。
「ダンジョンって、こわい?」
結人の足が止まった。
苔の光と、赤い目。暗がりの奥で岩を掻く音。折れた足を引きずって這った、冷たい地面。答えようとして口を開いたが、その先に続く言葉が見つからない。中で何があったのかを話せば、変身のことに触れずにはいられなくなる。
「怖いよ。‥すごく、怖い」
それだけしか言えなかった。
陽向は少し考えるような顔をしてから、「ふうん」と言って、小走りに自分の部屋へ戻っていった。廊下の向こうの洗面所から出てきた大河が、その背中を目で追ってから、結人の方を見て薄く笑う。
消灯の後、結人は眠らずにいようと決めて、暗い天井を睨んでいた。退院したばかりの体は、その決心を待たずに重くなっていった。
* * *
冷たい空気が頬を撫でた。
眠ってしまった、と思った時には、もう跳ね起きていた。窓が外から引き開けられ、月明かりの中に黒い影が転がり込んでくる。昼のうちに、鍵を外しておいたのだろう。大河が畳に手をついて、息を荒らげている。
ドアの横の大河の布団は、いつの間にか空になっていた。向こう側の布団では翔と、同じ部屋の年下の男の子が寝息を立てている。
大河の顔は月明かりの中でも分かるほど白く、靴下は泥で黒く汚れていた。大河は結人に気づくと、弾かれたように窓を閉めて鍵を掛ける。それから泥だらけの靴下をむしり取り、自分の布団の下へ押し込んだ。
一人だった。
夕飯の時の囁き声と、廊下で袖を引いた小さな手が、結人の頭の中で一つにつながった。
「陽向ちゃんは?」
大河の肩が跳ねた。振り向いた顔に、何でお前がそれを、という色がはっきりと浮かぶ。
「知らねえよ」
「陽向ちゃん、一緒だったんでしょ。どこに置いてきたのさっ!」
結人は大河の掛け布団を掴んで、力いっぱい引いた。向こうの布団で、翔の寝息が一瞬途切れる。大河の手が布団の端を掴み返し、乱暴に引き戻した。
「あいつが勝手についてきたんだ。俺は知らねえ。あんなの、前は居なかったし」
あんなの、という言葉が、結人の耳に引っ掛かった。
「何が居たの」
「うるせえ!寝てろ!」
掛け布団の端から、大河の目が覗いた。その目は、まだ結人を睨みつけていた。
「もしチクったら、お前のせいにするからな。お前があいつにダンジョンの話をしたんだろ。そう言やあ、大人はみんなそっちを信じる」
それきり、大河は結人に背中を向けた。
結人は部屋を飛び出し、廊下の反対側の端まで走った。小さな女の子たちの部屋の戸を細く開けると、常夜灯の薄明かりの中に布団が三つ並んでいる。二つには小さな寝顔があり、一番手前の一つだけが、掛け布団をめくったまま空になっていた。
* * *
宿直室まで走れば、大人を起こすことはできる。
けれど職員に事情を飲み込ませてギルドを呼び、誰かが塀の扉の鍵を開けるまでに、どれだけ掛かるだろう。
榊がこの近くに越してきたと職員が話していたが、どこに住んでいるのかまでは知らない。インベントリの枠に番号を書いた紙があっても、施設の電話は鍵の掛かった事務室の中だ。大人はみんなそっちを信じる、と大河は言った。
大河が「あんなの」と呼んだものの居る暗がりに、陽向は今も一人で居る。
廊下の突き当たりのトイレに入ると、洗面台の上の小窓が開け放たれたままになっていた。大人が肩をすぼめれば抜けられるほどの幅がある。窓枠の埃に、小さな手のひらの跡が二つ残っていた。
ここで変身しても、剣に火さえ灯さなければ、あの警報は鳴らない。多分。ただ、誰かが窓から覗けば、オレンジの髪を見るかもしれない。この二か月、必死に守ってきた秘密が、今夜一晩で崩れるかもしれなかった。
あの夜、結人のところには誰も来なかった。
「‥‥僕が、行かなきゃ」
結人は窓枠を掴み、塀の向こうの闇を睨んで、歯の間から押し出すように言った。
「変身」
胸の真ん中に火が入る。洗面台の鏡に、さっきまで映っていなかった顔が映っていた。頭の高い位置で束ねたオレンジ色の髪の下で、琥珀色の目が怒っている。腰には剣の重みが、左腕には盾の革紐の感触があった。
「待ってて。今、行くから」
外に居られるのは、ここから十分ほどだ。小窓の枠に足を掛け、結人は夜の中へ跳んだ。
通路を越え、塀の上端につま先が乗る。あの夜、つま先しか届かなかった縁を、リーゼの脚は易々と踏み越えていく。そのまま内側の闇へ飛び降り、木々の枝を払いながら着地した。
湿って冷たい土を蹴って、結人は迷わず走り出す。手入れのされていない植え込みを抜けた先に、岩の塊が盛り上がっている。折れた足を引きずって這った道のりを、今は数歩で駆け抜ける。裂け目の脇の金属の柱で、感知器の緑のランプが規則正しく点滅していた。
結人は身を屈めて裂け目に入った。
その先は、薄暗くて狭い洞窟だった。両側の岩壁は手を伸ばせば届くほど迫り、天井は低く、ところどころに張りついた苔の青白い光だけが足元の凹凸を浮かび上がらせている。湿った冷気が肌にまとわりつき、鋭くなった鼻に獣の脂の臭いが届いた。あの晩より、ずっと濃い。
外での時間に追われる心配は、ここでは要らない。ただ、胸の火は使い切れない。陽向を背負って塀を越えるまで、この体を保たなければならない。
洞窟を下り始めると、獣の脂の臭いは一歩ごとに強くなった。
結人は爪痕の刻まれた岩壁を横目に走り、散らばった殻を踏み砕いて、三つ目の大きな岩を回り込んだ。その先で、岩壁を斜めに走る黒い溝が目に入る。天井の近くまで焼け焦げたその跡を、結人は振り返らずに駆け抜けた。ここから先は、結人が入ったことのない奥だ。
焼け溝の先で洞窟はさらに細くなった。両側の岩壁が肩に触れるほど迫り、最後はリーゼの体を横にして、ようやく通り抜けられるほどの岩の隙間道になる。
その出口で結人は足を止めた。
隙間道の出口の周りの岩が、抉られていた。拳ほどの岩の欠片が足元に散らばり、出口の縁には、太い何かが内側から何度も叩きつけられたような深い傷が刻まれている。まだ新しい。削れたばかりの岩肌が、苔の光を白く撥ね返していた。
その先の地面に懐中電灯が一つ転がっていた。施設の宿直室の棚に並んでいる、黄色い懐中電灯だ。電池が弱っているのか、薄い光が岩壁の一点を照らしたまま動かない。
大河はここから逃げたのだ。この細い隙間道に飛び込んで、それきり振り返らずに。そして、それを追ってきた何かは、この出口を抜けられなかった。
懐中電灯はそのままにして、結人は隙間道の向こうへ足を踏み入れた。両手を空けておかなければ、剣も盾も使えない。
踏み込んだ途端、喉の奥に鉄のような味がまとわりついた。
空気が重い。第二層の危険地帯で、鷹野と並んで足を止めた時と同じ重さだった。何かが居る。結人は盾を構え、息を殺して辺りを見回した。
天井の高い空洞だった。苔の光は壁際にしか届かず、真ん中から奥は深い闇に沈んでいる。奥の方には、崩れた岩が小山のように積み重なっているのがぼんやりと見えた。動くものは、何もない。あれは、もっと奥へ行ったのか。
その時、鋭くなった耳が右手の壁際から微かな音を拾った。声を立てまいとして、それでも堪えきれずに漏れる、細い息遣いだった。
壁際の苔の薄明かりの中に、岩と岩の間の細い隙間へ体を押し込んだ小さな影がある。寝間着を着て、擦り傷だらけの膝を抱えて震えているのは、陽向だった。
結人は足音を殺して近づき、隙間の前にしゃがみ込んだ。
「陽向。陽向、大丈夫?」
できるだけ小さな声で呼んだつもりだった。陽向の肩が跳ね、涙で濡れた目が、剣と盾を提げた知らない少女を見上げて凍りつく。
「だ、だれ‥‥? なんで、ひなたの‥なまえ‥‥」
次の瞬間、陽向は悲鳴を上げて、隙間の奥へ体を押し込もうとした。小さな素足が岩を蹴り、崩れた小石が乾いた音を立てて転がる。
「待って、怖くないから……!」
空洞の奥で、岩の小山が動いた。
積み重なった岩だと思っていたものが、軋むような音を立てて身を起こしていく。その上の方で、赤い光が二つ灯った。あの夜に見た目と同じ色をしているのに、その高さが違う。二つの赤い点は、リーゼの目線よりもずっと上で、ゆっくりとこちらを向いた。




