第16話 仮面
退院の朝、仁科は結人の荷物を紙袋に詰めながら、何度も手を止めた。
着替えが二組と歯ブラシと施設から届いた上履き。運び込まれた夜には何一つ持っていなかったのだから、紙袋一つに収まって当然だった。直ったスマートフォンは、ゆうべのうちにインベントリの枠へ移してある。その隣の枠には、盾の鍵飾りと榊の電話番号を書いた紙が並んでいた。
「忘れ物はないわね。引き出しも見た?」
「うん、見たよ。二回も」
空になった引き出しを、仁科はそれでも自分で開けて覗き込んだ。引き出しを閉めると結人の前にしゃがみ、上着の一番上のボタンを留める。その指が、襟元で止まった。
「施設に帰っても、窓はちゃんと閉めて寝るのよ」
目尻に皺を寄せて笑っているのに、その目は結人の顔から離れなかった。結人は返事ができずに、ただ頷く。仁科が何をどこまで知っているのかは、最後まで分からなかった。あの朝に留め金を掛け直しながら独り言のように呟いたきり、この人は何一つ尋ねていない。
ドアの外で、医師と話す院長の声がした。
仁科が立ち上がろうとした時、結人はその袖を掴んでいた。指の腹に、カーディガンの毛玉のざらついた感触が残る。
「仁科さん、あのね」
呼んだものの、続きが出てこない。仁科は立ちかけた姿勢のまま、急かさずに待っていてくれた。
「ありがとう。いっぱい、ありがとう!」
仁科の手が、前髪の上から頭を包んだ。夕方の検温のたびに額へ触れた、あの温かい手だ。
「どういたしまして。元気でね、結人くん」
* * *
院長は施設の古い白いワゴン車を運転して来ていた。
後ろの座席に乗った結人は、紙袋を膝に載せて窓に額を寄せた。走り出した車の中から振り返ると、病院の玄関の前で、仁科が小さく手を振っているのが見えた。その上に、三階の窓と、窓の下に突き出した庇がある。
車が角を折れると、門の前の通りが窓の外に開けた。柵の切れ目には探索者が列を作り、新品の装備を着た若い男女が、読み取り機の前で互いの探索者証を見せ合って笑っている。支部の自動扉が開くたびに、誰かが出ていき、誰かが入っていく。
昼の窓口に、宮原の姿があるはずもなかった。
次に来る時は、明るい時間に来なさい。誰かと一緒にね。
その声を思い出しているうちに、門は後ろの窓の方へ流れていった。あの門の向こうの草原で、背の高い影は今も柱の下に立っているのだろうか。結人は首をひねったまま、門の屋根が建物の陰に隠れるまで見送った。
院長は信号で止まるたびに眼鏡を押し上げ、前だけを見ていた。施設までの長い道のりで院長が口にしたのは、一言だけだ。
「元気になって、よかったですね」
「‥‥うん」
それきり、車の中には暖房の唸る音だけが残った。
* * *
二か月ぶりの施設は、何一つ変わっていなかった。
玄関の靴箱の上には、色の褪せた探索者のポスターが貼られたままだ。食堂の方から昼食の出汁の匂いが流れてきて、事務室のブラインドは相変わらず下りている。上の子たちは学校に行っている時間で、年下の子たちは奥の部屋で昼寝をしているのか、建物の中は冬の昼らしく静まり返っていた。
「おかえりなさい」
出迎えた職員の声は、「怪我しないようにね」と言った時と同じ声だった。院長はその職員に、夜の見回りを気に掛けておくようにと短く言い置く。
「そういえば院長先生、ギルドの榊さん、この近くに越してきたそうですよ。何かあった時に、直ぐ来られるようにって」
「そうですか。それは助かりますね」
気のない返事をして、院長は院長室へ入った。結人は紙袋の持ち手を握り直した。扉が閉まると、廊下の奥からワイドショーの笑い声が漏れてくる。
二階へ上がる階段の前で、結人は手すりを握った。
平行棒を歩ききった足でも、階段は別物だった。一段上がるたびに右の足首が鈍く重くなり、踊り場まで来た時には息が上がっている。後ろから職員が「大丈夫?」と声を掛けてきたが、手を貸そうとはしなかった。
「うん、平気だよ」
振り返って笑ってみせると、職員は安心したように頷いた。この足はもう、自分の体を上の階まで運べる。
二階の四人部屋の戸を開けると、天井の雨漏りの染みが、記憶にあるのと同じ形で結人を出迎えた。窓際の布団も、前と同じ場所に畳まれている。
紙袋を下ろして、結人は窓の前に立った。
細い通路を挟んで、高さ四メートルのコンクリートの塀がある。冬の白っぽい日差しを受けて、上端の縁がくっきりと見えた。あの夜、届いたのは右足のつま先だけだった縁だ。
塀は、前と同じ高さのままだった。それなのに、前ほど高くは見えない。
あの縁よりも高い三階の窓から、結人は何度も夜の中へ跳んだ。庇を蹴り、配管を伝い、石の木を三本続けて跳び越えた。どれもリーゼの脚がしたことだと分かっているけれど、跳ぶ時に頬を打つ風の冷たさを覚えているのは、結人自身だ。
* * *
上の子たちが帰ってくるまでには、まだ一時間ほどあった。
結人は上着を羽織って裏庭へ出た。職員用の倉庫の前を早足で通り過ぎ、物置と塀の間の狭い隙間に腰を下ろす。施設の中で誰の目も届かない場所は、二か月が経っても、ここしかない。
インベントリからスマートフォンを取り出すと、ひびのない画面に冬の薄い空が映り込んだ。施設のWi-Fiに繋ぐと、華やかなタイトルロゴが浮かび上がる。最後にここでこの画面を見た日には、直後に足元へ大河たちの影が差したのだ。
召喚のボタンが、光を強めては弱めている。親指がボタンをタップしかけた時、板壁の向こうで砂利を踏む音がした。
結人は画面を消すより早く、スマートフォンをインベントリへ戻した。手の中から重みが消える。
「結人くん? 何してるのそんなところで。寒いでしょ?」
物置の陰を覗き込んだ職員は、空っぽの両手と結人の顔を見比べると、それだけ言って引き返していった。
砂利を踏む音が聞こえなくなると、結人は胸に溜めていた息を吐いた。それから、何も持っていない両手を見下ろして、こっそり笑う。
「えへへ‥‥」
* * *
学校から子供たちが帰ってくると、施設は一気に騒がしくなった。
夕飯の食堂で、大河は結人の方を一度も見なかった。翔が身を乗り出して何か耳打ちしても、大河は肩をすくめるだけで、黙って箸を動かし続けている。同じ部屋の年下の子だけが、隣の席から結人の足を覗き込んできた。
「足はもう治ったの?」
「うん」
年下の子はそれで満足したように、自分の皿へ戻っていった。二か月という時間は、施設の中で一人分の空席を埋めてしまうには十分な長さだったらしい。
夕飯の後、結人は手すりを頼りに階段を上った。
踊り場の手前まで来た時、上から足音が下りてきた。顔を上げると、大河が踊り場に立って、上から結人を見下ろしている。翔も蓮も居ない。階段の下からは、食堂のテレビの音が遠く聞こえてくるだけだった。
大河は踊り場の壁に背中を預けた。
「よう。あの時、見てたぜ?」
低い声だった。笑ってはいない。探るような目が、結人の顔から動かない。
窓を閉めた時のことを言っているのだと思った。内側の闇へ落ちていく結人を見下ろして、そのまま窓を閉めた夜のことを。けれど、大河の言葉には続きがあった。
「お前が落ちた後、塀の向こうで警報が鳴ってたよな。俺が入る時は、一回も鳴ったことねえのに」
大河は一段下りて、顔を近づけてきた。
「お前、何のスキル貰った?」
結人の背中が冷たくなった。大河も、あの塀の内側でスキルを貰った一人だ。入口をくぐった者が何かを得ることも、警報が何に反応して鳴るのかも、大河は施設の誰よりもよく知っている。
前の結人なら、ここで笑っていた。体が先に強張り、口の端だけが勝手に持ち上がって、早く終わってくれと祈りながら。笑っていれば、ただの遊びで済むと信じていた頃の笑い方だ。
結人は手すりから手を離し、大河を真っ直ぐに見上げた。
それから、笑った。
口の端を上げ、目を細める。形だけならいつもの笑顔と変わらない。けれど今度は体のどこも強張っていなかったし、目も逸らさなかった。草原の柱も、窓口の声も、握り拳ほどの石の重みも、この顔の裏に仕舞ってある。
「絶対に教えない」
大河の目が、すっと細くなった。
「てめぇ‥‥調子乗んなよ」
吐き捨てるように言うと、大河は壁から背中を離し、すれ違いざまに結人の肩へ自分の肩をぶつけていった。手すりを掴み直していなければ、段を踏み外していたかもしれない。階段を下りていく足音が、食堂のテレビの音の中へ遠ざかる。
結人は踊り場に一人で残り、手すりを握り直した。手のひらが汗でじっとりと湿っている。それでも、足は一歩も退いていなかった。
* * *
消灯から一時間が過ぎて、部屋の寝息がようやく揃った。
ドアの横の布団で、大河が寝返りを打つ。年下の子の小さないびきと翔の歯ぎしりが、暗がりの中で交互に聞こえていた。
結人は掛け布団の中で、インベントリの枠の一つに意識を向けた。手のひらに小さな重みが現れる。鉄の縁取りの、丸い盾の鍵飾りだ。冷たかった鉄の縁が、握っているうちに手の熱を移していく。その隣の枠には、榊の番号を書いた紙がある。施設の電話は、ブラインドの下りた事務室の中だ。
しばらくそうしてから、結人は音を立てないように起き上がった。窓の鍵を外し、指が二本入るほどだけ窓を開ける。冷えた夜気が流れ込み、カーテンの裾が膨らんだ。
月明かりの中で、塀の上端が白く浮かんでいる。その向こうの闇の底には、結人が初めて声を上げて泣いた裂け目がある。
跳ぼうとは思わなかった。跳ばなければ取り返せないものは、もう塀の向こうにはない。宝物は、誰の手も届かないところに仕舞ってある。
それに、ここでリーゼになって塀を越えれば、あの夜と同じことが起きるかもしれない。剣に初めて炎が灯った途端、洞窟中に鳴り響いた電子音を、結人は今も耳の奥で覚えている。
あの夜、この窓は大河の手で閉められた。結人を塀の内側に置き去りにしたまま、乾いた音を立てて。
結人は窓枠に手を掛け、窓を閉めた。鍵の金具が、指の下でカチ、と小さく噛み合う。
布団に戻ると、ドアの側で布団の擦れる音がした。結人は振り返らずに、鍵飾りを握り直して目を閉じた。
手の中の小さな盾は、もうすっかり温まっていた。




