第15話 約束
平行棒の端から端まで、結人は一度も手を離さずに歩ききった。
「歩けた! ねえ、見てた? 最後まで歩けたっ!」
振り返って叫ぶと、付き添っていた療法士が駆け寄ってきて、結人の前にしゃがみ込んだ。目の高さを合わせたその顔は、今にも泣き出しそうなくらいくしゃくしゃになっている。
「見てた! ちゃんと見てたよ、結人くん! 二週間前は四歩だったのに、毎日もう一回、もう一回って言って、一度も途中でやめなかったもんね。すごいよ。本当に、本当によく頑張ったね!」
療法士は棒を握ったままの結人の手を両手で包み込み、自分のことのように何度も上下に振った。目の縁は赤く滲んでいるのに、弾んだ声は止まらない。リハビリ室に居たほかの患者たちまで振り返って、小さな拍手を送ってくれた。
褒められた足は、今もふらつきながら体を支えてくれている。窓から差し込む冬の日差しの中で、結人は照れくささを誤魔化そうと、棒を握ったまま何度もその場で足踏みを繰り返した。
午後の回診で、医師はレントゲンの写真をいつもより長く眺めていた。
「骨のつき方が、随分綺麗だね。六歳の子でも、普通はもっと掛かるんだけど」
首を傾げながらカルテに書き込み、医師は顔を上げる。
「予定通り、明日の午前中に退院で大丈夫。この二週間は夜歩きもなかったから、今夜の見回りは前と同じ二時間おきに戻しましょう」
ベッドの足元で、仁科が「よかったわね」と笑った。それから窓の方へちらりと目をやり、留め金がきちんと掛かっているのを確かめてから、医師の後について出ていく。
夕方の検温に来た時、仁科の指が結人の前髪を軽く払っていった。
「最後の夜くらい、ぐっすり眠りなさいね」
その手の温かさに、結人は返事の代わりに小さく頷いた。
* * *
一時の巡回の足音が廊下の角へ消えると、結人は掛け布団の中で目を開けた。
夕方に仁科が触れた前髪に、そっと手を当てる。唇を引き結び、結人は一つ息を吐いてから低く言った。
「変身」
草原の柱の下には、もう鷹野が来ていた。いつもより念入りに槍の穂先を布で拭い、腰には灯りと、見慣れない小さな革の袋を下げている。結人は癖で『FP』の欄に意識を向けかけて、やめた。
「第二層の奥にボスが一体だ。灰狼を何頭か連れてる。ギルドから討伐の依頼が出てる」
鷹野は岩壁の方を顎で示し、低い声で続ける。
「取り巻きを連れてる頭は、まだ育ちきってない。一体だけになる前に叩く」
「それを、二人で倒すの?」
「お前が盾で受けて俺が刺す。いつもと同じだ」
鷹野はそこで言葉を切り、結人の方を見ないまま付け足した。
「危なくなったら、直ぐに退く。今夜は、それだけ守れ」
岩壁の裂け目をくぐると、肌を撫でる空気の質が変わる。裂け目の脇の平らな岩の上では、見知らぬ探索者の組が灯りを囲み、小さな鍋で湯を沸かしている。裂け目の周りには魔物が寄りつかないのだと、前に鷹野が教えてくれた。長い坂を下りきって湯気の匂いから離れると、石の森の冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。
結人がランタンを灯すと、蜂蜜色の光が、葉のない灰色の木々を奥へ奥へと照らし出す。腕時計に目を落とすと、光る数字は一時二十分を示していた。
* * *
蒼井たちを助けた窪地を過ぎると、石の木々がまばらになり、足元の土が黒く湿り始めた。空気が重く、喉の奥に鉄のような味がまとわりつく。
「ここから先が危険地帯だ。魔素が偏りやすい。好んで近づく奴は、まず居ない」
鷹野の短い説明を聞かなくても、ここだけ何かが濃いのは体で分かった。
鷹野が不意に槍を横にして、止まれの合図を出した。
開けた場所の真ん中に、それが居る。
灰狼には違いないが、結人がこれまでに見たどの灰狼とも違った。肩の高さが鷹野の胸ほどもあり、灰色の毛並みは光を吸い込むように黒ずんでいる。背中の毛だけが、ランタンの光を受けて白く浮かんでいる。その足元に、一回り小さな灰狼が三頭、腹ばいに伏せていた。
大きな頭がこちらを向く。緑の目がほかの灰狼より一段深い色で燃えていた。
鷹野の石突きが鳴ると同時に、結人はランタンを仕舞って盾を構えた。
三頭が同時に地面を蹴る。
一頭目を盾で受け流し、二頭目の牙を剣の腹で弾く。その隙に、鷹野の槍が三頭目の喉を貫く。この数週間で何十回と重ねてきた、二人の動きだった。合図がなくても、鷹野がどこへ槍を出すのかが、結人にはもう分かる。二頭目を追って踏み込むうちに、結人は鷹野から数歩離れた木の陰まで来ていた。
残りの二頭を仕留めるまでの間、ボスは一歩も動かなかった。伏せたまま、緑の目でこちらをじっと見据えているだけだ。
最後の一頭が崩れた瞬間、黒ずんだ巨体が地面を蹴った。
速い。結人の脇をすり抜けていった巨体が狙ったのは、鷹野だった。槍の柄で牙を受け止めた鷹野の体が、そのまま後ろへ押し倒される。石の木の根元に背中を打ちつけた拍子に、槍が手から弾き飛ばされた。
「鷹野っ!」
初めて、その名前を叫んでいた。
巨体が鷹野の上にのしかかり、太い前脚で胸を押さえつける。鷹野は両腕で顎を押し返しているが、牙はじりじりと喉元へ近づいていた。
数歩の距離が遠い。駆け寄って盾を叩きつけるより先に牙が届く。
けれど、刃の先へ伸びて走るあの炎なら、この距離でも届く。
頼るためではない、と結人は思った。ここに居るのは鷹野と自分だけで、この炎は鷹野を助けるためだけに使う。
剣を握る右手に結人は胸の火を呼び寄せた。いつもならなだれ込んでくる熱を今夜は糸のように細く絞る。鷹野の肩には指一本分も触れさせず、のしかかった巨体の脇腹だけを狙う。
『緋走り』
結人は一歩横へ踏み出し、その場から下へ構えた剣を斜め上へ振り抜いた。
刃の先から伸びた緋色の三日月が、鷹野の肩の上を紙一重で掠め、黒ずんだ脇腹を下から捉える。毛並みが一息に燃え上がり、巨体は悲鳴を上げて鷹野の上から跳ね退いた。炎の刃はそのまま梢の上の暗がりへ抜け、何も焼かずに消えていく。
狙ったところだけを焼けた。
その代わりに、胸の火がごっそりと削り取られていた。細く絞っても、技が食う熱の量は変わらないらしい。この体で居られる時間がまとめて削られたことが、リーゼの体を通して分かる。
それでも、ボスは焼け焦げた体で立ち上がり、今度は結人へ向かってくる。
結人は盾を構え、その突進を正面から受け止めた。肩から腕が抜けそうな衝撃に足が地面を滑っても、一歩も退かない。リーゼの体が教えてくれた踏ん張り方が、両足に根を張っている。
受け止めた牙の向こうで、巨体の首筋ががら空きになった。
横から伸びた槍が、そこを深々と貫く。いつの間にか槍を拾い直した鷹野が、低く身を屈めたまま柄を握っていた。
巨体は大きく身を震わせ、それきり動かなくなった。
* * *
鷹野はまず、ナイフでボスの牙を一本切り取り、腰の革の袋に入れた。
「討伐の証だ。報告は俺がする。どう倒したかまでは、書く欄がない」
それから胸を開くと、握り拳ほどもある魔石が現れる。石を抜かれた巨体は、見る間に黒い砂になって崩れる。灰狼の石とは比べものにならないほど深い緑が、魔石の内側で渦を巻いていた。
鷹野はその石を拾い上げ、結人の方へ差し出す。
「お前の取り分だ」
「えっ、でも依頼は鷹野のでしょ? とどめを刺したのも鷹野なのに」
「受け止めたのはお前だ。俺一人なら喉をやられてた」
鷹野は石を地面には置かず、自分の手のひらに載せたまま待っていた。結人は迷ってから、その手から直接、石を受け取る。鷹野の硬い指に触れても、体は強張らなかった。
帰りの坂を上る間、鷹野は殆ど口を利かず、腕時計の数字はいつの間にか二時半を回っていた。裂け目の脇で湯を沸かしていた組は、もう居なかった。
草原の柱の下まで戻ってきたところで、結人は足を止める。
「鷹野。あたし今夜でしばらく来られない」
鷹野は槍を肩に担いだまま、草原の向こうの門の方へ目をやる。
「そうか」
いつもと同じ返事だった。それなのに、次の言葉がなかなか出てこない。
「あたし、本当は‥‥」
六歳の男の子で、明日には施設に帰る。言いかけた言葉はそこで途切れた。言えば鷹野はきっと何も聞かずに頷くだろう。それが分かっているから、余計に言えなかった。
結人は代わりに、インベントリから九百八十円の懐中電灯を取り出した。
「これあげる。あたしにはもうランタンがあるから」
鷹野は懐中電灯を見下ろして、しばらく黙っている。やがてそれを受け取ると、腰の灯りの隣に提げる。
「安物だな」
「知ってるよ」
結人が笑うと、鷹野の口の端がはっきりと持ち上がった。今度は、それが笑みだと結人にも分かる。
「また潜ろう、リーゼ」
名前を呼ばれたのは初めてで、結人は思わず顔を上げた。
「‥‥また、会える?」
明るいリーゼの声には似合わない、頼りない言葉がこぼれる。鷹野は目を瞬かせてから、真面目な顔で頷く。
「俺は大抵この辺に居る」
たまに、ではなかった。結人は何度も頷きながら、目の縁が熱くなるのを止められなかった。
* * *
門を出た結人は、外に居られる最後の十分を、窓口へ寄るために使う。
夜間窓口のカウンターの向こうで、宮原が顔を上げる。結人の顔を見るなり、何か言いかけた口を閉じた。
「この前言われたこと。ちゃんと考えたよ」
結人はカウンターの縁を両手で握りしめ、言葉を続けた。
「夜中に一人で来るの、やめる。‥‥しばらく来ない」
宮原は結人の顔を見つめていたが、やがてふっと息を吐いて笑った。
「そう。それがいいわ」
宮原は手元の端末に目を落とし、しばらく顔を上げようとしない。それから、いつもの窓口の声で言う。
「次に来る時は明るい時間に来なさい。誰かと一緒にね。待ってるから」
「うん。ありがとう、宮原さん」
* * *
三時の巡回の前に、結人は窓から転がり込んで変身を解いた。光の粒が窓辺に散って消えるのを、結人はしばらく目で追っていた。
足音が去っても結人は眠らず、ベッドの上に座って窓の外を見ていた。門の明かりはいつもと同じように灯っていて、その向こうでは今も、誰かが裂け目をくぐっているのだろう。
スキルの画面を開くと、インベントリの枠に、ボスの魔石が深い緑を湛えて収まっていた。その隣の『FP』の欄の数字も、いつの間にか増えている。
懐中電灯を渡した時、ポイントのことは一度も頭に浮かばなかった。
鷹野の指の硬さが、宮原の窓口の声が、仁科の指の温かさが、順番に浮かんでは消えていった。結人は抱えた両腕に顔を埋めて泣いたが、布団の端を噛んで声を殺す必要はもうどこにもない。
五時の足音が近づくと結人は慌てて布団に潜り、足音が遠ざかるのを待ってから、もう一度窓の外を覗く。
建物の向こうの空の底が、ゆっくりと白み始めている。
あと数時間で、この窓から見える景色は、施設の塀に変わる。それでも、この窓の向こうに誰が待っていてくれるのかを、結人はもう知っていた。




