第14話 流れ星
空のベッドの朝から三晩、結人は窓に手を伸ばさなかった。
目を閉じると、踊り場で抱き寄せてきた仁科の腕の震えが背中に蘇る。それでも四晩目の夜、引き出しの奥の割れたスマートフォンを手に取った時、修理代まではあと少しだということの方が重くなった。結人は一時の巡回をやり過ごし、布団の中で「変身」と唇だけを動かした。
巡回が一時間おきになった今、行き帰りの外での十分を引くと、ダンジョンに居られるのは四十分ほどしかない。草原の柱の下で待っていた鷹野に、結人は先にそれを伝えた。
「しばらくの間は少ししか居られないから。時間が来たら直ぐに帰るね」
「そうか」
それだけだった。代わりに、二人が潜る場所は第二層への坂の下に決まった。群れの縄張りまでは降りず、はぐれた灰狼が一頭か二頭で来るのを待って、合図通りに受けて刺す。
その坂の下で、結人は初めてダンジョンの中でランタンを灯した。
インベントリから取り出して持ち手を握ると、硝子の奥に光が宿り、蜂蜜色の明かりが膨らむように広がる。暗いほど明るくなるという説明は本当だった。懐中電灯なら足元の丸い光の外は真っ暗だった石の森が、木々の幹の模様まで見えるほど遠くまで照らし出される。
隣で鷹野が、腰の灯りを消した。
「そっちのは、安物じゃないな」
鷹野の口の端が、僅かに動いた気がした。
* * *
その夜の外での用事は、スマートフォンを店に預けることに使うと決めていた。探索者証の額は二万円を超えている。代金は受け取る時でいいと、前に眼鏡の男は言っていた。
門の前は、昼間のように混んでいた。
連休に入ってから、夜でも柵の外まで人が溢れている。揃いの新品の装備を着た会社員らしい組や、缶の飲み物を片手に笑い合う大学生たちが、読み取り機の前で列を作っていた。知らない探索者には近づかないのが暗黙の作法だと鷹野に聞いたが、今夜の門の前に、そんな作法を気にしていそうな顔は殆ど見当たらない。
柵を抜けて店へ向かおうとしたところで、前に人が立ちはだかった。
「なあちょっと。あんたじゃない? 石の森を焼いたオレンジの髪の子」
二十代くらいの男が三人、真新しい胸当てを鳴らして結人を囲んだ。酒の匂いがする。大人の男の体が三つ、視界を塞いだ途端に、結人の足は地面に縫いつけられたように動かなくなった。
「うわ、マジで美人じゃん。なあ、うちのパーティー入んない? 火の魔法出せるんでしょ?」
一人が手に持ったスマートフォンを、こちらへ向けた。画面の端で、録画の赤い点が光っている。
その赤い点で、結人は我に返った。動画に撮られれば、噂は顔と一緒に、どこまでも流れる。結人は腕を上げて顔を隠し、男たちの間の一番広い隙間を見た。
「人違いだよ。ごめん、あたし急いでるから!」
「いやいや、絶対あんただって。ちょっとだけ――」
伸びてきた手が肩に届く前に、結人は地面を蹴った。男たちの間を抜け、人の流れを縫って走る。背後で何か叫ぶ声がしたが、振り返らなかった。リーゼの脚に追いつける者は、連休の門前のどこにも居ない。
店のカウンターでスマートフォンを預けて外へ出た時には、時計の数字が思っていたより進んでいた。
* * *
小さな電動の鋸がギプスの縁に当たると、甲高い唸りが処置室に響いた。
熱を帯びた刃が石膏を一直線に割っていく。刃は肌に当たらないのだと医師は言ったが、結人はシーツを握ったまま、自分の足首から目を離せなかった。肩の固定帯は先週のうちに外れている。六週間分の汗と消毒液の匂いがこもったギプスが、二つに割れて外された。
出てきたのは、見覚えのない足だった。
「‥これ、僕の足?」
思わず声が出た。白くて細い。ふくらはぎは左足より一回り痩せていて、足首には固定の跡が赤い線になって残っている。夜ごとに石の森を駆けているしなやかな脚と同じ人間のものだとは、とても思えなかった。
「骨はちゃんとくっついてる。今日からリハビリを始めよう。歩けるようになるまで、二週間くらい見ておこうか。それで問題がなければ、退院だ」
「二週間?」
聞き返した声が、思っていたより大きく出た。車椅子の後ろから、仁科が顔を覗き込んでくる。
「そう。あと二週間で、施設に帰れるのよ。よかったわね」
「もっと、ここに居ちゃ駄目?」
口から出てしまってから、結人は慌ててシーツを握り直した。仁科は目を丸くし、それから困ったように笑った。
「あら。ここが気に入っちゃった?」
結人は答えられずに俯いた。仁科は病室に戻ると、窓の留め金にちらりと目をやってから出ていった。結人は膝の上の細い足を見下ろした。施設に帰れば、窓の向こうにあるのは塀と小さな裂け目だけで、夜に門をくぐることはもうできない。
午後のリハビリ室で、結人は平行棒の間に立たされた。両手で棒を握って右足を床につけた途端、足の裏から頭のてっぺんまで鈍い痛みが突き抜ける。三歩進んだところで腕が震え出し、四歩目で、付き添っていた女の理学療法士に抱き留められた。
「最初はみんなこうよ。焦らなくていいからね」
「やだ。もう一回」
結人は療法士の腕から身をよじって、もう一度棒を握った。けれど五歩目を踏み出す前に、足首から力が抜けて体が沈む。悔しさで目の奥が熱くなり、結人は唇を尖らせたまま床を睨んだ。
四歩。昨夜はリーゼの脚で、倒れた石の木を三本まとめて跳び越えたばかりだった。
* * *
その夜、坂の下で灰狼を一頭仕留めた後、結人は柱の下で足を止めた。
「あのさ。あたし、もう直ぐ来られなくなる。二週間くらいで」
鷹野は槍を肩に担いだまま、草原の奥へ目をやった。
「なら、来週だ。第二層の奥まで行く。群れの頭を見たって奴が居る。一回りでかい灰狼だそうだ」
鷹野はそこで言葉を切り、結人の方は見ないまま続けた。
「お前が来るなら、の話だ」
結人は返事をしなかった。できなかった、という方が近い。
灰狼の石は、一つで数千円になる。鷹野は自分の槍で仕留めた分しか拾わず、結人が自分で仕留めた一頭の石は、黙って結人の方へ転がしてくる。門を出て窓口で確かめた探索者証の額は、とうとう三万円を超えていた。
「三万円と、あと少し。引き出したいんだけど」
札を数え始めた宮原の手が、途中で止まった。
「これだけの額、何に使うの」
宮原は結人の顔を見て、声を落とした。
「保護者の方は、知ってるのよね?」
結人は答えずに、カウンターの上の札を見つめた。宮原はしばらく黙っていたが、札を揃え直し、探索者証と一緒に差し出した。
「無駄遣いはしないこと。それと、夜中に一人で来るのはそろそろやめなさい」
受け取った札はずしりと重かった。
* * *
「はい、これ。中の基板は無事だったよ」
次の夜、修理の札の下のカウンターで、眼鏡の男が小さな箱を開けた。
美咲のスマートフォンが、薄い緩衝材の上に収まっていた。細かくひびの走っていた画面は、傷一つない黒い硝子に変わっている。側面のボタンを長く押し込むと白い光が灯り、見覚えのある起動の画面が浮かび上がった。
結人はしばらく、画面から目を離せなかった。
インベントリから出した札を数えて渡す手が、震えてうまく揃わない。男は苦笑して自分で数え直すと、カウンターの端を顎で示した。
「Wi-Fiの設定が消えてるかもしれないから、うちのに繋いでおいたよ。ゲームも見てみな。データ、残ってると思う」
星空の画面が開いた。上部に流れる告知は、知らない新しいキャラクターに変わっている。それでも右下の召喚のボタンは、六週間前と同じ場所で、同じように光を強めては弱めていた。今日の無料召喚が、まだ残っている。
外へ出てから、もう四分が過ぎていた。カウンターに置いた手のひらが、天板の冷たさを遠くに感じ始めている。
結人はボタンをタップした。
金色の線の天球儀が浮かび、輪が回り出す。病室の夜に何度も頭の中でなぞった演出が、今は本物の画面の上で動いていた。夜空の一点が瞬いて落ちてきた星は、青だった。
昇格もせずに着地した光の柱からカードがせり上がり、星座模様が回って表を向く。古びた革の旅人の外套が描かれていた。台座の星が三つ灯る。
「やった!」
外れの青で、★3で、使い道もよく分からない外套だ。それなのに、勝手に肩が揺れて笑いが止まらない。カウンターの向こうで、男が驚いたように眼鏡を押し上げた。
「当たりだった?」
「ううん、外れ! でも、引けたのが嬉しいの!」
結人はスマートフォンをインベントリに仕舞い、出口へ走りかけて、自動扉の脇で足を止めた。
ガチャガチャの機械が二台、前と同じ場所に並んでいる。
札と一緒に引き出しておいた百円玉を三枚、探索者の武器を模した鍵飾りの方の投入口に入れる。取っ手を握って回すと、ガリッ、ガリッと歯車の噛み合う重い手応えが掌に返ってきた。一周したところで、取り出し口に透明なカプセルが転がり落ちる。
しゃがみ込んでカプセルを両手で掲げると、中で銀色の小さなものが光った。蓋をひねって開けると、親指の先ほどの、鉄の縁取りの丸い盾が出てくる。
「盾だ‥! ねえ見て、盾だよ!」
誰に見せるわけでもないのに、結人はそれを明かりにかざした。スマートフォンが壊れる前に、最後に引いた外れも鉄の盾だった。リーゼの左腕にあるのも、丸い盾だ。
ショッピングモールで見た男の子は、こんなふうに笑っていたのだろうか。
自動扉のガラスに映ったオレンジの髪が、どこか遠く見え始めている。結人は鍵飾りとカプセルの殻をインベントリに仕舞い、病院の裏手へ向かって全力で駆け出した。
* * *
翌日の昼過ぎ、結人はベッドの上で、インベントリから出したスマートフォンの画面を眺めていた。
ドアの外で足音が止まると、間を置かずにドアが開いた。人の見ている前で物を消すわけにはいかない。結人は咄嗟に、スマートフォンを枕の下へ押し込んだ。
「榊さんが来てくれたわよ」
いつもの壁際の椅子に、榊は何も言わずに座った。仁科が受け取った紙袋を棚に置こうと背を向けた時、枕の下でスマートフォンが光った。電池が残り少ないことを知らせる表示だった。
枕の端から漏れた白い光の中に、ひびは一本も走っていない。
榊の目が、そこで止まった。
割れたスマートフォンを拾い、この部屋に持ってきたのは榊だ。何を聞かれても、答えられない。結人は息を詰めて、榊の顔を見た。
けれど榊は、何も言わなかった。光が消えるまで枕の端を見ていた目を、ゆっくりと結人の足の方へ移す。
「ギプス、取れたんだってな」
「‥‥うん。まだ、四歩しか歩けない」
「最初はそんなもんだ。俺なんか、二歩で座り込んだ」
「‥二歩?」
四歩より少ない。そう思った途端に、結人の口元が緩んだ。くすっと漏れた笑いを慌てて布団で隠すと、榊は気まずそうに頭を掻いた。
「笑うなよ。大人の体は重いんだ」
榊はそれでも低く笑って、しばらく窓の外を眺めていた。それから立ち上がると、胸のポケットから折り畳んだ紙を出し、仁科に差し出す。
「俺の電話番号です。退院してからでも、何かあったら施設の電話からこいつに掛けさせてください」
仁科から受け取った紙を開くと、太い字で数字が並んでいた。その下に一行だけ、榊大吾と書いてある。
「看護師さんに俺の名前を言いにくけりゃ、それに掛けりゃいい」
戸口で振り返った榊はそう言って、帰っていった。
仁科が出ていくのを待ってから、結人は紙を折り直してインベントリの枠に入れた。直ったスマートフォンと、小さな鉄の盾と、榊の電話番号。数えるほどしかない枠が、少しずつ埋まっていく。
枠の隅の鉄の盾の絵に、結人はそっと意識を重ねた。来週、第二層の奥。退院の日までは、もう二週間もない。
「‥‥行く」
誰も居ない病室で、結人は柱の下で言えなかった返事を、小さく声に出した。




