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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第13話 空の寝床

 看護師の仁科は、六時ちょうどに三〇二号室のドアを開けた。


 カーテンの向こうはもう白み始めていて、ベッドの上の盛り上がりは明かりを点けなくても見分けられる。この部屋の男の子は、大抵この時間には掛け布団を頭まで被っている。


「おはよう結くん。お熱測ろうか」


 布団の肩のあたりに手を置いた瞬間、手のひらに伝わってくるものがおかしいと仁科は気づいた。子供の体の、あの頼りない硬さがない。指は柔らかく沈み、その下に毛布の折り目がある。


 掛け布団をめくると、丸まった毛布と枕が、人の寝姿にも見える形に盛り上がっていた。


 仁科の目は窓へ向いた。閉まっているはずの窓が手のひら一枚分開いていて、カーテンの裾が朝の冷たい風に揺れている。見上げれば、転落防止の留め金が外れていた。大人が背伸びをして、ようやく指の届く高さにある金具だ。


 体温計を放り出して窓に駆け寄り、隙間を押し広げて下を覗く。二階の庇と植え込みと裏手の通路があるだけで、人の形をしたものはどこにもない。


 ナースステーションに駆け戻ってからは、あっという間だった。同僚が当直の医師を呼び、警備室に電話が回り、手の空いた者が病棟を端から覗いて回る。車椅子はベッドの脇に置かれたままだ。右足にギプスを巻き、左肩を固定帯で留めた六歳の子が、それなしでどこへ行けるというのか。


 廊下の突き当たりの非常口で、仁科は足を止めた。扉に嵌まった細長い硝子の向こう、外の踊り場の床に、病棟の子供用の寝間着と同じ水色が見える。


 仁科は、扉の内側に横に渡された開閉用の鉄のバーに、体ごとぶつかった。


   * * *


 仁科がドアを開ける七分前、結人は病院の裏手の通路を走っていた。


 腕の時計は五時五十三分で、外で居られるのは長くてもあと九分だ。庇から配管を登って窓に転がり込むまで、いつもなら三分も掛からない。


 植え込みの角を曲がったところで、結人の足が止まる。


 三階の窓の真下を過ぎた先、通路の突き当たりの通用口の前に、男が一人立っていた。作業着の上に上着を羽織り、片手に煙草を挟んで、もう片方の手でスマートフォンを眺めている。


 男の立つ場所からは、結人が毎晩足場にしてきた庇が真っ直ぐ見える。あそこへ跳べば、男は物音に顔を上げるだろう。オレンジの髪の少女が子供の病室へ登っていくところを、ほんの一瞬でも見られたら終わりだ。


 植え込みの陰にしゃがみ込み、結人は男の背中を睨んだ。早く行って、と念じながら時計を見る。五時五十五分になっても、男は二本目の煙草に火を点けたところだった。


 五十七分になると、肩から腕へ回っていた熱が細くなり始めた。いつもの前兆で、しゃがんだ脚の裏が張ってくる。男はまだ動かない。


 窓は諦めるしかなかった。建物の角を回った先に、鉄の非常階段があることは知っている。三階の踊り場から中へ入れれば、廊下を通って病室へ戻れるかもしれない。


 角を回って地面を蹴り、手すりの外側を一息に越えて、三階の踊り場に降り立つ。鉄の床が足の裏で鈍く鳴った。


 扉には取っ手がなかった。平らな鉄の板に鍵穴が一つあるだけで、手を掛ける場所さえない。


「嘘でしょっ⁉これじゃ開けられないじゃないっ!」


 思わず上げた声が、明け方の空気にやけに響いた。手すりから身を乗り出すと、通用口の男の肩がまだ角の向こうに覗いている。窓までは、壁を伝っていけるような距離でもない。


 手すりを握っている手から、力が抜けていく。時計の数字は、もう六時を回っていた。


 結人は懐中電灯と腕時計をインベントリに仕舞った。変身が解ければ、手に持っている物はその場に落ちる。この数週間で、それだけは体が覚えている。


 踊り場の隅に背中をつけて座り込んだ途端、熱がふっと途切れた。体の輪郭から光の粒がこぼれ、明け方の冷たい空気の中へ散る。


 視界が低くなる。右足首にギプスの重さが戻り、左肩が帯の下で疼き出す。薄い寝間着越しに鉄の床の冷たさが染みてきて、素足はたちまち感覚をなくしていった。


「‥‥寒い」


 この足では、どこへも行けない。見つかった時に何を言えばいいのかを考えようとしても、浮かんでくるのは院長の眼鏡と仁科の顔ばかりだ。


 扉の向こうを、人の走る足音が何度も行き来する。誰かが結人の名前を呼んでいた。


 ガコン、と扉の内側でバーの鳴る音がして、扉が外へ跳ね開いた。


 白い顔の中で目だけを赤くした仁科が、そこに居た。仁科は結人を見下ろしたまましばらく動かず、それから膝をついて、着ていたカーディガンで結人をくるんだ。そのまま抱き寄せてきた腕が、震えている。


「よかった‥。よかった、結くん」


 耳の直ぐ横で、掠れた声がする。


 結人は仁科の肩越しに、薄い灰色の空を見た。怒られると思っていた。叩かれるかもしれないとも。けれど背中に回された腕は、結人より先に、仁科自身の震えを押さえ込もうとしていた。


「ごめんなさい」


 いつもの言葉が出た。仁科は何も言わずに、結人の頭を胸に押しつけた。


   * * *


「何か覚えてることはある? 夢を見てたとか、どこかへ行こうとしてたとか」


 朝の回診より早く、医師は病室の椅子に腰を下ろし、膝の上のカルテをめくっていた。結人は答えられずに、ベッドの足元に立つ仁科の顔を見た。仁科が同じことを、もう一度ゆっくり聞き直してくれる。


「覚えてない。起きたらあそこに居た」


 仁科の方を向いたまま答えると、喉に何かが引っ掛かったまま残った。嘘なら施設で毎日のようについてきた。痛くても平気だと言い、笑っていればそれで済んだ。あの嘘は自分を守るためのもので、言った後に胸がこれほど重くなることはなかったのに。


「先生。お布団が、人が寝ているみたいに丸めてあったんです。それに窓の留め金も外れていて」


 仁科の言葉に、医師はカルテから目を上げた。


「布団は寝相でどうとでもなるからね。留め金は施設課に見てもらおう」


 医師はカルテの数字を指でなぞった。


「魔素の数値は下がってきてるんだけど、ダンジョンの中に長く居た患者は、眠りが浅くなることがある。寝たまま歩き回った例も、ないとは言えない。しばらく様子を見ましょう」


 結人は毛布の端を握り込んだ。仁科は返事をせず、ベッドの上の毛布に一度目を落とした。


 午前のうちに、足首のレントゲンが撮り直された。ギプスのまま歩き回ったのなら、骨がずれているかもしれない。撮れた写真を見て、医師はしばらく黙り込んでから首を傾げた。


「ずれてないね。随分運がよかった」


 昼過ぎには院長が来た。眼鏡を拭きながら医師の説明を聞き、結人の顔を見て息をつく。ギルドの榊にも知らせておいたと言ってから、院長は仁科の方へ向き直った。


「施設に戻ってから同じことがあると、夜は見ている者が少ないものですから……。こちらに居る間に、落ち着いてくれるといいのですが」


 夜の巡回は、今夜から一時間おきになった。


 皆が出ていった後、仁科は窓辺で背伸びをして、留め金を掛け直した。金具の噛み合う手応えを確かめている背中に、結人は声を掛けた。


「仁科さん。‥怒ってる?」


「怒ってないわよ。びっくりしただけ」


 仁科は振り向いて笑ったが、笑い終わる前に、その目は窓の金具へ戻っていた。


「これ、誰が外したのかしらね」


 独り言のような声だった。仁科はそれきり何も言わずに部屋を出ていき、結人はその背中を見送った。


   * * *


 その夜、廊下の足音は本当に一時間おきに来た。


 ドアの小窓から差し込む懐中電灯の光は、どの回も前より長く、掛け布団の上に留まってから去る。一時間あれば、行って帰ってくることはできなくもない。けれど外での十分を行き帰りに使えば、中に居られるのは四十分あるかないかだ。


 それに今夜は、窓に手を伸ばす気になれなかった。踊り場で抱き寄せられた時の腕の震えが、まだ背中に残っている。


 二時の巡回が去った後、結人は掛け布団の中でスキルの画面を開いた。濃い紺色の地に金の線の枠。画面の隅の『FP』の欄で、数字が大きく変わっていた。


『FP:270P』


「270‥‥」


 声に出してしまい、慌てて口を押さえる。鷹野に挨拶をして話をし、プリンを渡して、一緒に第二層へ降りた。ばらばらにしたことの全部が、一つの数字にまとまっている。フレンドの一覧には、今も『鷹野』の名前が一つあるだけだった。


 100Pで一回なら、二回引いても70Pが残る。結人はフレンドガチャのボタンに意識を向けて、一回目をタップした。


 いつもの演出が流れ、青い星が落ちる。表を向いたカードには、細長い葉を何本も広げた緑の草が描かれていた。


『雑草 効果:なし』

『どこにでも生えている草。食べられなくはない』


「食べないよ‥」


 毛布の中で小さく笑うと、肩の力が抜けた。


 二回目をタップする前に、結人は深く息を吸った。


 星空の真ん中に、金色の細い線で組まれた天球儀が浮かび上がる。重なった輪が回り出し、それぞれ違う向きへ速さを上げる。駆動の音が高くなりきったところで、夜空の一点が瞬いた。


「また青かー‥」


 落ちてきた星の尾を見て、思わず声が漏れる。星はそのまま天球儀の中心へ沈み、光の柱が立ち上がった。星座模様の裏面がせり上がって一回転すると、青みがかった銀色の枠の中に、真鍮の枠に薄い硝子を嵌めた手提げのランタンが描かれている。台座の星が三つ、順に灯った。


『導きのランタン』


 名前の帯を読んだ瞬間、喉の奥から声が飛び出した。


「出たっ! ランタン! やった、やったぁっ!」


 掛け布団の中で両足がばたつき、ギプスがマットレスを打った衝撃が足首に響く。それでも笑いは止まらなかった。枕を引き寄せて顔を押しつけ、くぐもった歓声を何度も上げる。石ころとも雑草とも違う。欲しいと思って、自分でポイントを貯めて、自分の手で引いて、それが本当に出たのだ。


「見て、ほら、ランタンだよ! 本物の!」


 誰も居ない布団の中で、画面のカードを指差す。言ってから、声が大きすぎたことに気づいて両手で口を塞いだ。耳を澄ませても、廊下は静かなままだ。結人は口を塞いだまま、もう一度だけ肩を揺らして笑った。


 カードが縮んでインベントリの枠に収まる。掛け布団を頭から被り直して枠の絵に意識を向けると、手のひらにひやりとした金属の重みが載った。


 真鍮の角は擦れて黒ずみ、持ち手には誰かの指の形の窪みがあった。前にこれを提げていた人の手は、結人の手よりずっと大きかったらしい。


 硝子の奥に、ぼんやりとした光が灯り始めた。芯も油もないのに、光は布団の中の暗さを押し返すように強くなっていき、結人の手と寝間着の袖を蜂蜜の色に染める。思っていたよりも、ずっと明るい。


 三時の巡回には、まだ間があるはずだった。それなのに、廊下の角を曲がる足音が聞こえる。さっきの声が、聞こえていたのかもしれない。


 結人は息を止めてランタンをインベントリに戻した。光が消えるとほぼ同時に、ドアの小窓に懐中電灯の丸い光が差した。足音は小窓の外でしばらく止まり、それから、来た時よりもゆっくり遠ざかっていく。


 暗がりの中で、結人はもう一度枠の絵を確かめた。迷ったなら、光の強いほうへ。説明の下の一行を、声に出さずになぞる。


   * * *


 夜間窓口の宮原澄香は、その夜のうちに三度、同じ報告書の画面を開いては閉じていた。


 明日からの連休を前に、ギルド支部のロビーはいつもより混んでいる。会社員や大学生の仲間連れが長椅子を埋め、その間を噂が行き来していた。


 第二層の石の森で、石の木が焼けて溶けていたらしい。今朝の夜明けに、怪我人を担いだ組と門まで歩いてきたオレンジの髪の剣士が居たらしい。二つの話は一つに繋がり、宮原の耳に届くたびに尾ひれを増やしている。


 焼け跡の届け出があった以上、新しい魔物の仕業かもしれず、支部は調べないわけにいかない。


 救護室の職員によれば、今朝運び込まれた怪我人の髪は焦げた匂いをさせていたのに、仲間の二人は群れから運よく逃げられたとしか言わない。昼過ぎにロビーで顔見知りに囲まれていた蒼井という若者も、何を聞かれても首を横に振るばかりだったという。


 門の読み取り機の記録は、宮原の端末からも見られる。今朝の五時五十二分に門を出たのは、仮登録の夜から毎晩深夜に出入りしている探索者で、その数分後に怪我人の組が続いていた。登録の時、あの子は自分のスキルを「剣と、火」と申告している。


 報告書には、事故に関わった探索者の名前を書く欄がある。その下に、年齢を確かめたか、保護者の同意があるかを書く欄が並ぶ。あの子が本当に十五なのか、宮原には分からない。保護者の人は知っているのかと聞いた時も、あの子は答えなかった。窓口の職員として、見たものを見なかったことにはできない。


「宮原さん。すみませんね、忙しいとこ」


 顔を上げると、窓口の向こうに大きな影が立っていた。別の管理地を受け持っている、元探索者のギルドの職員の榊だ。隣の病院に用があった帰りだと言って、榊はカウンターに肘をつき、指先で天板を軽く叩いた。


「第二層で何か焼けたって話、ロビーで聞きましてね。どんな焼け方だったか、知ってます?」


「届けを読んだだけですけど」


 宮原は記録を開いて読み上げた。


「石の木の幹に、斜めに一本。大人の腕が肘まで入るくらいの深さで抉れていて、縁は溶けて固まってたそうです。魔物の仕業にしては、跡が真っ直ぐすぎるって」


 天板を叩いていた榊の指が、止まった。


 榊は何も言わない。宮原の顔を見ているようで、その目は窓口の奥の壁より、もっと遠くに向いている。


「‥そうか」


 しばらくして、榊はそれだけ言った。


「お邪魔しました。助かりましたよ」


 それ以上は何も聞かずに、榊は自動扉の向こうへ出ていった。宮原はその背中が見えなくなるまで見送ってから、報告書に目を戻す。


 名前の欄には、もうリーゼと打ち込んである。年齢の欄に「自己申告。確認できず」、保護者の欄に「未確認」と書き足して、宮原は送信のボタンを押した。

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