第12話 三日月
「戻るぞ。相手は魔物の群れだ、他人の面倒まで見る余裕はない」
鷹野は槍を肩に担ぎ直し、来た道の方へ顎をしゃくった。その理屈は結人にも分かる。灰狼をたった一匹止めただけで、膝が震えたのだ。群れの中へ飛び込めば、今度は止めるだけでは済まないだろう。
それでも、遠ざかっていく三つの灯りから目が離せなかった。柱一本分離れて座り、妹の話をして、一人なら第二層には降りるなと教えてくれた蒼井の顔が浮かんでくる。
「行く。助けに行きたい」
自分のものとは思えないほど、はっきりとした声が出た。
「あの人、教えてくれたんだ。灰狼のことも、灯りのことも」
腰の灯りの下で結人の顔をしばらく見つめていた鷹野の、切れ長の目が僅かに細くなる。鷹野は小さく息を吐いて、肩の槍を下ろした。
「しょうがないな‥‥右につけ。前に出すぎるな。俺が戻ると言ったら、その時は黙って戻れ」
結人が頷いた時には、鷹野はもう走り出していた。
* * *
石の森の奥へ進むほど遠吠えは近くなり、獣の匂いが濃くなる。
鷹野の背中は、腰の灯りが作る光の輪の少し先を走っていた。結人が懐中電灯を前へ突き出すたびに、細い光の筋の中で石の木々の幹が白く浮かび上がっては、後ろへ流れ去る。九百八十円の頼りない光でも、ないよりはずっとましだった。
走りながら、結人は何度も喉を鳴らした。灰狼を一頭止めただけで膝が震えたのに、今から向かう先には、それが何頭も居る。
前を照らす二つの灯りの先で、灰色の影がいくつも動いていた。倒れた木々に囲まれた窪地の奥で、岩壁を背にした三人を、灰狼の群れが半円に取り囲んでいる。五頭か六頭か、数える端から影が入れ替わって、正確な数は分からなかった。
岩壁の前では、剣を構えた蒼井が仲間の前に立ちはだかっていた。その後ろで一人が片膝をつき、腿を押さえた指の間から黒っぽいものを滲ませている。もう一人は短い槍を突き出して、じりじりと近づいてくる灰狼を必死に牽制していた。
「――蒼井!」
思わず叫ぶと、蒼井が振り返った。鷹野の灯りに照らされたその顔が、驚きで強張る。
「え、君はあの時の子?‥‥何で」
「余所見するな!」
鷹野が怒鳴るのと同時に、群れの端の一頭が蒼井に跳びかかった。横から伸びた鷹野の槍がその脇腹を薙ぎ、灰狼は短い悲鳴を上げて横ざまに地面を転がる。崩れた半円の向こうから、緑に光る目が一斉にこちらを向いた。
鷹野は腰の灯りをむしり取り、窪地の縁の倒木の上へ放った。転がった灯りが、窪地の全体をぼんやりと照らし出す。
カッ、と鷹野が槍の石突きを地面に突く。結人は懐中電灯をインベントリへ放り込み、盾を構えてその右へ滑り込んだ。
二頭が同時に来た。一頭の牙を盾で受け止めて、引かれる力を横へ流す。もう一頭の牙は剣の腹で弾き、返す刃で前脚を払った。体は迷わずに動いた。リーゼの経験と、この数週間で結人が重ねてきた動きが、ぶつかることなく一つになる。
だが、相手の数が多すぎた。鷹野の槍が一頭を仕留める間に、別の二頭が回り込んでくる。盾に食いついた灰狼が首を振るたびに、結人の腕は肩から抜けそうになった。
群れの奥で、一頭が低く身を沈めた。
狙われているのは、岩壁の前で膝をついている男だった。蒼井は正面の灰狼と剣を噛み合わせていて振り向く余裕がなく、短い槍の男は別の一頭に押し込まれて岩壁に背中をつけている。盾には灰狼が食いついたままで、剣で届く距離でもない。鷹野の槍も、別の一頭の喉元にあった。
間に合わない。けれど剣に火をまとわせれば、ここからでも届く。
ここには四人の目がある。蒼井は謝ってくれたが、後ろの二人とは一言も話したことがない。鷹野は何も聞かない大人でも、炎を見た後で何を言い出すかは分からなかった。ロビーの長椅子から聞こえてきた囁き声が、耳に蘇る。
『なあ、あの子だろ?毎晩一人で潜ってるっていう』
顔の噂だけであれほど広まったのだから、炎の魔法が使えるなんて噂ならどうなるだろう。
右足首が、ギプスの中にあるように重くなった。
身を沈めた灰狼の後ろ脚に、力が溜まる。膝をついた男は、まだそれに気づいていない。
胸の内側で、何かが熱を持った。盾を持つ左腕の奥から、熱いものがせり上がってくる。言葉ではなかった。それでもリーゼが――この体が力を貸そうとしてくれていることだけは、何となく分かった。
強張っていた指に、力が通っていく。
盾に食いついた灰狼を、結人は力任せに振り払った。
胸の火が剣を握る右腕へなだれ込む。刃の根元から炎が噴き上がり、窪地の暗がりを赤く塗り替える。炎は刃の上で細く圧し縮められ、芯の色が橙から緋へと深まっていった。
視界の隅に、文字が一行だけ浮かぶ。
『緋走り』
結人は半円の端へ回り込み、岩壁と平行になる向きで踏み込んだ。灰狼たちはみな、岩壁の三人の方へ頭を向けている。その背中の側を薙げば、炎は三人に届かない。
踏み込みと同時に、結人は剣を横一文字に振り抜いた。
切っ先から伸びた緋色の炎は、ダンジョンの底で見た時よりもずっと大きく長い、三日月の弧を描いた。灰狼たちの背中の側を低く地を這って走る炎の刃が、身を沈めていた灰狼の脇腹を捉えた瞬間に緋色の光が爆ぜ、灰色の毛並みが一息に燃え上がる。灰狼は跳びかかる前の姿勢のまま、火の塊になって転がった。
それでも炎は止まらなかった。蒼井と剣を噛み合わせていた一頭の背を撫でて、短い槍の男を押し込んでいた一頭の脇腹を薙ぎ、三頭をまとめて火に包む。熱に煽られた蒼井が、腕で顔を庇って身を伏せた。
炎はそのまま窪地を囲む石の木々へ走り、幹に斜めの溝を深々と刻んでから、ようやく消えた。熱風が窪地を吹き抜け、乾いた枝が一斉に爆ぜる。
焼けた溝の縁は赤く光り、溶けた樹皮が細い煙を上げていた。
残っていた灰狼は甲高い声を上げて身を翻し、燃える仲間の匂いに怯えたのか、次々に木々の奥の暗がりへ逃げ去っていく。
* * *
パチ、パチと焼けた木の爆ぜる音だけが、窪地に残った。
剣を下ろした結人が肩で息をしている間に、刃の炎は細くなって消え、手の中には普通の剣の重さだけが戻ってくる。胸の火も、ごっそりと削り取られたように細くなっていた。顔を上げると、四人分の目が結人を見ていた。
蒼井は剣を構えたまま、口を半分開けている。短い槍の男は岩壁に背中をつけて座り込み、膝をついていた男は、直ぐ横で燃え尽きていく灰狼と結人の顔とを何度も見比べていた。鷹野だけが、何も言わずに結人を見つめている。
見られた。剣の柄を握ったまま、結人は一歩後ずさる。逃げなければと思うのに、どこへ逃げればいいのかが分からなかった。
カァンッ、と甲高い音が窪地の隅々まで響き渡った。鷹野が槍の石突きを地面に突き立てたのだ。その音に、全員の肩が跳ねる。
「今夜ここで見たことは、誰にも言うな」
三人の方へ向き直った鷹野は、低い声で続けた。
「この子は、見せたくて見せたんじゃない。お前らを死なせないために使ったんだ。それを言いふらせば、困るのはこの子だ。分かるよな?」
しばらく誰も口を開かなかったが、蒼井が最初に動いた。剣を鞘に収めて、真っ直ぐに結人の方を向く。
「あ、ああ‥言わないよ。絶対に」
蒼井は振り返って、仲間の二人の顔を見た。
「お前らも分かってるよな。助けてもらって、それを言いふらすような真似をしたら、俺は本当に最低になる」
短い槍の男が黙って頷き、膝をついていた男も、腿を押さえたまま何度も頷いた。蒼井は第一層の時と同じだけの距離を空けたまま、結人に向かって深く頭を下げる。
「ありがとう。君が来てくれなかったら、こいつは喉を噛まれてた。本当に、ありがとう」
膝をついていた男も掠れた声で「ありがとう」と言い、短い槍の男が同じ言葉を繰り返した。
ありがとうと言われたことは、これまでにも何度かある。けれど、頭を下げて真っ直ぐに言われたことは一度もなかった。喉が詰まって、何も言葉が出てこない。施設では、こういう時にどんな顔をすればいいのかを、誰も教えてくれなかった。
強張っていた頬の内側が、ひとりでに緩む。うん、と言うつもりで、結人は口を開いた。
「ん。いいよ」
顔を上げた蒼井は、リーゼの和らいだ笑顔にドキッとしたが、少し困ったように、それから嬉しそうに笑った。
* * *
腿を噛まれた男は、自分の足では歩けなかった。
鷹野が男を背負い、蒼井ともう一人が両脇を固める。結人は懐中電灯を掲げて列の最後を歩き、後ろの暗がりにいつ群れが戻ってくるかと耳を澄ませ続けた。石の森から坂を上り、第一層の草原を抜けるまでの道のりは、来た時の何倍も長く感じられた。
燃え尽きた灰狼の石を拾う余裕など、誰にもない。腕の時計を見るたびに数字は進んでいたが、怪我人を背負った列を置いて一人だけ先に帰ることは、結人にはできなかった。
草原を歩く途中で、蒼井が一度だけリーゼの方を振り返った。
「なあ。君の名前を聞いてもいい? 嫌ならいいけど‥」
結人は一瞬ためらってから、小さな声で答えた。
「リーゼ」
「君はリーゼって言うんだね。リーゼが困ったことがあったら何でも言ってくれ、恩返しをしたい」
蒼井はそう言って前を向いた。暗くて表情はよく見えないが、横顔がどこか赤いようにも見える。結人は返事をしなかったが、懐中電灯を握る指に、力がこもった。
門の手前で、鷹野は背負っていた男を蒼井たちに預けた。支部の救護室へ運ぶのだという。足を止めた結人の方を、鷹野が振り返る。
「ここまででいい。助かった」
鷹野はそう言ってから、声を落とした。
「急いでるんだろ。気をつけて帰れよ」
理由は聞かない声だった。結人は一度だけ深く頭を下げて、門へ向かって走った。
柵を抜けた途端に、冷たい空気が肌を刺した。見上げた空が白い。建物の向こうの空の底は薄い灰色に変わり始め、夜の色はもう、頭の真上にしか残っていなかった。
腕の時計に目を落とすと、光る数字は五時五十二分を示していた。




