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ステラヒーローズ  作者: えいえい
第一章 幼少期編

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第11話 詮索

 入院して四週目の昼、榊が二度目に病室を訪ねてきた。


 コンコンと控えめなノックの音に続いてドアが開き、色の褪せたネルシャツの大男が戸口で身を屈める。後ろには前と同じように仁科が付き添っていた。結人の肩は強張ったが、前の時ほど長くは固まらずに済んだ。榊はやはり戸口から先へは入らず、丸椅子を一番遠い壁際まで引いていって、窮屈そうに腰を下ろす。


「よう。足はどうだ?」


 ギプスの足を見下ろして返事をしようとしたが、開いた口から息だけが出た。榊はそれ以上は聞かずに、手に提げていた紙袋を仁科に渡す。


「売店のプリンだ。二つ入ってる。看護師さんの許可は取ってある」


 仁科が紙袋をベッド脇の棚に置くと、榊は膝に肘をついて、天井の照明をぼんやりと見上げた。しばらく黙っていた後で、独り言のように言う。


「ここの飯、味が薄いだろ?俺も昔、ここに入院したことがあってな。毎日、醤油を持ってきてくれって看護師さんに頼んでたぜ?」


 味の薄い煮物と、ぬるい味噌汁が頭に浮かぶ。毎日食べているその味が、この大きな男の口から出てきたことが、なぜだか少し可笑しかった。


「‥うん」


 小さな声だったが、確かに出た。


 天井を見ていた榊の目が、結人の方へ下りてくる。驚いたように眉を上げてから、無精髭の口元をゆっくりと緩めた。


「そうか。薄いよな」


 それだけ言って榊は膝を叩いて立ち上がり、戸口で一度だけ振り返って「困ったら、俺の名前を言え」といつもの言葉を残していった。足音が遠ざかってから、仁科が棚の紙袋を覗き込む。


「あの人とお話しできたの、初めてじゃない?」


 結人は布団を鼻の下まで引き上げたが、頬の熱さは隠せなかった。夕食の後に一つ食べたプリンは、施設のおやつのプリンよりずっと甘くて柔らかかった。


 もう一つは食べずに、インベントリの枠に仕舞った。アイテム贈与、30P。昨夜覚えた数字を、結人は布団の中でもう一度数え直した。


   * * *


 その夜、一時の巡回の足音が遠ざかるのを待つ間、結人は暗い天井を見上げて迷っていた。


 鷹野は大人の男だ。一度も近づいてこないし、石もココアも置いて渡してくれた。それでも、二人きりで暗い第二層を歩くことを考えると、指先が冷たくなる。


 行かなければ、鷹野はきっと何も言わずに一人で降りていくだろう。そして結人は、懐中電灯まで買ったのに、いつまでも第一層の草原を回り続けることになる。


 足音が遠ざかり、廊下が静まり返った。結人は掛け布団の中で、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「変身」


 口の中で転がした声は、自分に言い聞かせる時の声に似ていた。


 一時半、草原の奥の柱の下には、もう鷹野が来ていた。


 岩棚から草の上へ降りて、結人は一度だけ深く息を吸った。挨拶で10P、話をすれば10P。昼間からずっと、頭の中で数えてきた数字だ。


「こ、こんばんワっ」


 声が裏返った。鷹野は槍を担いだまま、眉を上げて結人を見る。


「‥ああ、嬢ちゃんか」


 返ってきたのはそれだけだったが、結人は胸の中で一つ指を折った。それからインベントリに意識を向けて、昼間仕舞ったプリンのカップを手の上に出す。


 鷹野との間にある平たい岩の上にそれを置くと、二歩下がってから口を開いた。いつも鷹野がしているのと、同じやり方だった。


「これ、あげる。めっちゃ甘いから」


「‥いいのか?まぁ、貰えるなら貰っておくけどよ。あんまり気ぃ使わなくて良いからな。ありがとうな」


 鷹野はしばらくカップを見下ろしていたが、やがて岩の上から拾い上げ、外套の内側に仕舞った。これで30P、と結人は頭の中で数えた。数えているうちに、なぜか耳の奥が少し熱くなった。


 鷹野は顎で岩壁の裂け目を示し、先に立って歩き出す。二人の間には、いつも槍一本分より長い距離があった。


 裂け目の奥は下へ続く長い坂になっていて、進むにつれて苔の光が薄れ、足元さえ見えなくなる。鷹野が腰に提げた小さな灯りを点け、結人もインベントリから懐中電灯を取り出した。鷹野の灯りが二人の足元を丸く照らし、結人の細い光が、その先の坂を探るように撫でる。


「足元は俺の灯りで足りる。お前のは、先を照らせ」


 前を向いたまま鷹野が言い、結人は懐中電灯を真っ直ぐ前へ向けた。


 坂を下りきると、空気の匂いが変わった。第一層の草原の青い匂いではなく、乾いた土と古い木の皮の匂いがする。光の輪の中に、灰色の木々の群れが浮かび上がった。どの木も葉を一枚も付けておらず、触れてみると幹は石のように固く冷たい。天井は低く、枯れた枝の先が岩の天井に届きそうなところまで伸びている。


「第二層だ。ここから先は、灯りの届かないところに何が居るか分からない」


 足を止めた鷹野が、初めて結人の方を振り返った。


「合図を決めておく。俺が槍を横にしたら止まれ。地面に突いたら、盾を構えて俺の右に立て」


 鷹野は槍の穂先で、結人の左腕の盾を示した。


「お前は、盾で受けてから斬る戦い方だ。自分から斬り込むな。お前が受け止めて、俺が仕留める。前に出すぎなければ、それで足りる」


「槍を横にしたら止まる。地面に突いたら、盾を構えて右」


「そうだ。覚えたな」


 結人が頷くのを見届けて、鷹野はまた前を向いた。石の森をしばらく進んだところで、鷹野が不意に槍を横にする。足を止めた結人の前で、鷹野は無言のまま木々の奥を見据えていた。鷹野の灯りの輪の外で、乾いた何かが擦れる音がする。


 カッ、と鷹野が槍の石突きを地面に突く。結人は懐中電灯をインベントリへ放り込み、空いた左手で盾を構えて鷹野の右に立った。次の瞬間、木々の間から灰色の影が飛び出してくる。


 大型の犬よりもさらに一回り大きな狼で、灰色の毛並みは光を吸い込むようにくすみ、暗がりで緑に光る目は走りながら一度も揺れない。足音がまったくしないことに、結人はぞっとした。蒼井の言っていた灰狼だ。


 灰狼が狙ったのは、鷹野ではなく結人の方だった。牙が盾の縁に食い込み、重い衝撃が腕から肩へ突き抜ける。灰狼が首をひねって結人を引き倒そうとすると、草のない地面の上で足が滑り、膝が崩れかけた。


 怖い、と思った時には、もう体が動いていた。肩の力を抜いて、引かれる力を横へ流す。施設の隣のダンジョンの底で、初めて覚えた動きだった。灰狼の体勢が僅かに崩れたその瞬間に、横から伸びてきた鷹野の槍が喉元を貫く。灰狼は一度だけ大きく体をよじり、それきり動かなくなった。


 盾を構えたまま荒い息をつく結人の膝は、まだ小刻みに震えていた。剣を一度も振らないうちに、すべてが終わっている。


「止めたな」


 槍を引き抜きながら、鷹野が言った。


「お前が止めたから、俺が刺せた。一人だったら、今ので喉をやられてる」


 結人は剣の柄を握りしめた。灰狼が盾に食いついている間、剣に火を灯すことを、頭の隅で考えていた。燃える刃なら、一振りで灰狼を焼けたかもしれない。


 剣の柄に落ちた結人の視線を、鷹野は横目で見ていたらしい。槍の穂先を拭いながら、こちらを見ずに続けた。


「何のスキルを持ってるかは聞かない。だが、ここでスキルに頼るのはやめとけ」


「何で? 使った方が早いのに」


「スキルで片付く相手ばかりじゃないからだ。頼る癖がつくと、受けるのも退くのも身につかない。基礎の抜けた奴は、スキルの通じない相手に当たった時に、一番先に死ぬ。そういう奴を、何人も見てきた」


 淡々とした声だったが、最後の一言だけが重かった。


 この人を信じていいのかどうかを、結人はまだ決められずにいる。フレンドの一覧にあの名前が並んでいても、それは変わらなかった。炎が出せるスキルのことは、まだ誰にも見せられない。


 けれど今の言葉は、見せられない理由とは別のところで、腹の底に沈んだ。あの炎がなくても戦えるようにならなければ、いつか本当に、炎の届かない相手に喉を噛まれる。


 鷹野は灰狼の死骸の脇に膝をつき、腰のナイフを抜いた。


「灰狼の石は胸だ。前脚の付け根から指三本分後ろの、肋骨の内側。見てろ」


 腰の灯りの下で、鷹野の手はよどみなく動いた。肋骨の内側で、小さく乾いた音がした。取り出された石は岩鼠のものより一回り大きく、くすんだ緑色の光を内側に宿している。


「お前の取り分だ」


 鷹野はそう言って、やはりその石を地面に置いた。


   * * *


 石の森の中ほどで、二人は倒れた木の幹に腰を下ろして休んだ。


 結人から二人分ほど離れたところに座った鷹野は、水筒の水を飲んでいる。地面に置いた灯りが、こけた頬と束ねた黒髪の影を、後ろの岩肌に大きく映していた。


「嬢ちゃんはどこの出だ?」


 不意に聞かれて、懐中電灯を握る結人の指が強張った。


「何で毎晩、夜中に一人で潜ってるんだ?」


 責める響きはなく、ただ静かに知りたいと思っている声だった。病院のベッドのことも施設のことも大河のことも、結人の喉の奥でひとかたまりになって止まる。一つでも口にすれば、全部がこぼれてしまいそうだった。


「‥言えない」


 地面の灯りを見つめたまま、結人はそれだけを言った。


 鷹野の返事はなく、やがて水筒の蓋を閉める小さな音がした。


「そうか。聞いて悪かった」


 拍子抜けするほどあっさりとした声に、結人は思わず顔を上げた。


「俺にも、聞かれたくないことはある」


 それきり、鷹野は本当に何も聞かなかった。


「ねえ」


 しばらくして、結人の方から口を開いた。自分でも驚くほど、自然に声が出ていた。


「何で、近づいてこないの」


 鷹野は首を傾けてから、暗がりを見たまま答えた。


「お前が嫌がるからだ。俺が近づくとお前は固まる。最初に会った時から、ずっとそうだった」


 気づかれていたのだと分かって、結人は何も言えなくなった。施設の大人たちが、何か月も気づかなかったことだった。


「固まるのは悪いことじゃない。体が覚えてることには、理由がある。理由は聞かないが、そういう相手には近づかなければいいだけの話だ」


 水筒を外套の内側に仕舞い、鷹野は槍を手に取った。


 懐中電灯を握る指から、力が抜けていく。


「そっか。ありがと」


 鷹野は返事の代わりに、小さく顎を引いた。


 休憩を終えて奥へ向かう途中で、二頭目の灰狼が木々の間から現れた。カッ、と鷹野が槍を地面に突く。結人は懐中電灯を仕舞い、盾を構えて右に立った。


 灰狼は今度も結人に跳びかかってきた。盾で受けて、力を横へ流す。灰狼の体が流れたその一瞬、結人は鷹野の槍を待たずに、自分の判断で一歩踏み込んだ。盾を引きながら返した剣が、灰狼の首の付け根を深く断ち割る。灰狼は二、三歩よろめいて、そのまま横倒しになった。


 剣を下ろしてから、結人は自分のしたことに気づいて鷹野を振り返った。勝手に前へ出てしまったのだから、叱られるかもしれない。


「今のは、お前が仕留めた」


 鷹野は槍を構えたまま、灰狼の死骸を見下ろしていた。


「受けてから斬れと言ったのは、こういうことだ。止めて、崩して、斬る。それでいい」


 それから鷹野は、間を置いて付け足した。


「並んで戦える奴は、そう多くない」


 結人はしばらく、その言葉の意味を考えていた。並んで、と口の中で繰り返すと、剣の柄を握る指に熱がこもった。


   * * *


 その灰狼の石を取り出し終えた時、遠吠えが聞こえた。


 石の森の奥から、いくつもの長い声が重なり合って響く。結人の肩がすくみ、鷹野は槍を横にして暗がりの奥を睨んだ。


「群れだ。奥の縄張りで、何かを追ってる」


 その時、ずっと奥の木々の間を、人の持つ小さな灯りが三つ揺れながら進んでいくのが見えた。遠すぎて顔までは見えないが、先頭の一人が振り返った拍子に、茶色く染めた髪がちらりと光る。


「あれ、蒼井だ」


 結人の呟きに、鷹野が眉を寄せた。


「知り合いか。あいつら、奥へ行く気だな。今夜は群れが起きてる。あそこは三人じゃ足りない」


 オォォ――ン……


 今度は、さっきよりもずっと近い。三つの灯りは、遠吠えのする方へ真っ直ぐに遠ざかっていく。

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