第9話 硬直
腕時計の数字が二時四十分を指したのを確かめて、結人は第一層から引き上げた。
ここ数晩で、帰る時刻を自分で決めることには随分慣れていた。門をくぐって外へ出れば、気だるさが来るまでに五分、元に戻るまでに十分。その間に買い取りの窓口へ寄り、三時の巡回の足音が遠ざかる前後に病院の窓の下へ着く。窓口で使える時間は、せいぜい二、三分しかない。
その夜も、柵を抜けた足で真っ直ぐ窓口へ向かい、台に四つの石を並べた。係の人が一つずつ機械に載せる間、結人は台の端の料金表をぼんやり眺めていた。読めない名前の並ぶ欄の横には、第一層の石とは桁の違う数字が書いてある。
「ねえ君。いつも一人だよね?」
振り返ると、大学生くらいの若い男が三人、結人を囲むように立っていた。真ん中の男は茶色く染めた髪を軽く立たせ、人懐こそうな笑みを浮かべている。数日前の夜、ロビーの奥の長椅子からこちらを見ていた三人だ。
「俺、蒼井っていうんだ。こっちの二人と、週末と夜だけ潜ってんの。君、毎晩来てるでしょ?第一層だけで回ってるって聞いたけど、もったいなくない?」
蒼井と名乗った男は窓口の台に片肘をついて身を乗り出し、残りの二人は結人の左右に半歩ずつ寄ってきた。
「一緒に潜ろうよ。俺ら、第二層まで行けるし。一人より絶対楽だって!」
結人は首を横に振った。それだけで済むと思っていた。
「ダメかな?、あ、じゃあ連絡先だけでも。今度気が向いたらでいいからさっ!」
「もしかしてスマホ持ってないとか? って、そんなわけないか」
右側の男が笑い、左側の男が端末を取り出して画面をこちらへ向ける。三人の体が少しずつ近づき、結人と窓口の間の隙間が狭くなる。断ったはずの意思がどこにも届いていないことに、結人は遅れて気づいた。係の人は奥で魔石の査定をしていて、こちらを見ていない。
指先へ届いていた熱が、戻りきらなくなり始めていた。
「ほら、ちょっとだけでいいからさっ」
蒼井の手が、結人の手首に向かって伸びてきた。
その瞬間に体が止まり、指の一本も動かなくなった。リーゼの腕は、さっきまで岩鼠の首を一太刀で断っていた腕だ。この男の手など、振り払おうと思えば簡単に払える。それが分かっているのに、肩から先がどこにも繋がっていないように感じられる。
喉が閉じて息が浅くなり、視界の端が白く霞んだ。伸びてくる手だけが、やけにはっきり見える。施設の廊下で押さえつけられた時の床の冷たさが、その手に重なっていた。逃げられないし、声も出ない。あの廊下でそうしてきたように、終わるのを待つしかなかった。
膝の裏が張り、肩が重くなる。外で居られる時間が、こうしている間にも削れていく。このまま動けずにいたら、この人たちの目の前で、ギプスをはめた六歳の子供に戻ってしまう。
手首に指先が触れかけた時、胸の奥で何かが立ち上がった。
剣が燃え上がる時の火とは違う、ひどく冷たいものだった。それは結人の背骨に沿ってせり上がり、強張った肩の内側に溜まって、かちりと固まる。冷たいものは目の前の男に向かって真っ直ぐに伸び、その冷たさが、凍りついていた肩をほんの少しだけ溶かした。
やめて、と結人は言った。
「‥‥触んないで」
口から出たのは、低く抑えた少女の声だった。伸びていた蒼井の手が、手首の手前で止まる。結人は自分の体が半歩下がっていたことに、言った後で気づいた。窓口の台が背中に当たり、その硬さで、自分がまだ立っていることを知る。
蒼井の顔から、笑みがすっと引いた。宙に浮いた自分の手と、窓口の台に背中を押しつけた結人の顔を見比べて、ようやく何かを悟ったように手を引っ込める。
「あ。いや、俺‥‥」
「ちょっと!そこ!」
窓口の奥から、宮原の声が飛んできた。
受付の札の下から出てきた宮原は、三人と結人の間に体ごと割り込んだ。背は結人の肩ほどしかないのに、腰に手を当てて三人を見上げる顔には迷いがない。
「その子、まだ高校生くらいでしょ。断られてるのにしつこく誘うのは、ギルドの規約違反。次にやったら支部に報告して、出入りを止めてもらうからね?」
「いや、別に変なことしようとしたわけじゃ――」
言いかけた右側の男の肩を、蒼井が軽く押さえた。
「いい。俺が悪かった」
「囲んで、手首を掴もうとしてたでしょう。こっちから見えてたのよ」
三人が顔を見合わせた時、ロビーの入口の方で、石の床を何かが打つ乾いた音がした。長い槍の石突きを床について、鷹野が立っている。表情一つ変えずに三人を見ているだけなのに、その切れ長の目に見られた三人の肩が、目に見えて縮んだ。
蒼井は二人を先に行かせると、結人の方へ向き直った。近づこうとはせず、その場で深く頭を下げる。
「ごめん。怖がらせた。本当に、ごめん」
顔を上げた蒼井は、それ以上何も言わずに二人の後を追っていった。
* * *
「大丈夫? 怖かったね」
宮原に顔を覗き込まれて、結人は頷こうとした。籠手に収まった細い指が、小刻みに震えている。さっきまで一本も動かなかった指だ。
「ああいうのは、ここにはたまに居るの。でもね、私が見ていられるのは窓口の前だけ。報告したって、出入りを止めるまでには何日も掛かるし、ダンジョンの中までは誰も見てくれない」
宮原はそこで声を落とし、結人の顔をじっと見た。
「それより、あなた。保護者の人は知ってるの? こんな時間に、毎晩一人で来てること」
結人は答えられなかった。宮原の目は心配しているようで、同時に、窓口の向こう側に座る職員の目でもあった。
答えを探している間にも、腕は重さを増していた。結人が窓口に背を向けかけた時、長椅子の方から中年の男が近づいてくる。初めて支部に来た夜、「お、新顔か」と声を掛けてきた男だ。
「嬢ちゃん」
男は少し離れたところで足を止め、頭を掻いた。
「悪いことは言わねえ。一人で潜るのは、やめといた方がいい。ああいう連中だけじゃなくてな、下の層には、一人じゃどうにもならねえもんが居る。俺の知り合いにも、一人で降りて戻ってこなかった奴が居る」
男の声には、さっきの三人の声にあった熱が少しもない。本気で心配しているのだと、結人にも分かった。
それなのに、体はまた固まっていた。男が一歩でも近づけば、さっきと同じように指が動かなくなる。返事をしようとしても喉が開かず、結人は男の顔ではなく、その胸のあたりを見つめたまま浅い息を繰り返した。
「‥‥怖がらせたか。悪かったな」
男は気まずそうに首の後ろを掻き、それ以上は近づかずに長椅子へ戻った。結人は返事の代わりに、その背中へ向かって小さく頭を下げた。下げてから、それが遅すぎたことに気づく。
「顔が白いぞ」
直ぐ横で声がした。いつの間にか、鷹野が数歩離れたところに立っていた。ロビーの隅の自動販売機から出てきた缶を、腕を伸ばして結人の前の台に置く。
「飲め。手が震えてる」
結人が缶を手に取ると、温かい重みが掌に沈んだ。膝の裏の張りは、もう太腿まで上がってきている。視界の縁が、ゆっくりと暗く滲み始めていた。
「ありがと‥‥」
缶を握りしめたまま言うと、結人は自動扉へ向かって駆け出した。背中で鷹野が何か言いかけたのが聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
病院の裏手まで走り、庇に跳び上がって、配管に手を掛ける。腕に力が入らず、二度目でようやく三階の窓枠に指が届いた。窓を開けて転がり込み、留め金を掛け、毛布と枕をベッドの下へ押し込む。腕時計を外してインベントリに仕舞い、缶を握ったまま掛け布団に潜り込んだ途端、熱がふっと途切れた。布団の隙間から光の粒がこぼれて消える。
* * *
右足首に戻ってきた痛みが落ち着くまで、結人は暗がりの中でじっとしていた。
リーゼの手が握っていた缶は、元の体に戻った時に指から抜け落ちて、シーツの上に転がっていた。手探りで拾い上げると、プルタブも開けないまま持ち帰った缶はまだ温かい。小さな手で包むと、リーゼの手で握っていた時よりもずっと大きく感じられた。
音を立てないようにプルタブを起こすと、甘い匂いが布団の中に広がった。ココアだった。施設の冬のおやつで、年に何回か出てきた味がする。
缶を両手で包んだまま、結人はさっき胸の内側に立ち上がったものを思い返していた。
冷たくて固い、真っ直ぐな感情だった。剣が燃えた夜に「浅い」と告げてきたものと同じところから来た、リーゼの気持ちだ。リーゼが、結人に手を伸ばした男に怒っていた。
施設の廊下で三人に押さえつけられた時、怒ってくれる人は誰も居なかった。通りかかった大人は誰も足を止めず、結人自身は笑っていた。笑っていれば、ただの遊びで済むと思っていたからだ。
誰かが自分のために怒るというのは、こういうことなのだろうか。
ココアの甘さが、ゆっくりと喉を落ちていく。
「‥‥ありがとう」
誰に向けたのか自分でもはっきりしないまま、結人は空の缶に向かって呟いた。
* * *
次の夜、第一層の柱の陰で岩鼠の石を取り出していると、草を踏む足音が近づいてきて少し離れたところで止まった。
「あのさ。昨日、ごめんな‥‥」
蒼井だった。一人で、両手を外套のポケットに突っ込んだまま、それ以上は近づいてこない。結人の肩は勝手に強張ったが、蒼井は柱一本分の距離を空けたまま、草の上に腰を下ろした。
「仲間内で、あの子に声掛けてみようぜって盛り上がってさ。断られても、冗談で押せばいけると思ってた。最低だよな」
結人は返事をせずに、ナイフを握ったまま蒼井を見ていた。
「俺、妹が居るんだ。まだ小学生で、年はだいぶ離れてるんだけどさ。あいつがいつか大きくなって、知らない男三人に囲まれて、手首掴まれそうになったらって考えたら、昨日の夜、全然眠れなくて」
蒼井は草をむしって、指先でくるくると回した。
「だから、もう誘わない。その代わりって言ったら変だけど、一個だけ言わせて。一人なら、第二層には降りない方がいい。あそこは灰狼が群れで来る。一匹ずつなら何とかなっても、囲まれたら終わりだ。俺らも三人で、やっと逃げてる」
「‥‥灰狼」
「そう。灰色の狼。足が速いし、頭もいい。降りるなら、せめて誰か慣れた人と一緒に。あと灯りは絶対持ってけ。第二層は暗いから」
鷹野と同じことを言う、と結人は思った。柱一本分離れて座る蒼井の顔は、さっきまで思っていたよりずっと幼く見える。大人の男というより、施設の年上の子に近い顔だった。そう思うと、ほかの大人の前でほど喉は閉じなかった。
「‥‥ありがと」
小さく言うと、蒼井は驚いた顔をしてから、照れくさそうに笑った。下心のようなものは、その笑い方のどこにもなかった。
「困ったことがあったら、俺らに声掛けていいから。じゃ、気をつけてな」
蒼井は立ち上がって手を振り、柱の向こうの仲間たちの方へ戻っていった。
* * *
翌日の昼過ぎ、結人は仁科に車椅子を押されて、検査室のある一階へ向かっていた。
空になった缶は、ゆうべのうちにインベントリの枠の一つに仕舞ってある。石とナイフと腕時計と探索者証の隣で、枠はもう空きの方が少なくなりかけていた。
ナースステーションの前を通りかかった時、カウンターの中で若い看護師が二人、声を潜めて話していた。
「ねえ、聞いた? 隣のギルドにさ、すっごい綺麗な子が来るんだって。オレンジの髪の」
「あ、聞いた聞いた。夜中だけ来るんでしょ? 入院してる探索者さんが、読者モデルみたいだって言ってた」
「一人で潜ってるんだって。高校生くらいらしいよ。大丈夫なのかなあ」
車椅子の上で、結人は膝の毛布を顎の下まで引き上げた。
「どうしたの? 寒い?」
後ろから仁科が覗き込む。結人は毛布に顔を半分埋めたまま、首を横に振った。
ナースステーションの話し声は、廊下の角を曲がるまで続いていた。オレンジの髪の綺麗な子。その子は今、ここで顔を真っ赤にしながら毛布にくるまっていた。




