第9話
画面のプログレスバーが、わずかに前進した。
俺はすかさず次の解析コマンドを打ち込み、抽出処理を走らせた。
深夜の修理工場には、サーバーの冷却ファンが放つ低い唸り声と、キーを叩く乾いた音だけが響き渡る。解析ツールが膨大なログデータの海を泳ぎ、モニターには緑色の文字列が滝のように流れ続ける。結衣の遺した暗号化領域は、並の技術では到底太刀打ちできないほど強固なプロテクトで守られた状態だ。
俺は隣に置いた別のモニターへ視線を移した。そこには、ビデオカメラで録画したアカリの日常的な失敗行動が映し出されたままだ。
お茶を淹れようとして湯呑みを倒す時の、手首の不自然な角度。掃除用具を片付けようとしてモップを床に落とす際の、奇妙な間隔。洗濯物を畳む時に、必ず三回目で袖を落とす動作。特定の家事において、彼女は謎のリズムや規則性を伴って失敗を繰り返す。
ただのポンコツな挙動ではない。結衣が意図的に組み込んだ、暗号化領域を開くための物理パスワードの断片だ。俺はそのパターンを抽出し、波形データに変換して当てはめる作業を延々と続ける。
なぜ結衣は、こんな回りくどい方法をとったのか。誰から、何を隠そうとしたのか。柚木の言葉が脳裏をよぎる。会社の利益に反する危険な思想。その真実に辿り着くため、俺は次の一手を打たなければならない。
画面の中で慌てふためくアカリを見つめながら、ふと過去の記憶が蘇る。
娘を事故で亡くし、絶望の中で無気力に生きた俺。機械を直すことだけが、唯一の現実逃避だった。あの日、部品を漁るために訪れた廃棄区画は、酸性雨の匂いと錆びた金属の山に覆われた場所だった。
泥濘の中で、泥にまみれた旧式のアンドロイドを拾い上げた。完全に機能停止したガラクタだったが、見捨てることができず、気まぐれに持ち帰り、作業台の上で再起動させたのだ。
目覚めた彼女は、俺を親として慕い始めた。困惑しつつ製造記録を調べると、設計者に結衣の名前があり、呼称設定が親に限定された事実に驚愕した。
俺はその機体をアカリと名付け、不器用で騒がしい共同生活を始めた。初めて味噌汁を作ろうとして鍋を焦がし、洗濯機に洗剤を丸ごと投入して泡だらけになったこともあった。その度に俺は頭を抱えたが、予期せぬ同居人の登場により、俺の止まった時間が再び動き出したのだ。
「おい宗一、また随分と熱心だな」
背後から唐突に声が掛かり、俺は肩を揺らして振り返った。
源蔵が工場の入り口に立ち、ニヤニヤと笑みを浮かべたまま中を覗き込む。手には差し入れらしき缶コーヒーの袋がぶら下がる。
「親父か。何の用だ。今は取り込み中だぞ」
「近くまで来たから寄っただけだ。ほれ、夜食代わりの糖分補給だ」
源蔵は袋を作業台の端に放り投げ、俺の顔をまじまじと見つめた。
「以前のような生気を取り戻したようで何よりだぜ。一時期は死んだ魚のような目をしやがって、声を掛けるのも躊躇われたからな」
「余計なお世話だ。俺はただ、やるべきことを見つけただけだ」
「強がるなよ。何かに熱中する姿を見るのは久しぶりだ。だが、無理はするなよ」
源蔵は嬉しそうに俺の肩を叩き、奥の部屋で眠るアカリの方へ視線を向けた。
「あの嬢ちゃん、今日も商店街の入り口で見事に転んだぜ。相変わらずのポンコツぶりだが、あいつがいると場が明るくなる。お前さんが元気になって、あいつも喜ぶだろうさ。じゃあな、邪魔したな」
それだけ言い残し、源蔵は嵐のように去っていった。
夜が深まり、工場内の空気が一段と冷え込む。
奥の部屋から、アカリが足音を忍ばせて出てきた。その手には、作業台の奥にしまってあった古い木箱が抱えられた状態だ。娘が幼い時分に愛用した、ゼンマイ仕掛けの小箱だ。蓋には色褪せた花の彫刻が施され、角はすり減る。結衣が子供の頃、その音色を聴きながら眠りについた思い出の品だった。
「父さん、これ、直してみます」
彼女は一生懸命な表情で、小さなドライバーを握りしめた。俺の役に立とうと、夜な夜な修理に挑むのが日課となる。
「無理するな。お前の手先じゃ、細かい部品をなくすぞ」
「大丈夫です。わたし、やれますから。父さんに喜んでもらいたいんです」
その純粋な言葉が、冷え切った胸の奥にじんわりと染み渡る。娘を喪った悲しみから逃げるように心を閉ざした俺を、この不器用な機械の少女は何度も救ってくれた。
アカリは不器用な手つきで小箱の蓋を開けようとする。カチャリ、カチャリ。一定のテンポで金属音が響く。
だが、次の瞬間、彼女の手から小さな歯車が滑り落ちた。
チリン、チリン。
床を転がる乾いた音が、静かな工場に響き渡る。
「あっ……すみません」
アカリが慌てて床を這い回る。俺はその動きから目を離せなかった。
小箱を触る際の手の動き。歯車を落とすまでの間隔。床を転がる音のテンポ。
それは、録画データから抽出した謎のリズムと完全に一致した。
「……これだ」
俺は勢いよく立ち上がり、アカリの手から小箱を取り上げた。
結衣は、俺がこの小箱を大切に保管し、アカリがそれに触れる未来を予測したのか。いや、違う。これは結衣からの、俺たちへの挑戦状であり、同時に願いなのだ。
「父さん? わたし、また失敗を……」
「お前はそのまま、そこに座っておけ。動くなよ」
俺はアカリの首元にあるポートを開き、PCへの接続ケーブルを差し込んだ。
「ひゃっ、くすぐったいです」
「我慢しろ。すぐに終わる」
解析ツールを立ち上げ、記録したリズムと、小箱修理時の動きをパスワードとして入力する。16進数の羅列が画面を埋め尽くし、ハッシュ関数の突破を試みる。
一度目の試行。画面には赤いエラーメッセージが表示された。
「弾かれたか」
一筋縄ではいかない。試行錯誤の過程が必要だ。リズムの波形を反転させ、入力のタイミングをコンマ数秒ずらす。
二度目の試行。再びエラー。警告音が工場内に響き渡る。画面の隅には、ロックアウトまでのカウントダウンが表示された。あと数回間違えれば、データが完全に消去される危険性がある。
焦りで額に汗が滲む。もし失敗すれば、結衣の遺した真実はおろか、目の前にいるアカリの人格すら失うかもしれない。
アカリが不安げに俺の袖を引いた。
「わたし、何か悪いことをしましたか。ご迷惑をおかけしたなら……」
「いや、お前は何も悪くない。むしろ手柄だ。お前のおかげで、最後のピースが見つかった」
俺はキーボードを叩き続ける。小箱のゼンマイを巻く動作。歯車が落ちる瞬間のテンポ。それらを組み合わせ、波形をミリ秒単位で調整する。
三度目の入力を実行した。
エンターキーを叩く音が、やけに大きく響いた。
画面のプログレスバーが止まり、一瞬の静寂が訪れる。
次の瞬間、画面が青く発光し、プログレスバーが急速に伸びていく。
システムが反応し、強固なプロテクトの第一層が解除された。
スピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れ出す。
『……父さん、聞こえますか』
結衣の声だった。
俺は息を呑み、モニターを食い入るように見つめた。確かな前進の手応えが、胸の奥で熱く脈打つ。
結衣が遺したメッセージの内容とは、一体何なのか。




