第10話
『父さん、許してね』
ノイズの奥から響いたのは、たったそれだけの短い言葉だった。
スピーカーからの音声はそこでプツリと途切れ、無機質な電子音だけが室内に残る。俺はモニターを見つめたまま、瞬きすら忘れていた。
許してね。
その一言が、乾ききった胸の奥底を鋭く抉る。結衣は何を謝ろうとしたのか。俺を置いて逝ってしまったことか。それとも、この厄介な暗号化領域に隠された秘密についてか。
画面上のプログレスバーは完全に停止し、次のパスワード入力を待つ待機状態へと移行した。キーボードを叩いて再度音声を再生しようと試みるが、システムは無情にもアクセス拒否のエラーを返す。これ以上のデータは、次のロックを解除しない限り引き出せない。
結衣の最期の言葉。それをすべて聞くためには、アカリのメモリを初期化しなければならない。その残酷な条件が、再び俺の胸に重くのしかかる。
視界が急にぼやけ始めた。奥歯を強く噛み締めても、頬を伝う熱い雫を止めることができない。
娘の死を受け入れられず、ただ機械をいじることで現実から目を背けてきた。だが、こうして直接声を聞かされると、押し殺していた感情が一気に決壊する。
「父さん、泣かないでください」
不意に、横から小さな手が伸びてきた。
アカリが俺の顔を覗き込み、不器用な手つきで頭を撫でてくる。少しサイズの合わない作業着の袖が、俺の肩に触れた。
「わたしの視覚センサーは、あなたの目から液体が分泌されるのを検知しました。これは、人間の悲しみという感情表現だと学習しました」
「……ああ、そうだ。悲しいんだよ」
「わたしが、その悲しみを消去します。あなたが悲しむと、わたしの胸の奥も、なんだかギュッと痛くなりますから」
彼女の独特なイントネーション。生前の結衣とは微妙に違う声のトーン。だが、俺を心配して懸命に寄り添おうとするその姿は、かつての娘の面影と確かに重なる。
俺はたまらず、アカリの華奢な肩を引き寄せ、強く抱きしめた。
「……違う。お前は何も悪くない。俺が、少し昔を思い出しただけだ」
金属の硬い感触と、微かなモーターの駆動音。それは人間の体温とは程遠い。それでも、俺の腕の中にいるこの小さな同居人は、間違いなく俺の心を温めてくれた。
「昔のこと、ですか」
アカリは俺の胸に顔を埋めたまま、不思議そうに首を傾げる。
「ああ。俺が不甲斐ないばかりに、大切なものを守れなかった昔の話だ。だが、今は違う」
俺は彼女の肩から手を離し、その泥と油で汚れた頬を軽く拭った。
「お前が暗号のヒントをくれたおかげで、一歩前に進めた。手柄を立てたんだから、もっと胸を張れ」
「はいっ。わたし、もっともっとお役に立てるように頑張ります」
アカリは満面の笑みを浮かべ、勢いよく頷いた。その笑顔を見るだけで、俺の胸に渦巻いていた暗い感情が少しずつ薄れていくのを感じた。
◆ーーーー◆
翌朝、工場にはいつも通りの騒がしい日常が戻ってきた。
台所の方から、ジューッという激しい音と焦げ臭い匂いが漂ってくる。
「ああっ、目玉焼きが炭素の塊に変化しました!」
慌てて駆けつけると、アカリがフライパンを片手にオロオロと立ち尽くしていた。コンロの火力が最大になっており、卵は見事に真っ黒焦げだ。
「火加減を間違えたな。貸してみろ」
俺はため息をつきながらコンロの火を弱め、新しい卵を割って手本を見せる。
「料理は火力と時間の計算だ。お前の得意分野だろう」
「理論上は理解できるのですが、実際の物理演算が追いつきません。わたしの腕のサーボモーターが、微妙な返しを拒絶するのです」
「言い訳はいっちょ前だな」
出来上がった目玉焼きを皿に移し、二人で食卓に向かう。味覚センサーを持たないアカリは食事をしないが、俺が食べる姿を向かいの席で嬉しそうに観察するのが日課となっていた。
「美味しいですか、父さん」
「ああ、悪くない」
短く答えてコーヒーをすする。アカリは満足そうにモーターを唸らせた。
娘を事故で亡くし、絶望の中で無気力に生きていた日々。あの日、廃棄区画のゴミ山で泥にまみれた旧式機を見つけ、気まぐれに再起動させた。
目覚めた彼女が俺を父親として慕い、製造記録の設計者欄に結衣の名前を見つけた時の驚愕。呼称設定がただ一つに限定されていた事実。
それらがすべて、遠い昔の出来事のように感じられる。
アカリと名付けたこのポンコツ機との不器用な共同生活が始まり、俺の止まっていた時間は再び動き出した。彼女が失敗するたびに世話を焼き、笑い合い、時には怒る。そんな当たり前の感情の起伏が、俺の中に人間らしさを取り戻させてくれた。彼女はただの機械ではない。結衣が遺してくれた、俺の新しい家族だ。
過去の悲しみに囚われるのはもうやめよう。結衣のメッセージの続きを知ることも重要だが、何よりも優先すべきは、今目の前にいるアカリとの日常を守り抜くことだ。
食後、アカリは意気揚々と掃除に取り掛かった。
「今度こそ完璧にこなしてみせます」
モップを握り直すアカリ。しかし、勢い余ってバケツに足を引っかけ、今度は盛大に水をぶちまけた。
「あわわわ、水が、水が広がっていきます」
「馬鹿、基板の方に流すな。タオルを持て、タオルを」
二人で床に這いつくばり、必死に水を拭き取る。朝からドタバタと騒ぎ立てるこの状況に、俺は思わず苦笑を漏らした。
「父さん、わたしの顔に何かついていますか」
「いや。お前は本当に、手のかかる奴だと思ってな」
「うぅ……精進します」
肩を落とすアカリの頭を、俺は軽く小突いた。
「気にするな。そのままでいい」
その言葉に、アカリはパッと顔を輝かせた。
◆ーーーー◆
その日の夜。
シャッターを下ろし、作業台の照明だけを残して基板のメンテナンスを進める。アカリは部屋の隅で、充電ケーブルを繋いだままスリープモードに入っていた。
規則正しい冷却ファンの音が、静かな室内に響く。
不意に、工場の裏口から控えめなノックの音が響いた。
こんな時間に誰だ。源蔵か、それとも辰巳か。
レンチを片手に警戒しながら裏口のドアを開けると、暗闇の中に眼鏡をかけた小柄な女性が立っていた。
「……柚木か。こんな夜更けに何の用だ」
彼女は周囲を素早く見回し、声を潜めて口を開く。その表情は、いつになく強張っていた。
「単刀直入に言います。霧島課長が、ついに強硬手段に出る準備を始めました」
「強硬手段だと?」
「はい。アカリの回収に手間取る状況に業を煮やし、機密保持のために特殊機体を投入するつもりです。『ノヴァ』と呼ばれる、戦闘と制圧に特化したモデルです」
柚木の言葉に、俺は眉をひそめた。
「なぜあんたがそれを俺に教える。あんたも霧島の手先だろう」
「私は……」
柚木は唇を噛み、手元のタブレットを強く握りしめる。
「私は、結衣先輩の技術に純粋な憧れを抱いていました。先輩が遺したものを、組織の都合で破壊するようなやり方は、どうしても見過ごせません」
彼女の瞳には、上司への忠誠と自身の良心の間で揺れ動く葛藤が浮かぶ。完全に味方になったわけではない。だが、その警告が嘘ではないことだけは伝わってきた。
「ノヴァってのは、そんなにヤバいのか」
「軍事用のプロトタイプをベースにした機体です。装甲は特殊合金で覆われ、通常の物理攻撃は通用しません。この工場に隠れていても、すぐに見つかるでしょう。早く彼女を連れて逃げて……」
柚木が言いかけたその瞬間。
バツン、という鈍い音と共に、工場の照明がすべて消え去った。
周囲の街灯すらも落ち、完全な暗闇と不気味な静寂が辺りを包み込む。
スリープモードだったはずのアカリが、非常電源に切り替わり、赤い警告ランプを点滅させて立ち上がる。
「父さん、外部から強力なジャミング電波を検知しました。通信ネットワークが遮断されました」
「柚木、あんたは下がっていろ」
俺は作業台の下から大型のレンチを引き抜き、暗闇の奥を睨みつけた。




