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第11話

俺は作業台の下から大型のレンチを引き抜き、暗闇の奥を睨みつけた。


工場の電源が落ちただけでなく、窓の外に見えていた街灯すらも完全に沈黙している。


作業台の上のオシロスコープが火花を散らして沈黙し、天井の蛍光灯が完全に息絶えた。圧倒的な闇。そして、耳鳴りがするほどの静寂。


柚木が息を呑んで後ずさる気配が、すぐ背後から伝わってきた。彼女の浅い呼吸音が、やけに大きく聞こえる。


「通信ネットワークが完全に遮断されました。外部への連絡は不可能です」


柚木の震える声が、絶望的な状況を告げる。彼女は壁際に身を寄せ、タブレットを抱え込むようにして震えている。組織の恐ろしさを誰よりも知っているからこその恐怖だろう。


「父さん、非常時マニュアルを実行します。足元の障害物を排除し、安全な退路を確保します」


暗闇の中、アカリの赤い警告ランプだけが心臓の鼓動のように点滅していた。


彼女は俺の前に出ようと、ぎこちない動作で一歩を踏み出す。


だが、強力なジャミング電波の影響で、空間認識センサーが完全に狂っているらしかった。アカリは明後日の方向へ歩き出し、床に置かれていた工具箱に思い切り蹴りを入れた。


ガシャーン、と鋭い音を立てて、金属部品がコンクリートの床に散乱する。


「……何やってんだ、お前」


「す、すみません! すぐに片付けます!」


アカリは慌ててしゃがみ込み、手探りでボルトやナットを拾い集めようとする。


「こんな時に掃除なんかしてる場合か!」


「ですが、足元が散らかっていては、父さんが逃げる時に転んでしまいます。わたしが、安全な道を確保しますから」


焦るあまり今度は自分の足にもつれ、派手に転倒した。


鈍い音が響き、彼女の小さな体が床に転がる。


「痛っ……でも、大丈夫です。すぐに片付けますから」


こんな極限状態だというのに、こいつは俺のことばかり考えている。機械ゆえのズレた行動。呆れるほどのポンコツぶりだ。


だが、その無垢で不器用な姿が、冷え切っていた俺の胸の奥に確かな熱を灯していく。


最愛の家族を喪い、ただ息をして、廃棄区画でガラクタを漁るだけだった無気力な日々。そんな空っぽの俺を、こいつの騒がしい失敗が少しずつ埋めてくれたのだ。


俺はもう一度、父親としてこいつを守る。


レンチを握る手に、かつてないほどの力がみなぎった。


「アカリ、俺の後ろに隠れていろ」


「ですが……」


「いいから、言う通りにしろ」


俺はアカリの細い肩を掴み、強引に自分の背後へと引き寄せた。その肩は、驚くほど華奢で、そして温かかった。機械のはずなのに、そこには確かな体温のようなものがあった。


再び暗闇の奥へと意識を集中させる。


柚木が震える声で警告を発した。


「無茶です。相手は軍事用のプロトタイプですよ。生身の人間が敵う相手じゃありません」


「だからって、黙ってこいつを渡すわけにはいかねえだろ」


俺は短く返し、レンチの柄を強く握り直した。


手のひらに滲んだ汗が、冷たい鉄の感触を際立たせる。


ズン、と重い足音が響いた。


それはすぐ目の前のシャッターの向こう側から聞こえた。地鳴りのような低い振動が足元を揺らす。


次の瞬間、分厚い鉄のシャッターが、まるで薄い紙のように内側へひしゃげた。


金属が引き裂かれる鼓膜を突く音。固定されていたレールが吹き飛び、巨大な鉄板が紙屑のように丸まって床に転がる。


外の月明かりが、土足で踏み込むように工場内へと差し込んだ。


舞い上がる粉塵の向こうに、一つのシルエットが浮かび上がる。


「あれが……ノヴァ……」


柚木が絶望に染まった声を漏らした。


そこに立っていたのは、アカリと似た背丈の少女型アンドロイドだった。


銀色の髪が月明かりに反射し、冷たい光を放っている。関節部の駆動音すら一切しない。まるで幽霊のように、音もなくそこに立っていた。


だが、その瞳には一切の感情がない。


冷たい人工的な光だけが、暗闇の中で不気味に輝いている。装甲は滑らかで、一切の無駄がない。旧式のアカリとは対極にある、洗練された暴力の結晶だった。


「対象の回収、および障害の排除を実行する」


ノヴァの声は、ひどく無機質で平坦だった。


そこに敵意や殺意すらない。ただプログラムされた命令を遂行するだけの、純粋な機械の音声だ。


「逃げて……宗一さん、早く……!」


柚木が悲鳴のような声を上げるが、逃げ道などどこにもない。


俺は地を蹴り、ノヴァに向かって踏み込んだ。


「やらせるかよ!」


渾身の力でレンチを振り下ろす。


肩から腕、そして手首へと、全身のバネを連動させてレンチを振り抜く。長年、固く締まったボルトを外し続けてきた俺の腕力だ。並の金属なら容易くひしゃげるはずだった。


狙うのは頭部。鉄の塊を砕く勢いだった。


だが、ノヴァは視線すら動かさず、ただ左手を軽く持ち上げただけだった。


ガィン、と硬質な音が響き、レンチが空中でピタリと止まる。


「なっ……」


鈍い衝撃が腕を伝い、手首が痺れた。


ノヴァの細い腕は、微塵も揺らいでいない。まるで巨大な岩壁を叩いたかのような、絶望的な硬さだった。


「物理的抵抗を確認。排除します」


ノヴァの足が動いたことすら見えなかった。


視認することすら不可能な速度。次の瞬間、俺の体は宙を舞っていた。


腹部にめり込んだ衝撃が、内臓を直接かき回すような激痛に変わる。背中から機材の山に激突し、肺から空気が強制的に吐き出された。


「がはっ……」


視界が明滅する。


全身の骨が軋み、激痛が走る。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。


「父さん!」


アカリの悲鳴が聞こえた。


ノヴァは倒れ伏す俺を一瞥もせず、アカリへと歩み寄る。その足取りには、一切の躊躇がない。


「旧式機。非効率なバグの塊。システムへの干渉を開始します」


ノヴァが手をかざすと、アカリの機体が激しく痙攣し始めた。


物理的な接触はない。近距離からの強力なシステム干渉だ。ノヴァの手のひらから、目に見えない高周波の波紋が放たれているかのようだった。周囲の空気がビリビリと震え、俺の耳の奥で不快な耳鳴りが響く。


「あ……あああっ!」


アカリの口から、耳障りなノイズが漏れる。


赤い警告ランプが狂ったように点滅を繰り返す。


「やめろ……!」


俺は這いつくばりながら手を伸ばす。


指先が床を掻きむしり、爪が割れて血が滲む。アカリの機体から、焦げ臭い匂いが漂い始める。内部の回路が焼き切れる寸前なのだ。


それでも彼女は、俺を庇うように両手を広げた。


「父さんに……近づかないで……!」


「理解不能。対象の行動ロジックに致命的なエラーを検知」


ノヴァの冷酷な宣告と共に、アカリの目から光が失われていく。


「不要な感情シミュレートを検知。削除します」


関節から火花が散り、システムが強制的にシャットダウンされていくのが分かった。


「わたしは……父さんの、えがおを……」


その言葉を最後に、アカリの膝が折れた。


乾いた音を立てて、アカリが冷たいコンクリートの床に崩れ落ちる。


彼女の体から、最後の排熱音がため息のように漏れた。


「アカリ!」


喉から血の味がした。


這いずってアカリのそばに寄り、その肩を揺さぶる。


だが、反応はない。動力源の低い駆動音すら聞こえなくなっていた。完全に沈黙している。


ノヴァはピクリとも動かなくなったアカリを見下ろし、自身の側頭部に触れた。


「対象の無力化を完了。回収部隊を要請します」


ノヴァは通信を終え、アカリの傍らで彫像のように静止した。


俺はボロボロになった腕で、冷たくなったアカリの機体を抱き寄せた。


腕の中で、アカリの体温が急速に失われていくのが分かる。ただの機械の排熱だ。そう頭では理解していても、まるで本物の命が消えていくような錯覚に陥る。


俺はまた、失うのか。何もできず、ただ見ていることしかできないのか。


圧倒的な暴力の前に、俺は何もできなかった。


守ると決めたはずの日常が、指の間からこぼれ落ちていく。ただ、静かな絶望だけがそこにあった。


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