第12話
ひしゃげた装甲から漏れ出す冷却液が、俺の膝を冷たく濡らしていく。
圧倒的な暴力の前に、俺は何もできなかった。
守ると決めたはずの日常が、指の間からこぼれ落ちていく。ただ、静かな絶望だけがそこにあった。
冷たくなった金属の体を、俺は強く抱きしめた。
油と埃の匂いに混じって、焦げた配線の鼻を突く異臭が漂う。
ノヴァは彫像のように静止したまま、頭部の赤いセンサー光だけを不気味に明滅させていた。回収部隊が到着するまでのわずかな時間、システムを待機モードに移行させたらしい。
俺の腕の中で、アカリの機能停止を知らせる微かな電子音が鳴り止んだ。
胸部から伝わっていた微弱な振動も消え、排熱の温もりすら失われ、ただの冷たい鉄の塊へと変わっていく。
このまま奪われるのを待つのか。
奥歯を噛み締め、血の味が滲む口内で息を吐く。傍らに転がっていたレンチに手を伸ばし、立ち上がろうとした。
その矢先だった。
鼓膜を突き破るような高周波のノイズが、薄暗い工場内に響き渡る。
ノヴァの巨大な機体がビクンと痙攣した。赤いセンサー光が乱反射し、関節部から青白い火花が散る。無機質な足音が不規則に鳴り、やがて完全にフリーズした。
まるで目に見えない巨大な手に押さえつけられたかのように、その場に縫い止められている。
「……なんだ?」
「彼女を助けたいなら急ぎなさい」
背後から声がした。
振り返ると、ひしゃげたシャッターの隙間から差し込む月明かりの中に、よれよれの白衣を着た老紳士が立っていた。
温和な顔立ちだが、その目は鋭くノヴァの挙動を観察していた。手には小型の送信機のようなものを握りしめていた。
白髪交じりの髪が夜風に揺れ、彼の足元には破壊された工場の瓦礫が散乱している。
「強力な電磁パルスで一時的にシステムを麻痺させました。ですが、長くは持ちません。数分で再起動するはずです」
老紳士は踵を返し、出口へと歩き出した。
「来なさい。逃げる手はずは整えてあります」
誰だか分からない。霧島の差し金かもしれないし、別の組織の罠かもしれない。
だが、ここに留まれば確実にアカリは解体される。
俺はレンチを放り捨て、動かなくなったアカリの体を背負い上げた。ずっしりとした金属の重みが、肩に食い込む。
老紳士の背中を追い、破壊されたシャッターを潜り抜けた。
◆ーーーー◆
工場の裏手には、古びた黒いバンがエンジンをかけたまま停められていた。
後部座席にアカリを横たえ、俺もその横に滑り込む。老紳士が運転席に乗り込むと、バンはタイヤを軋ませながら夜の闇へと走り出した。
街灯のオレンジ色の光が、一定の間隔で車内を照らしては消えていく。
俺は荒くなった息を整えながら、運転席の背もたれを睨みつけた。
「あんた、何者だ。どうして俺たちを助けた」
老紳士は前方を向いたまま、静かに口を開いた。
「申し遅れました。私は柴田。しがないAI研究者であり……結衣君の恩師にあたる人間です」
結衣の恩師。
その言葉に、俺は息を呑んだ。
娘の名前がこんな形で出てくるとは思わなかった。
死んだはずの結衣の影が、再び俺の前に立ち塞がったような錯覚を覚える。
「結衣を知る関係だったのか」
「ええ。彼女は私の研究室で、誰よりも優秀な学生でした。そして、その機体……アカリという名でしたね。彼女が遺した『未完成のプロジェクト』の試作機です」
柴田はハンドルを切りながら、淡々と語り続ける。
結衣は大手ロボットメーカーで、特殊なAIコアの開発に携わっていた。それは従来の感情シミュレートを超え、人間との関係性の中で自己進化を遂げるという、極めて野心的な試みだったらしい。
彼女は毎晩遅くまで研究室に残り、膨大なデータと格闘していたと柴田は振り返る。
「彼女は、機械と人間が本当の意味で心を通わせる未来を信じていました。単なる主従関係ではなく、共に成長し、記憶を共有する存在。その集大成が、あなたの隣にいる機体です」
俺は横たわるアカリの顔を見下ろした。
泥だらけで拾ったあの日から、ずっと俺のそばで笑い、失敗し、それでも懸命に寄り添おうとしてくれた。
あれはただのプログラムの暴走じゃなかったのか。結衣が、この機体にそんな想いを託していたなんて。
胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
「だが、今は動かない。あの化け物に攻撃されてから、完全に沈黙したままだ」
俺の言葉に、柴田は小さく息を吐いた。
バンが人通りのない高架下に入り、ゆっくりと停車する。
柴田は運転席から降り、後部座席のドアを開けた。手提げ鞄から携帯型の診断端末を取り出し、アカリの首筋にあるポートにケーブルを接続する。
画面に無数の文字列が滝のように流れていく。
柴田の表情が、わずかに険しくなった。
「……やはり。ノヴァのハッキングによって、AIコアの深層に致命的なダメージを受けています」
「直せるのか。あんたなら、結衣の恩師ならなんとかできるだろ」
すがるような声が出た。
自分でも驚くほど、必死だった。
柴田は端末から目を離し、静かに俺を見据えた。
「物理的な修復は可能です。しかし、システム領域の破損が深刻すぎる。このままでは、コアそのものが崩壊します」
「どうすればいい。部品なら俺がいくらでも集めてくる。金だって、なんとかする」
「部品の問題ではありません。システムを安定させ、結衣君が遺した深層メモリのロックを完全に解除するためには、一つの手順を踏む必要があります」
柴田は端末の画面を俺に向けた。
画面中央で、赤く点滅する警告ウィンドウが表示されていた。
英語の羅列の中に、見慣れた単語が一つだけ混ざっていた。
「アカリの現在のAIデータを『初期化』するのです」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……初期化?」
「はい。工場出荷時の状態に戻し、破損した学習データをすべて破棄する。そうすればコアは安定し、結衣君の最期のメッセージにもアクセスできるようになるでしょう」
頭の中が真っ白になった。
学習データを破棄する。
それはつまり。
「待てよ。それじゃあ、あいつの記憶はどうなる。俺と一緒に過ごした日々の記録は」
「消えます。すべて」
柴田の言葉は、冷徹なまでに響いた。
一切の感情を交えない、科学者としての事実の宣告。
「再起動したとき、彼女はあなたを認識しない。ただのまっさらな機械に戻ります」
胃の奥が急速に冷えていく。
俺はアカリの冷たい手を握りしめた。
不格好なエプロン姿で、俺のために味噌汁を作ろうとして鍋を焦がしたこと。
夕暮れの帰り道で、俺の袖を掴んで歩いたこと。
俺を慕い、不器用な笑顔を向けてくれたあの日々が、すべて無かったことになる。
ただのデータだと言われればそれまでだ。だが、俺にとっては、確かに息づいていた新しい家族の形だった。
「ふざけるな……。そんなこと、できるわけがないだろう」
「結衣君の遺言を知るためには、それしか方法がないのです」
柴田は端末を閉じ、深くため息をついた。
「彼女のプロジェクトを狙う連中は、また必ず追ってきます。決断に残された時間は多くありません」
バンの中は、息が詰まるほど静かだった。
窓の外では、遠くを走る車の走行音がくぐもって聞こえる。
結衣が遺した最期の言葉。
俺がずっと囚われ続けてきた、過去の亡霊。
それを手に入れるためには、今目の前にある温かな繋がりを、俺自身の手で殺さなければならない。
「娘の遺言か、この機体の記憶か。選べるのは一つだけです」
柴田の言葉が、重い鉛のようにのしかかる。
俺はアカリの眠るような顔を見つめた。
指先が震えた。
どちらを選んでも、俺はまた大切なものを失う。
暗闇の中で、ただ静かな不安だけが俺を包み込んでいた。




