第13話
バンが止まったのは、廃棄区画のさらに地下深く、かつて地下鉄の保守通路として使われたという古いシェルターだった。
コンクリートむき出しの壁は湿気を帯び、カビと機械油の匂いが混ざり合って鼻を突く。天井の裸電球が頼りなく揺れ、薄暗い空間に長い影を落とした。
「ここは昔、私が研究用の隠れ家として使った場所です。しばらくは追手の目も誤魔化せるでしょう」
柴田が部屋の隅の配電盤を操作すると、古びた換気扇が鈍い唸り声を上げて回り出した。
俺は部屋の中央に置かれた簡易ベッドに、動かないアカリを静かに横たえた。
泥と埃にまみれた外装。ひび割れた関節。ノヴァの攻撃を受けたAIコアは致命的なダメージを負い、今は完全に沈黙を保つ。
冷たくなった小さな手を両手で包み込んだ。
金属の硬い感触だけが掌に伝わる。つい数時間前まで、この手は俺の袖を不器用に掴み、温かな体温を錯覚させるほどの熱を持った。
『娘の遺言か、この機体の記憶か。選べるのは一つだけです』
車内で柴田が告げた言葉が、呪いのように頭の中で反響を繰り返す。
アカリのメモリ深層に隠された、結衣の最期のメッセージ。
俺がずっと囚われ続け、答えを求め続けた過去の亡霊。娘はあの時、何を思い、何を伝えたかったのか。それを知ることは、止まった俺の時間を動かす唯一の鍵かもしれない。
だが、その鍵を手に入れるための代償は、あまりにも残酷だった。
アカリのAIを初期化する。
それは、俺と一緒に過ごした日々の記憶を、彼女の人格ごと完全に消去することを意味する。
俺を慕い、失敗ばかりしながらも懸命に家事を手伝おうと奮闘した。夕暮れの帰り道で手を繋ぎ、一緒に笑い合った。ただの機械だと頭では分かっても、確かに息づいた新しい家族の形。
それを、俺自身の手で殺さなければならない。
「……ふざけるなよ」
掠れた声が喉の奥から漏れた。
どちらを選んでも、俺はまた大切なものを失う。過去の執着を捨てるか、今の温もりを捨てるか。そんな究極の二者択一を、どうして選べるというのか。
指先が震え、アカリの手を強く握りしめた。
どれだけ考えても、答えなど出るはずがない。ただ、じわじわと迫り来る喪失の恐怖だけが、俺の心を黒く塗りつぶしていく。
◆ーーーー◆
数時間後、重い鉄扉が軋む音を立てて開いた。
警戒して身構える俺の前に姿を現したのは、大きな風呂敷包みを抱えたトヨだった。
「……女将さん」
「柴田の先生から連絡をもらったんだ。急いで物資をかき集めてきたよ」
トヨは息を切らしながら、風呂敷をテーブルの上に置いた。中には水や保存食、それに厚手の毛布が詰め込まれた。
彼女はベッドに横たわるアカリに目を向け、小さく息を呑んだ。
「ひどい有様だね……。あんなに元気に走り回ったのに」
トヨはそっとアカリの頬に触れ、悲しげに目を伏せた。近所の食堂で、孫のようにアカリを可愛がったトヨにとっても、この姿は直視しがたいものだろう。
「追手が来る前に、決断しなければならないんです」
少し離れた場所で端末を操作する柴田が、静かな声で言った。
「ノヴァの干渉によって、彼女のAIコアは崩壊寸前です。このまま放置すれば、初期化すら不可能になり、結衣君のデータもろとも完全に消滅してしまう」
柴田の言葉に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
タイムリミットは刻一刻と迫りつつある。逃げ続けるだけでは、アカリを救うことはできない。
トヨはゆっくりと振り返り、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。
「あんたが今、一番大事にしたいものは何だい?」
その問いかけは、ひどく優しく、そして残酷だった。
一番大事にしたいもの。
結衣が遺した真意を知りたい。父親として、娘の最期の思いを受け止めなければならないという強い責任感がある。
だが、同時に、今目の前で冷え切ったこの小さな家族を失いたくない。
「俺は……」
口を開きかけたが、言葉が続かない。
喉の奥がカラカラに乾き、息をするのすら苦しい。
「分からないんだ。結衣の言葉を聞けば、俺は前に進めるのかもしれない。でも、そのためにこいつの記憶を消したら……俺は一生、自分を許せない」
両手で顔を覆い、深く俯いた。
無力感が全身を重く沈ませていく。どれだけ機械を直す腕があっても、俺は自分の大切なもの一つ守ることができない。
トヨは何も言わず、ただ俺の背中を優しくさすった。その温もりが、かえって俺の惨めさを浮き彫りにするようだった。
◆ーーーー◆
トヨがシェルターを去った後、再び重い静寂が降りてきた。
柴田は部屋の隅で仮眠を取り始め、俺は一人、アカリのベッドの傍らに座り続けた。
冷たいコンクリートの床から這い上がってくる冷気が、足元から体温を奪っていく。
ピーッ、という短い電子音が鳴り、アカリの胸部にあるインジケーターが微かに明滅を始めた。
「……アカリ?」
俺は弾かれたように顔を上げ、ベッドに身を乗り出した。
閉じたまぶたがゆっくりと開き、視覚センサーに淡い光が灯る。だが、その光はひどく弱々しく、焦点も全く合わなかった。
システムが一時的に再起動したのか。あるいは、崩壊前の最後の足掻きなのか。
アカリの口元が微かに動き、ノイズ混じりの音声が漏れ出した。
「……笑って……」
独特のイントネーション。生前の結衣とは微妙に違う、俺が愛おしく感じたあの声。
「わたし、お役に立ちたいです」
その一言だけを呟き、視覚センサーの光がふっと途切れた。
インジケーターの明滅が止まり、再び深いスリープ状態へと落ちていく。
「アカリ……おい、アカリ!」
肩を揺さぶっても、二度と反応が返ってくることはない。
『わたし、お役に立ちたいです』
その言葉が、鋭い刃となって俺の胸を深くえぐった。
こいつは、自分が壊れかけたこんな状態でも、俺の笑顔を守ろうとする。与えられた役割を最後までやり遂げようと、必死にシステムを繋ぎ止めたのだ。
俺はアカリの冷たい手を握りしめ、ベッドの縁に額を押し当てた。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
直後、アカリの機体からシステムエラーの警告音が鳴り始めた。
無機質で冷たい音が、シェルターのコンクリート壁に反響し、虚しく響き渡る。
AIコアの崩壊が最終段階に入った合図だ。
残された時間はもうほとんどない。
霧島の放った追手は、確実にこの場所へと迫りつつあるはずだ。彼らに見つかれば、アカリは強制的に回収され、結衣のデータもろとも闇に葬られる。
逃げ場はない。
決断を先延ばしにすることは、もはや許されない。
だが、俺の手は震えたまま、初期化のコマンドを入力するための端末に伸ばすことができない。
警告音だけが、暗闇の中で等間隔に鳴り続ける。
俺はただ、その音を聞きながら、底なしの絶望と静かな不安の中に沈んでいくことしかできなかった。




