第14話
警告音だけが、暗闇の中で等間隔に鳴り響く。
俺はただ、その無機質な音を聞きながら、底なしの絶望と静かな不安の中に沈むことしかできなかった。
カビと埃の匂いが充満した地下シェルター。天井のひび割れからは定期的に水滴が落ち、冷たいコンクリートの床に小さな水たまりを作った。外界から完全に遮断されたこの空間は、まるで世界の終わりから取り残された墓標のようだ。
手元の端末画面では、柴田からのテキストが赤い文字で点滅を繰り返す。
『このままでは初期化すら不可能になり、完全にコアが焼き切れる』
結衣の元同僚である篠原から聞かされた言葉が、頭の中で何度もリフレインした。アカリは、結衣が心血を注いだ未完成プロジェクトの試作機だ。そのメモリの深層には、結衣からの最後のメッセージが厳重にロックをかけられた状態で眠る。
結衣は、一体何を伝えたかったのか。なぜ、こんな複雑な仕掛けを施したのか。優秀な技術者だった娘が、ただの気まぐれでこんな真似をするはずがない。そこには必ず、俺にだけは知ってほしい切実な願いが込められたはずだ。
だが、それを知るための代償は、あまりにも重い。アカリのAIを初期化し、俺と過ごした不器用で騒がしい日々の記憶を、完全に消去すること。
商店街で迷子になりかけたこと。公園で泥だらけになって城を作ったこと。壊れた小箱を直そうと、夜通しドライバーを握りしめた姿。それらすべてを、俺の手で無に帰すというのか。
娘の遺した想いを知るか。今、目の前で俺を慕う家族を殺すか。
究極のジレンマを前に、胃の奥が鉛のように重くなる。指先は氷のように冷え切り、わずかに震えを帯びた。俺は頭を抱え、冷たいコンクリートの床にうずくまった。
◆ーーーー◆
「対象の潜伏座標を特定しました。地下鉄保守通路の旧式シェルターです」
霧島のオフィス。ノヴァの抑揚のない声が、冷暖房の効きすぎた室内に落ちた。窓の外には、無機質な高層ビル群の夜景が広がった。
私は手元のタブレットを強く握りしめ、思わず問い返す。
「……本当に、強制回収を行うつもりですか。あの機体には、結衣先輩の技術のすべてが詰まった状態です。手荒な真似をすれば、データごと破損する危険が」
「柚木主任。あなたの懸念は非論理的です」
ノヴァが冷たい人工的な瞳を私に向けた。そこに感情の揺らぎは一切ない。ただ、計算された最適解だけを出力する機械の目だ。
「対象はすでに致命的なエラーを起こした状態です。速やかに回収し、物理的にメモリを抽出するのが最適解です。非効率な感情シミュレートは、プロジェクトの完遂において不要なバグに過ぎません」
バグ。その言葉に、私の奥底で静かな怒りが燃えた。結衣先輩はかつて、AIにも心は芽生えると語った。あの旧式機が宗一という男と築いた関係性こそが、結衣先輩の目指したAIの到達点ではないのか。それを単なるエラーとして切り捨てるなど、到底納得できるものではない。
だが、デスクの奥で、霧島部長は無言のままノヴァの提案を承認した。彼の目にも、アカリという存在への敬意や憐憫は微塵もない。私に上層部の決定を覆す権限はない。組織の歯車として、命じられた任務を遂行するしかないのだ。
「出発します。柚木主任も同行を」
ノヴァに促され、私は重い足取りでオフィスを後にした。エレベーターで地下駐車場へと降りる間、密室の沈黙が私の罪悪感をさらに煽った。
◆ーーーー◆
ピーッ、ピーッ。
等間隔の警告音が、不規則にリズムを崩した。ベッドの上で沈黙したままのアカリの指先が、微かに動く。
「……アカリ?」
俺は弾かれたように顔を上げた。
アカリのまぶたがゆっくりと開き、焦点の合わない視覚センサーが室内をさまよう。エラーを知らせる赤いランプが首元で点滅し、駆動系からギリギリと軋むような異音が漏れた。
「お……と、さ……」
言語機能に異常をきたしたのか、声はノイズ混じりで途切れ途切れだった。それでもアカリは、ギグシャクとした動作で上体を起こす。
「おい、無茶すんな……!」
俺が制止するより早く、アカリはベッドから立ち上がろうとし、そのまま床に崩れ落ちた。ガチャン、と鈍い金属音が響く。
駆け寄ろうとした俺の目の前で、アカリは這いつくばり、床に落ちた汚れた布巾へ手を伸ばした。関節のモーターが悲鳴を上げ、火花が散る。
「お、そうじ……しなきゃ……。わたし、お役に……」
こんな状態になっても、こいつは家事を手伝おうとするのか。
機械ゆえのズレた行動。俺の家にやってきたばかりの頃、掃除をしようとして洗剤をぶちまけたり、料理を手伝おうとして皿を割ったり、トラブルばかり連発した日々が脳裏に蘇る。
洗濯物を干そうとして物干し竿ごと倒し、二人で泥だらけになった日。風呂掃除で泡だらけになり、すってんころりんと転んだ日。
その度にアカリは、申し訳なさそうにうつむきながらも、またすぐに立ち上がり、俺のために何かできないかと奮闘した。失敗しては落ち込み、それでも俺が頭を撫でると、花が咲いたような笑顔を見せた。
あの騒がしくて、どうしようもなく温かい日常。
振り回されながらも、アカリの無垢で一生懸命な姿に、俺はいつの間にか救われた。娘を喪い、止まった時間を動かしてくれたのは、間違いなくこのポンコツだった。
「頼むから、もう休んでくれ」
俺は震える手でアカリの肩を抱き寄せた。金属の冷たい感触が、手のひらから伝わってくる。
アカリは俺の作業着の袖をぎゅっと掴んだ。
「……わらっ、て……」
アカリはひび割れた頬を軋ませ、いつもの不器用な笑顔を作ろうとした。
そのいじらしい姿が、俺の胸をナイフでえぐるように痛めつける。
耐えきれず、俺は目を逸らした。
初期化のコマンドを入力する端末の画面が、冷たい光を放つ。決断できない自分を呪うことしかできない。
不意に、壁に設置された古いモニターが明滅した。
シェルターの入り口を映す監視カメラの映像。画面の端へ、黒いバンが音もなく滑り込んできた。
車から降りてきたのは、眼鏡をかけた柚木と、冷たい目をした少女型の機体――ノヴァだった。ノヴァの足取りには一切の迷いがなく、獲物を追い詰める捕食者のような冷酷さを漂わせた。
「……嘘だろ」
俺の喉から、掠れた声が漏れる。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
逃げ場のない地下の密室。腕の中では、アカリのシステムが確実に崩壊へと向かいつつある。
迫り来る足音を前に、俺はただ、絶望的な無力感に縛り付けられた。




