第6話
買ってきたネギを台所に置き、アカリはさっそく夕飯の準備に取り掛かった。
商店街で迷子と一緒に泥だらけになって遊んだせいか、彼女の服にはまだ微かに土の匂いが残っている。
「今日はわたしが完璧に仕上げてみせますからね!」
意気揚々とエプロンを身につけようとするが、背中の結び目を縦結びに絡ませてしまう。
「ああっ、またやってしまいました……」
彼女は特定の規則的なリズムで、絡まった紐を何度も引っ張っている。右、左、そしてまた右。その奇妙な動きを見ながら、俺は作業台の丸椅子に腰を下ろした。
結衣を事故で亡くし、絶望の中でただ息をしているだけだった俺。
あの日、廃棄区画の泥にまみれた旧式機を見つけ、気まぐれに電源を入れた。それがすべての始まりだった。
油と泥の匂いが立ち込める中、微かな駆動音と共に目覚めた彼女は、俺を親として呼び慕ってきた。あの独特のイントネーションは、生前の娘のそれとは微妙に違っていて、最初は戸惑うばかりだった。
製造記録を調べ、設計者に結衣の名前を見つけた時の衝撃は今でも忘れられない。端末の画面に浮かび上がった文字を見つめながら、俺の指先は小刻みに震えていた。呼称設定がただ一つ、親を意味する言葉だけに固定されていたことも、俺の心を大きく揺さぶった。
俺はそのポンコツ機にアカリと名付けた。
不器用で騒がしい共同生活が幕を開けた。皿を割り、掃除機を壊し、その度に彼女は申し訳なさそうにうつむいた。だが、その一生懸命な姿を見るうちに、止まっていた俺の時間は確実に動き出していた。
工具箱の影にある壊れたオルゴール。結衣が大切にしていたそれを見るたび、胸の奥が冷たくなる。
自分が父親としてもっと何かできたのではないか。その後悔は、今も俺の心に重くのしかかっている。
だが、今は隣でネギを刻む不格好な包丁の音が、その痛みを少しだけ和らげてくれていた。
その時だった。
工場の外で、砂利を踏みしだく重たいタイヤの音が響いた。
普段、こんな時間に客は来ない。立ち上がり、シャッターの隙間から外を覗く。
黒塗りの高級車が停まっていた。
ドアが開き、二人の人物が降りてくる。一人は隙のない高級スーツを着こなす、神経質そうな中年の男。
もう一人は、眼鏡をかけ、タブレットを抱えた地味な服装の若い女だった。
「ここが、例の修理工の家か」
男が周囲のガラクタを見下すように鼻を鳴らす。俺は警戒しながら工場の外へ出た。
「何の用だ。今日はもう店じまいだぞ」
男は俺を一瞥し、冷酷な笑みを浮かべた。
「君が宗一だな。私は開発局長の霧島だ。そしてこちらは部下の柚木」
柚木と呼ばれた女は、無言で軽く頭を下げた。
「単刀直入に言おう。君が不法に所持しているその機体を、直ちに返還してもらいたい」
霧島の視線が、俺の背後から顔を出したアカリに向けられる。
「それは我が社の機密プロジェクトの試作機だ。所有権はこちらにある」
アカリが小さく息を呑み、俺の背中をギュッと掴んだ。
微かなモーターの振動が、彼女の恐怖を伝えてくる。
「……何の話だ」
俺は低い声で返した。
結衣の元上司。娘の死に、この会社が関わっているのではないか。
黒い疑念が胃の腑から込み上げてくる。
「とぼけても無駄だ。その機体のAIコアは特殊仕様であり、一般に出回るものではない」
霧島が一歩踏み出す。
「結衣くんが残した負の遺産を、我々が回収してやると言っているんだ。さあ、大人しく引き渡したまえ。君のような素人が扱っていい代物ではないんだ」
結衣の名前が出た瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「断る」
俺はアカリを庇うように立ち塞がった。
「こいつは、客から預かっている大事な修理依頼品だ。勝手に持っていくことは許さない」
苦し紛れの嘘だった。
だが、目の前で怯える存在を、得体の知れない連中に渡すわけにはいかない。
霧島は呆れたようにため息をついた。
「修理依頼品だと? 見え透いた嘘を。君の経歴は調べがついている」
「帰れ。これ以上騒ぐなら警察を呼ぶぞ」
俺が睨みつけると、霧島は口角を吊り上げた。
「いいだろう。今日は引き下がってやる」
霧島はスーツの埃を払う仕草をした。
「だが、法的手続きをとらせてもらう。すぐに現実を知ることになるだろう」
踵を返し、車へと向かう霧島。
柚木はすぐには動かず、俺とアカリをじっと見つめていた。
その瞳には、上司への同調とは違う、何か言いたげな色が浮かんでいる。
「柚木、行くぞ」
「……はい」
柚木は短く答え、車に乗り込んだ。
高級車が砂利を蹴散らして去っていく。
静寂が戻った工場で、俺は背後のアカリを振り返った。
「……もう大丈夫だ」
「わたし、連れて行かれちゃうんですか……?」
震える声で尋ねるアカリ。
俺は彼女の小さな肩を、両腕で強く抱きしめた。
「絶対に渡さない。あんたは、俺の家族だ」
人工的な熱が、俺の胸に伝わってくる。
大企業という強大な敵が、俺たちのささやかな日常を脅かし始めていた。
だが、もう逃げるつもりはない。結衣が残したこの絆を守り抜くために、俺は戦う覚悟を決めていた。




