第5話
雨音は次第に激しさを増し、工場の屋根を打ち鳴らし続けていた。
昨夜、アカリの指先が刻んだあのリズム。
トン、ツーツー、トン。
結衣が遺した特殊なコア。隠しデータを開くためのパスワード。
その事実に気づいた時、俺の背筋を悪寒が駆け抜けた。結衣は一体、何を隠したのか。
だが、夜が明けて雨が上がると、そんな緊迫感はあっけなく日常に飲み込まれてしまった。
「おはようございます!」
工場のシャッターを開けると、眩しい朝日と共にアカリの元気な声が響いた。
少しサイズの合わない俺のお下がりのシャツに、不格好なエプロン姿。
手には、なぜか裏返しになったフライパンが握られている。
「……お前、それで何を作ろうとしてるんだ」
「目玉焼きです! でも、冷蔵庫を開けたら、卵が一つもありませんでした」
えっへん、と胸を張るアカリからフライパンを取り上げ、俺は作業台のジャンク部品を仕分け始めた。
昨夜の底知れぬ謎を抱えた機体と、目の前のポンコツが、どうしても結びつかない。
作業台の上には、数日前に廃棄区画で拾ってきたジャンク部品が散乱している。
娘を喪ってからというもの、俺はただ無気力に廃棄区画を彷徨い、ガラクタを拾っては直すだけの空虚な日々を送っていた。
あの日、泥にまみれた彼女を発見し、気まぐれに再起動させたことが、すべての始まりだった。
あの時はただの現実逃避だった。動かない機械に触れている間だけは、結衣の死という冷たい現実から目を背けることができたからだ。
だが今は違う。俺は手元の部品を仕分けながら、アカリの様子を横目で追っていた。
彼女が転ばないか、危ないものを触っていないか。いつの間にか、そんなことばかり気にするようになっている。
「あの。わたし、お買い物に行きたいです」
フライパンを置きながら、アカリが唐突に言った。
「買い物?」
「はい。冷蔵庫が空っぽなので、今日の夕飯が作れません。わたしが商店街に行って、新鮮な食材を調達してきます」
「やめとけ。お前、一人で外に出たことないだろ」
「大丈夫です! わたし、あなたの役に立ちたいんです」
アカリは両手で拳を握り締め、力説する。
その一生懸命な姿に、俺は頭を掻いた。
彼女の呼称設定は、俺を父親として認識するもののみ。設計者である結衣が、なぜそんな設定にしたのか。
俺は無意識のうちに、ずり落ちかけたエプロンの紐を結び直してやっていた。
「……チッ。仕方ねえ、俺も行くか」
腰を上げかけたその時、工場の入り口から豪快な声が響いた。
「おう宗一! 昨日のコンデンサの代金、もらいに来たぜ!」
油まみれの作業着を着た大柄な男、源蔵だった。
「なんだ、お前ら出かけるのか?」
「こいつが買い物に行きたいって言い出してな」
俺が渋い顔で答えると、源蔵はニヤリと笑った。
「おっ、初めてのお使いってやつか。いいじゃねえか。俺がちょうど商店街の方に用があるから、付き合ってやるよ」
「あんたが?」
「なんだ、俺じゃ不満か? このポンコツ嬢ちゃんの面倒くらい、俺でも見れるぜ」
「ポンコツじゃありません! アカリです!」
むくれるアカリを見て、源蔵はガハハと笑った。
「頼むぞ、源蔵。変なもん買わせるなよ」
「分かってるって。ほら、行くぞアカリちゃん」
「はい! 行ってきます!」
アカリは元気よく手を振り、源蔵の後を追って工場を出て行った。
俺は二人を見送りながら、作業台の椅子にどっかりと座り直した。
静かになった工場内。
換気扇の低い唸り声だけが響く。
手元の基板にドライバーを当てるが、どうにも集中できない。
アカリが転んでいないか。誰かにぶつかっていないか。
「……やっぱり、心配だな」
五分後。俺は工具を放り出し、作業着のまま工場を飛び出していた。
◆ーーーー◆
商店街は、昼前の買い物客で賑わっていた。
俺は人混みに紛れながら、少し離れた場所から二人の後をつけていた。
八百屋の前で、源蔵が知り合いの店主と話し込んでいる。
その隙に、アカリはフラフラと隣の路地へ歩いていってしまった。
「おい、源蔵……何やってんだ」
俺は舌打ちをし、慌ててアカリの後を追った。
路地を抜けた先にある小さな公園。
そこでアカリは、立ち止まっていた。
視線の先には、ベンチに座って泣きじゃくっている少年がいた。
泥だらけのスニーカーに、膝には絆創膏。迷子だろうか。
アカリは小走りで少年に近づき、しゃがみ込んだ。
「どうしましたか? どこか痛いですか?」
少年は顔を上げ、涙目でアカリを睨んだ。
「……だれだよ、あんた。オレ、迷子なんかじゃないぞ!」
強がる少年に、アカリは首を傾げた。
「迷子じゃないんですね。でも、涙が出ています。システムエラーでしょうか?」
「ちがう! 母ちゃんとはぐれただけだ!」
「それは、一般的に迷子と定義される状態です」
「うるさいな! あっちいけ!」
少年が叫ぶと、アカリは困ったように眉を下げた。
俺は物陰から飛び出そうとしたが、アカリの次の行動を見て足が止まった。
彼女は突然、立ち上がった。
そして、両手を水平に広げ、奇妙なステップを踏み始めたのだ。
右足を出して、左足を引く。腕を上下に振りながら、首をカクカクと動かす。
まるで油の切れたブリキのおもちゃだ。
「……何やってんだ、あいつ」
俺は呆気にとられた。
「泣いている子どもには、エンターテインメントが有効だと学習しました。見てください、わたしのオリジナルダンスです!」
トン、ツーツー、トン。
あの奇妙なリズムとは違う、ただの不器用でぎこちない動き。
足がもつれ、アカリは派手にすっ転んだ。
「きゃっ!」
顔面から砂場に突っ込むアカリ。
少年は目を丸くして、その様子を見つめていた。
「……ぷっ」
少年が吹き出した。
「あははは! なんだよそれ、すっげーダサい!」
「ダ、ダサくありません! 高度なバランス感覚を要求される動きなんです!」
顔を砂だらけにしたアカリがむきになって言い返すと、少年はさらに腹を抱えて笑い転げた。
「オレ、リク! あんた、おもしろいな!」
「わたしはアカリです。リクさん、一緒に遊びましょうか?」
「うん!」
二人は砂場に座り込み、泥だんごを作り始めた。
アカリの服もエプロンも、あっという間に泥だらけになっていく。
俺は壁に背を預け、小さく息を吐いた。
結衣が設計したこの機体。
関節部のモーター音を微かに響かせながら、彼女は無邪気に泥をこねている。
彼女のメモリの奥底には、結衣の最期のメッセージが隠されているかもしれない。
だが、今目の前で泥だらけになって笑っている彼女は、間違いなく「アカリ」だった。
計算されたAIのシミュレートじゃない。不器用で、失敗ばかりで、それでも目の前の誰かを笑顔にしようと一生懸命な、ただの家族。
胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じた。
俺は、もう一度前を向いて生きる理由を、この小さな背中に見出し始めているのかもしれない。
「おい、宗一。こんなとこで何やってんだ」
背後から声をかけられ、振り返ると源蔵が立っていた。
手にはネギの入った買い物袋を提げている。
「……あんたこそ、目を離すなよ」
「わりぃわりぃ。話に夢中になっちまってな。で、あいつはどうした?」
源蔵が公園を覗き込む。
そこには、リクと一緒に巨大な泥の城を作っているアカリの姿があった。
「……たく、服がドロドロじゃねえか。不器用な親子だな、お前ら」
源蔵は呆れたように笑い、買い物袋を俺に押し付けた。
「ほらよ。お使いの品だ。あとは保護者の仕事だろ」
「……ああ」
俺は袋を受け取り、公園の中へと歩き出した。
「アカリ」
声をかけると、アカリはビクッと肩を揺らした。
振り返った彼女の顔は、見事に泥だらけだった。
「あっ! なぜここに……」
「迎えに来たんだよ。ほら、リクの親御さんも探してるはずだ。交番に行くぞ」
「はい……申し訳ありません、服を汚してしまって」
シュンと俯くアカリ。
俺はため息をつき、作業着の袖で彼女の頬の泥を乱暴に拭った。
「気にするな。洗えば落ちる」
「……うぅ」
「リク、お前も来い。母ちゃんが心配してるぞ」
「……うん」
俺たちは三人で交番へ向かった。
すぐにリクの母親が駆けつけてきて、泣きながらリクを抱きしめた。
「ありがとうございました。本当に、なんとお礼を言えばいいか……」
母親が何度も頭を下げる。
「いや、こいつが一緒に遊んでただけなんで」
俺がアカリを指差すと、アカリは照れくさそうに笑った。
「リクさん、また一緒に遊びましょうね」
「うん! アカリ、また変なダンス見せてよ!」
「変なダンスじゃありません!」
二人のやり取りに、俺は思わず口元を緩めた。
夕暮れの帰り道。
空は茜色に染まり、長く伸びた影が二つ、並んで揺れている。
俺の右手にはネギの入った買い物袋。
左手には、アカリの小さな手が握られていた。
「今日は楽しかったです」
アカリが嬉しそうに見上げてくる。
「買い物にはなってなかったけどな」
「うっ……次は、ちゃんと一人でできます!」
「無理しなくていい。次も、俺が一緒に行ってやる」
俺がそう言うと、アカリは目を丸くし、やがて満面の笑みを浮かべた。
「はい!」
繋いだ手から、微かなモーターの振動と、人工的な熱が伝わってくる。
娘を喪い、暗い海の底に沈んでいた俺の時間は、確実に動き出していた。
廃棄区画で拾ったガラクタ。
それが今では、俺の隣で笑い、俺の手を引いて歩いている。
結衣が残した謎も、過去の後悔も、まだ消えたわけじゃない。
アカリのメモリ内にあるメッセージを見るために、いつか彼女を初期化しなければならない日が来るのだろうか。
その恐れは、常に俺の心の片隅に居座っている。
それでも、この不器用で騒がしい共同生活が、今の俺にとって何よりも大切なものになりつつあった。
「今日の夕飯は、ネギ焼きですね!」
「……肉も買ってくればよかったな」
俺たちは他愛のない会話を交わしながら、家路についた。
夕日に照らされたアカリの横顔は、どこまでも穏やかだった。
この確かな温もりが、俺たちの間に芽生え始めた絆を証明しているようだった。




