第4話
換気扇の低い唸り声が、まるで警告のように工場内に響き続けていた。
宗一は端末の画面に表示された赤い警告ウィンドウを睨みつけたまま、呼吸を忘れていた。結衣が設計した特殊なコア。厳重にロックされた隠しデータ領域。そのプロテクトの構造は、結衣がかつて自慢していた独自のアルゴリズムそのものだった。
「とうさん? どうかしましたか?」
背後から聞こえた声に、宗一はビクッと肩を揺らした。振り返ると、少しサイズの合わないシャツを着たアカリが、不安そうにこちらを見つめている。彼女の瞳の奥で、光彩のリングが微かに明滅していた。
「……いや、なんでもない。もう遅い、休め」
宗一は逃げるように端末の電源を落とした。暗転した画面に、ひどく疲労した自分の顔が映り込んでいる。これ以上、あの深淵を覗き込む勇気はなかった。
数時間後。
浅い眠りから引きずり出されたのは、作業場から響く不規則な金属音のせいだった。カチャ、カチャと工具を弄るような響きは、深夜の侵入者にしてはあまりに無防備で手際が悪い。
宗一はベッドから身を起こし、足音を殺して作業場へと向かった。
薄暗い豆電球の光の下、作業台に向かっている小さな背中があった。不格好なエプロンを身につけたアカリだ。
彼女の手元を見て、宗一の心臓が大きく跳ねた。
工具箱の影に隠しておいたはずの小さな木箱。結衣が子供の頃に大切にしていた、壊れたオルゴール。色褪せた花の彫刻が施されたその蓋が開かれ、アカリが精密ドライバーを握って内部の歯車に触れようとしていた。
「何をしてる!」
怒声が静寂を切り裂いた。
アカリがビクッと肩を跳ねさせ、手からドライバーを取り落とす。カランと乾いた音が床に響いた。
宗一は足早に歩み寄り、彼女の手からオルゴールを乱暴に奪い取った。
「あ……」
「勝手に触るなと言っただろう! 余計なことをするな!」
自分でも驚くほど低い、威圧的な声が出た。
アカリは怯えたように身を縮め、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「申し訳、ありません……。でも、わたし……」
「言い訳は聞きたくない。お前はただの機械だ、俺の過去に踏み込むな」
言ってはいけない言葉だと分かっていた。だが、口をついて出た拒絶は止められなかった。
アカリの瞳の奥で、光彩のリングが悲しげに明滅する。
「とうさんを、笑顔にしたかったんです……」
消え入るような声でそう呟くと、彼女はうつむき、部屋の隅へと歩いていってしまった。
残された宗一は、冷たくなったオルゴールを両手で包み込むように握りしめた。
激しい自己嫌悪が胃の奥を焼き焦がす。
油の染み付いた作業着の袖で顔を覆った。
あの日、いつものように廃棄区画で部品を漁っていた俺は、ゴミ山の斜面に打ち捨てられていた泥まみれの旧式機を見つけた。外装はひび割れ、右腕の関節からは断線したケーブルが覗いている。完全に機能停止していたただのガラクタ。だが、その顔立ちに結衣の面影を重ねてしまった俺は、どうしても見捨てることができず、気まぐれにそれを持ち帰り、外部電源を繋いで再起動させた。
目覚めた彼女は、俺を親として呼び、無邪気に懐いてきた。困惑しながら製造記録の監査ログを調べ、設計者の欄に『結衣』の名前を見つけた時の、あの心臓が鷲掴みされるような驚愕。呼称設定が父親を意味する単語のみに固定されていた事実。
俺は彼女に「アカリ」と名付け、この騒がしくも不器用な共同生活を始めた。
予期せぬ同居人の登場により、俺の止まっていた時間は確かに動き出していた。彼女が巻き起こすポンコツな失敗の数々に振り回されながらも、いつしかこの工場には生活の温度が戻りつつあった。
それなのに。
俺はまだ、過去の遺物に執着している。目の前で俺を想ってくれている存在を、心ない言葉で傷つけてしまった。
「……最低だな」
誰に届くわけでもない呟きは、換気扇の音に吸い込まれて消えた。
翌日の午後。
シャッターの向こうから、けたたましいエンジンの排気音が聞こえてきた。
「よお、宗一! 頼まれてた高耐圧コンデンサ、持ってきてやったぞ!」
豪快な声と共に現れたのは、ジャンク屋の店主である源蔵だった。油まみれの作業着を着た白髪交じりの大柄な男は、ドカッと段ボール箱を作業台に置いた。
だが、工場の空気はひどく重かった。
宗一は作業台の前に座ったまま、手元の基板を虚ろな目で見つめている。そして部屋の隅では、アカリが壁に向かって正座し、膝に両手を置いて微動だにしない反省モードに入っていた。
源蔵は二人の様子を交互に見比べ、呆れたように鼻を鳴らした。
「なんだ、お前ら。また派手にやり合ったのか」
「……別に」
「別にじゃねえだろ。空気が重すぎて息が詰まりそうだぜ」
源蔵はアカリの頭をポンと叩いた。
「おい、ポンコツ。お前もいつまでも縮こまってねえで、お茶でも淹れてこい」
「……はい。ただいま準備いたします」
アカリは力なく立ち上がり、給湯室へと向かった。
その背中を見送った後、源蔵は作業台に寄りかかり、宗一を見下ろした。
「不器用な親子だな、まったく」
「親子じゃない。あいつは……」
「へえへえ、機械だって言いてえんだろ。だがな、宗一」
源蔵は懐から煙草を取り出し、火をつけずに口にくわえた。
「あいつはお前のために一生懸命なんだよ。過ぎたことをいつまでもウジウジ引きずってても仕方ねえぞ。前を向いて生きろや」
「……分かってる」
「分かってねえから、そんなシケた面してんだろ」
源蔵は鼻で笑い、段ボール箱を軽く叩いた。
「代金はツケにしといてやる。せいぜい、仲直りすることだな」
それだけ言い残すと、源蔵は嵐のように去っていった。
夜。
外は冷たい雨が降り始めていた。雨粒がトタン屋根を叩く音が、静かな工場内に響いている。
宗一は作業台の前に立ち、給湯室でマグカップを洗っているアカリの背中を見つめていた。
意を決して、口を開く。
「アカリ」
ビクッと肩を震わせ、彼女が振り返る。
「はい……」
「昨夜は、すまなかった。大声を出して」
宗一は頭を掻きながら、視線を泳がせた。
「お前が俺のためにやってくれたことなのに、酷い言い方をした。……許してくれ」
アカリの瞳のリングが、驚きで大きく見開かれた。数秒の沈黙の後、彼女の顔にパッと花が咲いたような明るい表情が浮かぶ。
「いいえ! わたしの方こそ、勝手なことをして申し訳ありませんでした!」
濡れた手をエプロンで拭いながら、アカリは小走りで宗一の前にやってきた。
「わたし、もっともっと勉強して、絶対にとうさんの役に立つようになりますから!」
満面の笑みでそう告げる彼女を見て、宗一の胸の奥に温かいものがじんわりと広がっていく。
「ああ。……頼む」
不器用な言葉しか返せなかったが、アカリは嬉しそうに頷いた。
だが、その直後だった。
宗一の視線が、アカリのエプロンを握りしめる指先に止まった。
昨夜、彼女がオルゴールを修理しようとしていた時の動き。
精密ドライバーを握り、小さな歯車に触れようとしていた時の、あの不自然な手つき。
トン、ツーツー、トン。
頭の中で、そのリズムが再生される。
それは、彼女が掃除の時にモップを壁にぶつけるリズムや、部品を整理する時に箱を叩くリズムと、完全に一致していた。
特定の箇所で繰り返される、奇妙な規則性を持った動作。
宗一の背筋を、氷の刃でなぞられたような悪寒が駆け抜けた。
あの暗号化領域。
結衣が設計した特殊なコア。
まさか、このリズム自体が、隠しデータを開くためのパスワードになっているのではないか。
オルゴールに触れたのも、単なる気まぐれではなく、そのパスワードを入力するための『鍵穴』として認識したからだとしたら。
「とうさん……? 顔色が悪いですよ?」
アカリが小首を傾げ、純粋な瞳でこちらを見上げてくる。
その無垢な笑顔の裏側に、結衣は一体何を隠したのか。
雨音は次第に激しさを増し、工場の屋根を打ち鳴らし続けていた。




