↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/18

第3話

床に広がった冷たい水を拭き終える頃には、すっかり日が昇っていた。


工場のシャッターの隙間から、朝の光が筋になって差し込んでいる。水をたっぷり吸い込んだ雑巾をバケツの上で絞ると、濁った水がポタポタと落ちた。


「あ、あの……わたしもやります!」


アカリが横から手を出そうとしたが、その足元がおぼつかない。


「お前は動くな。またひっくり返す気か」


「うぅ……申し訳ありません」


アカリと名付けたこの旧型アンドロイドは、申し訳なさそうに肩をすぼめた。「父さん」という呼び方にまだ慣れないが、いちいち訂正する気力も湧かなかった。


濡れた雑巾を干し、宗一は作業台の丸椅子に深く腰を下ろす。


「……とりあえず、そこに座れ」


「はい、父さん」


指定されたスツールにちょこんと座るアカリの背中を見つめる。


「背中のハッチを開ける。少しじっとしてろ」


「わたし、どこか壊れているのでしょうか」


「さあな。ただの動作不良ならいいんだが」


精密ドライバーを手に取り、首の後ろにある装甲の隙間に差し込む。カチリと軽い音がして、メンテナンスハッチがスライドした。


内部の配線は、外見の古びた装甲とは裏腹に、驚くほど整然としていた。だが、宗一の視線は中央に鎮座するAIコアに釘付けになった。


「なんだ、これは……」


一般的な旧型機に搭載されている市販のコアではない。黒い筐体に銀色のラインが走る、見慣れない形状。表面には、結衣が勤めていた大手ロボットメーカーの規格に酷似した端子が並んでいる。


いや、酷似しているだけではない。熱暴走を防ぐための独特なヒートシンクの配置や、データ転送の遅延を極限まで減らすためのバイパス回路。それは、結衣が学生時代からこだわっていた設計思想そのものだった。


「父さん? どうかしましたか?」


「……いや、なんでもない」


ハッチを閉じようとしたその時、工場の引き戸が勢いよく開いた。


◆ーーーー◆


「ちわーっす、宗一さん! 頼みがあるんすけど!」


派手な柄シャツを着た辰巳が、両手に抱えた段ボール箱ごと転がり込んでくる。相変わらず無駄に声がでかい。


「朝からうるせえな。今日は店じまいだ」


「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。俺と宗一さんの仲じゃないっすか」


辰巳は勝手に上がり込み、作業台の上に段ボール箱をドンと置いた。中には、ひしゃげた四枚羽根のドローンと、不釣り合いなほど巨大な高出力モーターが入っている。


「こいつを、このドローンに組み込んでほしいんすよ。隣町の連中とレースする約束してて、絶対に負けられないんす」


「馬鹿か、お前は」


宗一は呆れてため息をついた。


「こんな華奢なフレームにそんな出力を積んだら、飛ぶ前に空中分解するぞ」


「そこをなんとかするのが、宗一さんの腕の見せ所じゃないっすか!」


「断る。他を当たれ」


宗一が工具を置こうとした瞬間、横から小さな影が飛び出してきた。


「お任せください! わたしが父さんのお手伝いをします!」


アカリだった。少しサイズの合わない宗一のお下がりの服の裾を翻し、自信満々に胸を張っている。


「おっ、なんだなんだ。宗一さん、親戚の子でも預かったんすか?」


辰巳が目を丸くする。


「違う。ただのガラクタだ」


「ガラクタって……いやいや、めっちゃ可愛いじゃないっすか。アカリちゃんって言うの?」


「はい! わたしはアカリです。父さんの助手として、立派に任務を遂行します!」


言うが早いか、アカリは段ボール箱からモーターを引っ張り出した。


「おい、やめろ」


宗一の制止も聞かず、彼女はモーターの配線をドローンの基板に直接押し当てた。


「ここを、こうして……えいっ!」


バチッ!


青白い火花が散り、焦げ臭いフラックスの匂いが立ち上る。


「あわわわわっ!」


アカリはパニックになり、モーターを放り投げた。ゴトゴトと転がったモーターが、作業台の端から床に落ちる。


「ああっ、ごめんなさい! また失敗しちゃいました!」


アカリは涙目になりながら、床に這いつくばってモーターを拾おうとする。その拍子に、今度は工具箱に頭をぶつけた。


ガシャーン!


ドライバーやレンチが派手な音を立てて散乱する。


「……お前なぁ」


宗一は頭を抱えた。


◆ーーーー◆


「あっはっはっは! なんだよこの子、最高じゃん!」


辰巳は腹を抱えて笑い転げている。


「笑い事じゃねえよ。ほら、お前のモーター、ショートしたぞ」


「あーあ、マジっすか。まあいいや、またジャンク屋で探してくるっす」


辰巳は涙を拭いながら、散らかった床とアカリを交互に見た。


「でも、なんかいいっすね」


「何がだ」


「宗一さんの工場、前よりずっと明るくなったっすよ。前はもっとこう、お通夜みたいだったっていうか」


辰巳の言葉に、宗一は言葉を詰まらせた。


「……余計なお世話だ。さっさと帰れ」


「はいはい、また来ますよ。じゃあね、アカリちゃん!」


辰巳は手をひらひらと振って、工場を出て行った。


静まり返った工場の中で、換気扇の低い唸り声だけが響く。アカリは床に正座したまま、うつむいていた。


「……ごめんなさい、父さん。わたし、役に立とうと思ったのに……」


その声は震えていた。自分が役に立たないと見限られ、捨てられることを恐れている。そんな怯えが、痛いほど伝わってきた。


宗一はため息をつき、床に散らばった工具を拾い集め始めた。


「気にするな。どうせあんな無茶な依頼、最初から受ける気はなかった」


「でも、わたし……」


「いいから、そこをどけ。掃除の邪魔だ」


ぶっきらぼうに言い放ちながらも、宗一の口調には不思議と棘がなかった。アカリが散らかした部品を仕分けし、ショートした基板の焦げ跡を拭き取る。


ふと、自分の手が淀みなく動いていることに気づいた。


娘を喪って以来、機械をいじるのは単なる現実逃避でしかなかった。ただ時間を潰すためだけに、無意味な解体と組み立てを繰り返していた。


だが今は違う。アカリが引き起こしたトラブルを収拾するために、自発的に作業に没頭している。


「……俺は、何やってんだか」


自嘲気味に呟きながらも、胸の奥にあった冷たい鉛のような重さが、ほんの少しだけ軽くなっているのを感じた。


作業台の上が片付いた後、宗一は再びアカリをスツールに座らせた。


「もう一度、背中を開けるぞ」


「はい……」


アカリは大人しく背中を向けた。宗一は先ほど気になったAIコアに、手元の解析端末をケーブルで接続した。


画面に緑色の文字列が滝のように流れていく。表面上のシステムログには、異常は見当たらない。だが、宗一の指先は無意識のうちに、より深い階層のディレクトリを探っていた。


結衣が設計した特殊なコア。特定の場所で繰り返される、謎のリズムを持った動作。それらが単なるバグではないとしたら。


「……ビンゴだ」


宗一は息を呑んだ。


端末の画面に、警告を示す赤いウィンドウがポップアップした。


『アクセス拒否:暗号化領域』


通常の旧型機には絶対に存在しない、厳重にロックされた隠しデータ領域。そのプロテクトの構造は、結衣がかつて「絶対に破られない」と自慢していた独自のアルゴリズムそのものだった。


なぜ、こんなものがこの機体に隠されているのか。娘は、このポンコツなアンドロイドの奥底に、一体何を封じ込めたというのか。


「父さん? どうかしましたか?」


アカリが不安そうに振り返る。


その無垢な瞳を見つめ返しながら、宗一の背筋に冷たい汗が伝った。穏やかな共同生活の幕開け。だが、その足元には、底知れぬ深淵が口を開けていた。


換気扇の低い唸り声が、まるで警告のように工場内に響き続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。