第3話
床に広がった冷たい水を拭き終える頃には、すっかり日が昇っていた。
工場のシャッターの隙間から、朝の光が筋になって差し込んでいる。水をたっぷり吸い込んだ雑巾をバケツの上で絞ると、濁った水がポタポタと落ちた。
「あ、あの……わたしもやります!」
アカリが横から手を出そうとしたが、その足元がおぼつかない。
「お前は動くな。またひっくり返す気か」
「うぅ……申し訳ありません」
アカリと名付けたこの旧型アンドロイドは、申し訳なさそうに肩をすぼめた。「父さん」という呼び方にまだ慣れないが、いちいち訂正する気力も湧かなかった。
濡れた雑巾を干し、宗一は作業台の丸椅子に深く腰を下ろす。
「……とりあえず、そこに座れ」
「はい、父さん」
指定されたスツールにちょこんと座るアカリの背中を見つめる。
「背中のハッチを開ける。少しじっとしてろ」
「わたし、どこか壊れているのでしょうか」
「さあな。ただの動作不良ならいいんだが」
精密ドライバーを手に取り、首の後ろにある装甲の隙間に差し込む。カチリと軽い音がして、メンテナンスハッチがスライドした。
内部の配線は、外見の古びた装甲とは裏腹に、驚くほど整然としていた。だが、宗一の視線は中央に鎮座するAIコアに釘付けになった。
「なんだ、これは……」
一般的な旧型機に搭載されている市販のコアではない。黒い筐体に銀色のラインが走る、見慣れない形状。表面には、結衣が勤めていた大手ロボットメーカーの規格に酷似した端子が並んでいる。
いや、酷似しているだけではない。熱暴走を防ぐための独特なヒートシンクの配置や、データ転送の遅延を極限まで減らすためのバイパス回路。それは、結衣が学生時代からこだわっていた設計思想そのものだった。
「父さん? どうかしましたか?」
「……いや、なんでもない」
ハッチを閉じようとしたその時、工場の引き戸が勢いよく開いた。
◆ーーーー◆
「ちわーっす、宗一さん! 頼みがあるんすけど!」
派手な柄シャツを着た辰巳が、両手に抱えた段ボール箱ごと転がり込んでくる。相変わらず無駄に声がでかい。
「朝からうるせえな。今日は店じまいだ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよ。俺と宗一さんの仲じゃないっすか」
辰巳は勝手に上がり込み、作業台の上に段ボール箱をドンと置いた。中には、ひしゃげた四枚羽根のドローンと、不釣り合いなほど巨大な高出力モーターが入っている。
「こいつを、このドローンに組み込んでほしいんすよ。隣町の連中とレースする約束してて、絶対に負けられないんす」
「馬鹿か、お前は」
宗一は呆れてため息をついた。
「こんな華奢なフレームにそんな出力を積んだら、飛ぶ前に空中分解するぞ」
「そこをなんとかするのが、宗一さんの腕の見せ所じゃないっすか!」
「断る。他を当たれ」
宗一が工具を置こうとした瞬間、横から小さな影が飛び出してきた。
「お任せください! わたしが父さんのお手伝いをします!」
アカリだった。少しサイズの合わない宗一のお下がりの服の裾を翻し、自信満々に胸を張っている。
「おっ、なんだなんだ。宗一さん、親戚の子でも預かったんすか?」
辰巳が目を丸くする。
「違う。ただのガラクタだ」
「ガラクタって……いやいや、めっちゃ可愛いじゃないっすか。アカリちゃんって言うの?」
「はい! わたしはアカリです。父さんの助手として、立派に任務を遂行します!」
言うが早いか、アカリは段ボール箱からモーターを引っ張り出した。
「おい、やめろ」
宗一の制止も聞かず、彼女はモーターの配線をドローンの基板に直接押し当てた。
「ここを、こうして……えいっ!」
バチッ!
青白い火花が散り、焦げ臭いフラックスの匂いが立ち上る。
「あわわわわっ!」
アカリはパニックになり、モーターを放り投げた。ゴトゴトと転がったモーターが、作業台の端から床に落ちる。
「ああっ、ごめんなさい! また失敗しちゃいました!」
アカリは涙目になりながら、床に這いつくばってモーターを拾おうとする。その拍子に、今度は工具箱に頭をぶつけた。
ガシャーン!
ドライバーやレンチが派手な音を立てて散乱する。
「……お前なぁ」
宗一は頭を抱えた。
◆ーーーー◆
「あっはっはっは! なんだよこの子、最高じゃん!」
辰巳は腹を抱えて笑い転げている。
「笑い事じゃねえよ。ほら、お前のモーター、ショートしたぞ」
「あーあ、マジっすか。まあいいや、またジャンク屋で探してくるっす」
辰巳は涙を拭いながら、散らかった床とアカリを交互に見た。
「でも、なんかいいっすね」
「何がだ」
「宗一さんの工場、前よりずっと明るくなったっすよ。前はもっとこう、お通夜みたいだったっていうか」
辰巳の言葉に、宗一は言葉を詰まらせた。
「……余計なお世話だ。さっさと帰れ」
「はいはい、また来ますよ。じゃあね、アカリちゃん!」
辰巳は手をひらひらと振って、工場を出て行った。
静まり返った工場の中で、換気扇の低い唸り声だけが響く。アカリは床に正座したまま、うつむいていた。
「……ごめんなさい、父さん。わたし、役に立とうと思ったのに……」
その声は震えていた。自分が役に立たないと見限られ、捨てられることを恐れている。そんな怯えが、痛いほど伝わってきた。
宗一はため息をつき、床に散らばった工具を拾い集め始めた。
「気にするな。どうせあんな無茶な依頼、最初から受ける気はなかった」
「でも、わたし……」
「いいから、そこをどけ。掃除の邪魔だ」
ぶっきらぼうに言い放ちながらも、宗一の口調には不思議と棘がなかった。アカリが散らかした部品を仕分けし、ショートした基板の焦げ跡を拭き取る。
ふと、自分の手が淀みなく動いていることに気づいた。
娘を喪って以来、機械をいじるのは単なる現実逃避でしかなかった。ただ時間を潰すためだけに、無意味な解体と組み立てを繰り返していた。
だが今は違う。アカリが引き起こしたトラブルを収拾するために、自発的に作業に没頭している。
「……俺は、何やってんだか」
自嘲気味に呟きながらも、胸の奥にあった冷たい鉛のような重さが、ほんの少しだけ軽くなっているのを感じた。
作業台の上が片付いた後、宗一は再びアカリをスツールに座らせた。
「もう一度、背中を開けるぞ」
「はい……」
アカリは大人しく背中を向けた。宗一は先ほど気になったAIコアに、手元の解析端末をケーブルで接続した。
画面に緑色の文字列が滝のように流れていく。表面上のシステムログには、異常は見当たらない。だが、宗一の指先は無意識のうちに、より深い階層のディレクトリを探っていた。
結衣が設計した特殊なコア。特定の場所で繰り返される、謎のリズムを持った動作。それらが単なるバグではないとしたら。
「……ビンゴだ」
宗一は息を呑んだ。
端末の画面に、警告を示す赤いウィンドウがポップアップした。
『アクセス拒否:暗号化領域』
通常の旧型機には絶対に存在しない、厳重にロックされた隠しデータ領域。そのプロテクトの構造は、結衣がかつて「絶対に破られない」と自慢していた独自のアルゴリズムそのものだった。
なぜ、こんなものがこの機体に隠されているのか。娘は、このポンコツなアンドロイドの奥底に、一体何を封じ込めたというのか。
「父さん? どうかしましたか?」
アカリが不安そうに振り返る。
その無垢な瞳を見つめ返しながら、宗一の背筋に冷たい汗が伝った。穏やかな共同生活の幕開け。だが、その足元には、底知れぬ深淵が口を開けていた。
換気扇の低い唸り声が、まるで警告のように工場内に響き続けていた。




