第2話
なぜ、この廃棄されたガラクタは、俺をそう呼ぶのか。
その問いに対する答えは、まだどこにもなかった。
翌朝。
鼻を突く強烈な焦げ臭い匂いで、宗一は目を覚ました。
硬い作業台に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。首の筋が嫌な音を立てて痛む。
「……なんだ?」
油と埃の匂いが染み付いた薄暗い工場内に、不似合いな白い煙が漂っている。
奥の居住スペースから、ガチャガチャと金属がぶつかる派手な音が聞こえてきた。
どうやら、昨夜の出来事は夢ではなかったらしい。
重い体を起こし、足を引きずるようにして台所へ向かう。
そこには、昨日廃棄区画から拾ってきたばかりの旧型アンドロイドがいた。
宗一のお下がりのヨレヨレのシャツを不格好に羽織り、フライパンを片手に右往左往している。
「あわわわ、どうしましょう! 煙が止まりません!」
コンロの火は全開で、フライパンの上では黒い炭の塊のようなものがくすぶっていた。
「おい、何やってんだ!」
宗一は慌てて駆け寄り、コンロの火を止めた。換気扇を最大風量に切り替え、むせ返る煙を外へ逃がす。
「ご、ごめんなさい……。朝ごはんを作ろうと思ったんですが、火加減の計算を間違えてしまって」
少女の姿をしたアンドロイドは、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「おとうさん、おはようございます」
その言葉を聞いた瞬間、宗一の心臓が再び大きく跳ねた。
おとうさん。
生前の結衣も、宗一をそう呼んでいた。だが、目の前の機械が発するイントネーションは、娘のそれとは微妙に異なっている。
結衣は語尾を少し伸ばすような、甘えるような響きを持たせていた。しかし、この機体の発音はどこか平坦で、独特のアクセントが混じっている。
違う。結衣じゃない。
頭では分かっているのに、その呼び名を聞くたびに胸の奥がギリギリと締め付けられる。
「……その呼び方はやめろ」
「えっ? でも、わたしの初期設定にはそう登録されています」
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
宗一は舌打ちをし、昨夜放置したままだった携帯端末の画面を睨みつけた。
接続した機体の内部データが表示されている。
呼称設定は一件のみ。
そして、その下にある設計者の欄。
そこにははっきりと『結衣』の名前が刻まれていた。
さらに、機体の個体識別名として『AKARI』という文字列が登録されている。
アカリ。
娘が設計し、俺を親として認識するように設定された機体。
「お前は……一体何なんだ」
「わたしはアカリです! おとうさんの役に立つために起動しました!」
満面の笑みで答えるアカリ。その足元には、焦げた卵の殻が散乱していた。
「役に立つって……朝から台所を火事にしかけてるじゃないか」
「それは、その……学習データが不足していただけで、次は完璧な目玉焼きを作ってみせます!」
アカリは胸を張ったが、そのシャツの裾からは焦げた卵の破片がポロポロとこぼれ落ちていた。
「目玉焼きだと?」
「はい! 過去の記録を参照したところ、あなたが一番よく食べていた朝食のメニューだと推測されました!」
宗一は言葉を失った。
確かに、結衣が生きていた頃、休日の朝はよく目玉焼きを焼いてやった。
だが、そんな個人的な記録が、なぜこの機体のデータに入っているのか。
宗一は深いため息をつき、散らかった台所を見渡した。
娘を喪ってからというもの、この場所でまともな食事を作った記憶がない。
いつもはコンビニの弁当か、栄養補助食品で済ませていた。
誰かが台所に立ち、不器用ながらも自分のために何かを作ろうとしている。
その事実が、凍りついていた宗一の日常に小さな波紋を広げていた。
「宗一ちゃん、生きてるかい?」
ガラガラと工場の引き戸が開く音とともに、甲高い声が響いた。
近所で食堂を営むトヨだ。割烹着姿の彼女は、ずっしりと重そうなタッパーを両手に抱えている。
「また徹夜したんだろ。顔色が土気色だよ。ほら、余り物の煮っ転がしを持ってきたから……って、あれ?」
トヨの言葉が途切れた。彼女の視線の先には、焦げたフライパンを必死に洗おうとしているアカリの後ろ姿があった。
「……宗一ちゃん、あんた、ついにそういう趣味に走ったのかい?」
「馬鹿言うな。昨日、廃棄区画で拾ったガラクタだ」
宗一はぶっきらぼうに答え、トヨからタッパーを受け取った。
「ガラクタって……こんな可愛い子を捕まえて、なんて言い草だい」
トヨは呆れたようにため息をつき、アカリに近づいた。
「お嬢ちゃん、見ない顔だね。あんた、名前は?」
「アカリと申します! おとうさんのお手伝いをするためにやってきました!」
アカリは濡れた手をシャツの裾で拭きながら、元気よくお辞儀をした。
「おとうさん……?」
トヨは目を丸くして宗一を振り返った。
「おい、変な誤解をするな。こいつのシステムがおかしいだけだ。部品取りが終わったら、すぐに捨てる」
宗一は目を逸らし、タッパーを冷蔵庫に押し込んだ。
「ふうん。捨てるねえ」
トヨはニヤニヤと笑いながら、アカリの頭を撫でた。
「あんた、ポンコツみたいだけど、なかなかいい子じゃないか。宗一ちゃんは口が悪いけど、根は優しいからね。しっかり面倒見てもらうんだよ」
「はい! わたし、一生懸命がんばります!」
「そうだ、これ、おばちゃんが作った煮っ転がしだよ。宗一ちゃんに食べさせてやっておくれ」
トヨがタッパーを指差すと、アカリは目を輝かせた。
「煮っ転がし、ですね! 成分を分析して、次回からわたしが完璧に再現してみせます!」
「あはは、こりゃ頼もしいね。アンドロイドはご飯食べないだろうけど、今度うちの食堂にもおいで。オイルくらいならご馳走してあげるからさ」
トヨは満足そうに頷き、宗一の肩をポンと叩いた。
「あんたの所に、こんな賑やかな子が来るなんてね。少しは人間らしい生活に戻りなよ」
それだけ言い残して、トヨは嵐のように去っていった。
残された工場には、再び奇妙な沈黙が降りた。
「……さてと」
宗一は気を取り直し、作業台に向かおうとした。
「おとうさん! わたし、お掃除します!」
アカリがどこからかバケツと雑巾を引っ張り出してきた。
「いや、お前はもう何もしなくていい。そこに座ってろ」
「そんなわけにはいきません! わたしの存在意義は、あなたのお役に立つことですから!」
言うが早いか、アカリは雑巾を濡らし、床を拭き始めた。
宗一はため息をつき、基板の修理に取り掛かった。
背後から、キュッ、キュッと床を擦る音が聞こえてくる。
最初は順調そうに見えた。だが、アカリが作業台の奥に近づいた時、宗一の表情が険しくなった。
そこには、結衣が子供の頃に大切にしていた、壊れたオルゴールが置かれている。
「おい、そこは触るな」
「えっ?」
アカリが手を止める。
「その箱には触るな。埃を被っていても構わない」
「でも、汚れていますよ? わたしが綺麗にします!」
「いいから、触るなと言ってるんだ!」
宗一の強い口調に、アカリはビクッと肩を震わせた。
「……はい。ごめんなさい」
彼女はシュンと俯き、作業台の脚の周りへと移動した。
宗一は舌打ちをし、再び手元の基板に目を落とした。
つい声を荒げてしまった。ただの機械相手に、何をムキになっているのか。
背後から、再び雑巾がけの音が聞こえ始める。
しかし、数分後、その音に奇妙な変化が生じた。
トン、トトン、トン。
雑巾を動かすリズムが、突然不規則になったのだ。
宗一は手を止め、振り返った。
アカリは作業台の脚の周りを拭いていた。しかし、その動きは明らかに異常だった。
右手を三回動かした後、左手で床を一度叩く。そして、首を右に四十五度傾け、再び右手を動かす。
トン、トトン、トン。
まるで何かの儀式のように、その奇妙な動作を繰り返している。
「おい、アカリ。何やってるんだ?」
宗一が声をかけた瞬間。
アカリの足が、自分自身の左手に引っかかった。
「あわっ!?」
バランスを崩した彼女は、そのまま前方に倒れ込んだ。
ガシャーン!
盛大な音を立てて、水の入ったバケツがひっくり返る。
冷たい水が、工場のコンクリート床に勢いよく広がっていった。
「あ、あわわわ……! ご、ごめんなさい! また失敗しちゃいました!」
アカリは水浸しの床でパニックになり、濡れた雑巾を振り回している。
「……お前なぁ」
宗一は頭を抱えた。
ただのポンコツだ。そう思えばそれまでだ。
だが、宗一の脳裏には、先ほどの奇妙なリズムが焼き付いていた。
トン、トトン、トン。
あれは、単なる動作不良やバグの類なのだろうか。
特定の場所で、特定の規則性を持って繰り返されたあの動き。
まるで、あらかじめプログラムされた暗号か何かのように見えた。
結衣が設計した、この『AKARI』という機体。
俺を親として認識し、不器用ながらも必死に寄り添おうとする存在。
その裏には、一体何が隠されているのか。
水浸しの床を這い回るアカリを見下ろしながら、宗一の胃の奥に冷たいしこりが落ちた。
娘は、この機体に何を託したのか。
換気扇の低い唸り声が、答えのない問いをかき消すように響き続けていた。




