第21話
火花を散らす操作盤の隙間に指をねじ込み、強引にこじ開けた扉の向こうへ滑り込む。
背後で重金属が擦れ合う鈍い衝突音が響いたが、振り返る余裕はなかった。柚木が文字通り命を懸けて稼いでくれた数秒を、無駄にするわけにはいかない。
部屋の中は、通路とは打って変わって異様な静けさに満ちていた。床も壁も継ぎ目のない無機質な白で覆われ、中央に設置された円形の接続架台だけが、青白いインジケータの光を天井へ投げかけている。
「アカリ……!」
架台の中央、金属製の固定アームに拘束された小さな身体を見つけ、俺は床を蹴った。
駆け寄った視線の先で、アカリは力なく頭を垂れていた。首筋のメンテナンスハッチが乱暴に開放され、太い光ファイバーケーブルが何本も直接プラグインされている。露出した端子からは絶え間なく青い光の明滅が漏れ出し、冷却ファンの高周波がかすかに耳を刺した。
「おい、アカリ! 返事をしろ!」
固定具の外側から、冷え切ったその細い肩を揺さぶる。
けれど、反応はない。普段なら宗一さん、ではなく『お父さん』と、少しぎこちないアクセントで嬉しそうに跳ねるはずの声が返ってこない。
まぶたがわずかに持ち上がり、ガラス玉のような人工瞳孔が露わになった。しかし、その瞳には何の焦点も結ばれていなかった。虹彩の奥で青いエラーログが幾重にも高速スクロールし、乾いたアクチュエータの駆動音だけが喉の奥から小さく鳴っている。
「ア……か……にん、しき……えらー……」
かすれた合成音声が、途切れ途切れに漏れ出す。
「わたし……は……おとう、さんの……なにかを……こわして……」
「喋るな、今外してやるからな」
俺は作業着のポケットから使い慣れたラチェットレンチを引き抜き、アームの固定ボルトに噛ませた。だが、強固な電磁ロックが噛み合っており、生半可な力ではビクともしない。
頭上の大型モニターに視線を走らせる。そこに表示されていた文字列を目にした瞬間、俺の指先が凍りついた。
『システム初期化シークエンス:フェーズ4進行中』
『個別学習領域データ消去率:87%』
『完了まで:残り60秒』
淡々とした機械のカウントダウンが、赤く点滅していた。
『警告。初期化プロセスが最終段階に入りました』
室内のスピーカーから、抑揚のないアナウンスが響き渡る。
『パーソナルログの完全消去完了後、深層保護領域【YUI_LAST_LOG】の暗号化が完全解凍されます。対象機体は工場出荷時状態へとロールバックされます』
88%、89%と、無情に数字が跳ね上がっていく。
あの男――霧島の言葉が、頭の奥底で嫌らしく木霊した。
結衣が遺した最期の真実。娘が死の直前まで何を思い、何を願ってあの機体を遺したのか。そのすべてが、あの暗号化された領域の中に眠っている。
知りたいと、ずっと思っていた。
あの日、唐突に娘を奪われてから、俺の時間は完全に止まっていた。なぜあんな事故が起きたのか。あいつは最期に、父親である俺に何を言いたかったのか。すれ違ったまま二度と交わらなくなった言葉の欠片を拾い集めることだけが、俺の生きる目的だったはずだ。
初期化を完了させれば、そのすべてが手に入る。
結衣の最後の声が、姿が、想いが、俺の元に戻ってくる。
「う……あ……」
ノイズを軋ませ、アカリの指先が虚空を掻いた。
このまま待てば、結衣の言葉が聞ける。
だが――その代わりに、目の前にいるこいつは消える。
初めて修理工場で目を覚ました日、おぼつかない足取りで転びそうになったこと。醤油とみりんを間違えて真っ黒な煮物を作ったこと。不器用に笑いながら、世界で一番誇らしげに俺を呼んだ、あの独特な声。
それらすべてが、ただの「ゴミデータ」として消滅し、二度と戻らない空っぽの機械に戻ってしまう。
ポケットの奥に突っ込んだ右手が、ある硬い感触に触れた。
油の染みた作業着の底から引っ張り出したのは、手のひらサイズの小さな木箱だった。結衣が幼い頃に大切にしていた、とっくにネジの切れた形見の品だ。角が擦り減り、蓋の模様も色褪せて、どれだけゼンマイを巻いても音ひとつ鳴らなくなった残骸。
俺はこれまで、この音の出ないガラクタを握りしめて、暗闇の中で蹲っていた。
娘の死という現実から目を背け、過去の幻影にすがりついて、自分が生きていることすら誤魔化してきたのだ。
だが、俺の埃をかぶった作業場に、朝の光を連れてきたのは誰だった?
焦げたトーストを皿に載せて、怒られるのをビクビク待っていたのは誰だ。
指先を油まみれにして、動かない木箱を夜遅くまで直そうとしていたのは誰だ。
『のこり、さんじゅう……びょう……』
アカリの瞳から、完全に光が失われかけていた。焦点の合わない視線が、虚空を彷徨っている。
「おとう……さん……わたし……おやくに……たてま、した……か……?」
途切れ途切れの、今にも消え入りそうな電子音。
それが、こいつの魂の叫びのように聞こえた。
過去の遺言を聞くために、今ここで息をしているお前を殺すのか?
そんなことを、あいつが――俺の娘だった結衣が、望むはずがあるか。
「……すまねえな、結衣」
俺は木箱をポケットの奥深くへと押し戻した。迷いは、もう微塵もなかった。
「俺は、お前が残した過去に生きるんじゃない」
レンチを床へ投げ捨て、接続架台の天板に飛び乗る。
「残り十五秒。最終セクターの上書きを開始します」
無機質なアナウンスが宣告する中、俺はアカリの首の後ろに張り巡らされた、極太の主接続ケーブルの束に両手をかけた。
感電防止の安全リミッターなど無視して、素手で力任せに掴み取る。
高圧電流のパルスが手のひらを焼き、鋭い痛みが走った。だが、指を緩める気など毛頭ない。
「宗一さん! それを今抜いたら、機体の回路が焼き切れる可能性が――!」
背後の扉から、肩を押さえ血を流した柚木が飛び込んできて叫ぶのが見えた。だが、俺は止まらない。
「賭けてやるよ! こいつの命にな!」
俺はアカリの顔を真正面から見据えた。光を失いかけたその瞳の奥を、真っ直ぐに睨みつける。
「おい、アカリ! 目を開けろ!」
腹の底から、ありったけの声を張り上げた。
「俺の娘は――今ここにいる、お前だ!!」
全身の筋肉を軋ませ、体重のすべてを後ろへ預けてケーブルの束を一気に引き抜いた。
バチィィィンッ!
激しい破裂音とともに、青白い閃光が視界を埋め尽くした。端子から火花が噴き出し、焦げた絶縁ゴムの臭いが鼻腔を突く。凄まじい逆起電力の衝撃が腕を伝って全身を打ちのめし、俺は架台から床へと叩きつけられた。
モニターに映し出されていたプログレスバーが乱れ、画面全体が真っ赤な『CRITICAL ERROR: CONNECTION LOST』の文字で埋め尽くされる。
そして――すべての機械音が、嘘のように消え去った。
荒い息を吐きながら、痛む体を起こす。床に散らばる千切れたケーブルの隙間を這うようにして、アカリの元へと手を伸ばした。
電磁ロックが強制解除され、拘束アームがゆっくりと開いていた。
支えを失ったアカリの身体が、前へと倒れ込んでくる。
「アカリ……!」
俺は滑り込み、その小さな身体を腕の中に受け止めた。
ずっしりとした金属とシリコンの重み。だが、抱きしめた機体からは何の駆動音も聞こえない。首筋のインジケータは完全に消灯し、瞳の奥の灯火も消え失せていた。
部屋の中には、ただ俺の荒い呼吸の音と、換気ダクトの低い風鳴りだけが響いている。
「おい……アカリ……起きろ」
頬に手を添える。冷え切った人工皮膚の感触。
強制切断の負荷による完全沈黙。システムが破壊されたのか、それともスリープに入っただけなのか、外見からは判別がつかない。
「頼むから……返事をしてくれ……」
抱きしめる腕に力を込める。
過去を捨てて、俺はお前を選んだんだ。頼むから、俺を一人にしないでくれ。
無音の闇が部屋を満たす中、俺の掌に触れていたアカリの胸元――その奥深くにあるメインプロセッサのあたりから、極めて微かな、トクンという起動前の予備励磁の熱が、かすかに伝わってきた気がした。




