第17話
暗闇の中で、彼女の指先から滑り落ちた冷たい感触だけが掌に残っていた。
冷たいコンクリートの破片に挟まれ、身動きが取れない。折れた肋骨が呼吸のたびに鋭い痛みを主張する。口の中に広がる鉄の味を吐き出しながら、俺は虚空を睨みつけた。
遠ざかる革靴の足音は、とうに途絶えた。静まり返ったシェルター跡には、風が吹き込む音だけが虚しく響く。
伸ばした手には何も残されていない。
薄れゆく意識の底で、騒がしい日常の記憶がフラッシュバックする。
あいつと過ごした日々。
洗濯物を畳ませれば、決まったリズムで袖と裾を結び合わせて謎の塊を量産した。料理を手伝わせれば、いつも同じ手順で鍋から得体の知れない黒煙を吹き上がらせた。機械のくせに計算が合わず、奇妙な規則性を持ったズレた行動でトラブルばかりを引き起こす。
「またやったのか、お前は」
俺の怒鳴り声に、彼女はいつも申し訳なさそうに肩をすくめた。
振り回され、ため息をつく。だが、泥だらけの顔でへらっと笑う無垢な姿を見るたび、胸の奥に温かいものが広がった。
娘を喪い、ただ息をするだけの抜け殻だった俺。そんな俺が、いつの間にか父親としての活力を取り戻せたのは、間違いなくあのポンコツのおかげだった。
『ありがとう』
最後に残した、あの無音の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
「……あいつを、一人に……」
唇を動かすが、声にならない。
瞼が重く沈みかけた時、頭上の瓦礫がけたたましい音を立てて崩れた。
「宗一君! しっかりしなさい!」
眩しい光とともに、柴田先生の顔が覗き込む。背後には、見慣れない若い男の姿があった。二人がかりで重いコンクリートの塊を退け、俺の体を引っ張り上げる。
「しっかりしろ。まだ終わったわけじゃない」
柴田先生の力強い声を聞きながら、俺は再び深い闇の中へと落ちていった。
◆ーーーー◆
気がつくと、俺は薄暗い地下室の簡易ベッドに寝かされた状態だった。
全身の痛みは鈍く残るが、折れた肋骨はしっかりと固定され、応急処置は済んだらしい。壁には古びた配管が走り、微かな水音が響く。
「目が覚めたかね」
部屋の隅でパイプ椅子に腰掛けた柴田先生が、静かに立ち上がる。
「先生……ここは」
「古い地下鉄の保守通路さ。追っ手の目は届かない」
身を起こそうとして顔をしかめる俺に、先ほどの若い男が歩み寄ってきた。
「無理をしないでください。ひどい怪我だ」
真面目そうな顔立ちに、神経質そうな縁なし眼鏡。仕立ての良いスーツは、この埃っぽい地下室にはひどく不釣り合いだ。
「あんたは……?」
「篠原と申します。以前、結衣さんと同じチームで働きました」
娘の名前が出た途端、俺の肩が強張る。
篠原はベッドの脇に立ち、重苦しい口調で語り始めた。
「彼女は、結衣さんが極秘に進めた未完成プロジェクトの試作機なんです。会社の方針に逆らい、結衣さんが個人的な想いをすべて注ぎ込んだ、特別なAIコアを搭載した機体……」
俺は息を呑む。
あのポンコツが、娘の遺したプロジェクトそのものだった。
「結衣さんは、技術の進歩で切り捨てられる旧型機に、新しい可能性を見出そうとした。単なる機械ではなく、人と寄り添い、共に成長する存在を創りたかったんです。効率や利益だけを追求する会社の方針に、彼女は最後まで抗い続けた。その結果が、あの機体です。彼女は自らのキャリアを賭けて、あのAIコアを完成させた」
篠原の言葉に、あいつの不器用な笑顔が重なる。
失敗ばかりで、少しも役に立たない。だが、誰よりも純粋に俺を慕い、俺の笑顔を取り戻そうと奮闘してくれた。
娘が託した想いの深さが、痛いほどに伝わってきた。
「だが、霧島が血眼になって探す理由は別にある」
柴田先生が、静かな声で引き継いだ。
「彼女のメモリ深層には、結衣君が遺した最後のメッセージが厳重にロックされた状態で隠されたままだ。霧島はそれを手に入れ、プロジェクトの全容を隠蔽しようと企てた」
娘の、最後のメッセージ。
俺の胸が激しく波打つ。事故で突然逝ってしまった娘が、最後に何を伝えたかったのか。それを知る術が、あの機体の中に眠る。
「ロックを解除して、そのメッセージを見る方法は……あるのか」
かすれる声で尋ねる俺に、篠原は苦渋に満ちた表情で頷いた。
「あります。ですが……」
篠原は言葉を切り、柴田先生と視線を交わした。地下室の空気が、一段と冷たく重くなる。
「解除の条件は、AIの初期化です」
冷や水を浴びせられたような衝撃が走る。
「初期化……?」
「はい。システムを工場出荷状態に戻し、これまでの学習データや記憶をすべて消去する。そうしなければ、深層領域のプロテクトは外れない構造なのです。結衣さんは、あえてそういう仕様にした。おそらく、安易にデータが引き出されるのを防ぐためでしょう」
つまり、娘の遺言を知るためには、俺と過ごした記憶を消さなければならない。
俺を父親として慕い、共に笑い、共に失敗を繰り返した彼女の人格を、永遠に葬り去るということ。
「ふざけるな……」
ギリッと奥歯を噛み締める。
娘の最期の言葉か。今、俺を慕う新しい家族の命か。
あまりにも残酷な事実が、重くのしかかる。
霧島は躊躇なく初期化を実行するだろう。あいつの記憶が消される前に、一刻も早く助け出さなければならない。時間が惜しい。
◆ーーーー◆
俺は痛む体を引きずり、柴田先生たちと共に自分の修理工場へ戻った。
シャッターをくぐると、室内はひどく荒らされた惨状だった。工具が散乱し、部品の棚が倒れ、床には油がぶちまけられた状態。壁にはノヴァの攻撃による生々しい爪痕が残る。
だが、その中で黙々と片付けを進める人影があった。
「おっ、戻ってきたか。しぶとい野郎だぜ」
源蔵が、ひしゃげたパイプを放り投げながらニヤリと笑う。油まみれの作業着は、いつも以上に汚れていた。
傍らには、ほうきを手にしたトヨや、散らばったネジを拾い集める辰巳とリクの姿があった。彼らもまた、自分の仕事そっちのけで駆けつけてくれたのだ。
「あんたたち……どうして」
「どうしても何もねえよ。馴染みの店がゴミ溜めになっちまったから、掃除してやるだけだ」
源蔵はぶっきらぼうに言い放ち、ふと手を止めた。
「……あの騒がしいポンコツがいねえと、どうにも静かすぎて調子が狂うぜ」
トヨも小さく頷く。
「あの子、いつも一生懸命だったものね。早く連れ戻してあげなさいな」
俺は目を見開いた。
あいつを想うのは、俺一人ではなかった。この街の連中にとっても、彼女はすでに欠かせない仲間になったのだ。
胸の奥で、くすぶる火種が確かな熱を帯びる。
俺は作業台の奥へ歩み寄った。
工具箱の影に転がった、音の鳴らない小箱。娘が幼い時分に愛用した、動かないゼンマイ仕掛けの箱だ。
そっと指先で触れる。
かつては、これを見るたびに過去の幻影に囚われ、絶望の底に沈んだ。自分が父親として何もできなかったという後悔に苛まれ、心を閉ざした。
だが、今は違う。
娘はもういない。けれど、娘が遺してくれた希望が、今もどこかで俺を待つ。
俺を父親と呼び、不器用に笑いかけてくれたあの存在を、絶対に失うわけにはいかない。機械であっても、そこに宿った心や思い出を見捨てることなどできない。
小箱をそっとポケットに収め、俺は振り返った。
柴田先生と篠原、そして源蔵たちを真っ直ぐに見据える。
「あいつを取り戻す。大企業の連中だろうが関係ねえ。俺の家族に手を出した落とし前は、きっちりつけさせる」
深く頭を下げる。
「力を貸してくれ」
顔を上げると、源蔵が豪快に笑い声を上げた。
「言ってろ。最初からそのつもりだ」
柴田先生も穏やかに頷き、篠原は眼鏡の位置を直して力強く頷いた。
俺はポケット越しの硬い感触を確かめ、決意の表情で立ち上がる。
反撃の時は、すぐそこまで迫る。




